第四章 10
正午過ぎ。豊がジムに着くと、千尋がパソコンに向かって居眠りをしていた。起こさないよう、静かに事務所のドアを閉めたが、気配を感じたのか千尋は目を覚ました。
「大丈夫?疲れてるみたいだけど」
「そんなことないよ」
千尋は笑みを見せ、
「それより、これ…」
と、豊にファイルを見せた。
「プロボクサー志望なんだって」
「へえ… って、女の子じゃないですか!?」
豊の声が裏返った。椎名優夏、17歳と書いてある。
「そう、高校生なんだって。どうなのかな?」
豊の活躍により、荒川ジムへの入会希望者は増えた。しかし、本格的にプロを目指すという者は、今のところ一人もいなかった。
「本気でプロを目指すなら、うちじゃない方がいいと思うけど…」
荒川がトレーナーライセンスを持っているが、高齢で激しいトレーニングは望むべくもない。それに、最近は妻の看病で忙しく、ジムに来れる時間も多くなかった。豊も自分のことで精一杯である。アドバイスくらいならできるだろうが、プロデビューを真剣に考えているのなら、指導者と設備の充実したジムの方がいいのではないか。
「じゃあ断ろうか?」
「もったいないけど、その方が本人のためかと…」
日本も、女子のプロボクサーが誕生して数年が経っている。世界ベルトを巻いた選手もいるが、世間の認知度は男子の足元にも及ばない。プロを目指す女子高生には関心があるものの、やはり荒川ジムでのデビューは厳しいと、豊は思った。
この日は写真集の撮影があり、豊はスタジオに連れて行かれた。写真集には、試合や練習風景以外にも、私服姿の写真を多く取り入れるとのことで、スタイリストに言われるまま、着せ替え人形のように様々な服を着せられた。人生初のスーツまで着用するが、普段ウインドブレーカーしか着ない彼には、罰ゲームにしか感じられない時間だった。
「やっぱり、いい男は何を着ても様になるねえ」
と、渋谷が茶化すように言った。
「練習の時より汗だくですよ。まだ続くんですか?」
スタジオに入って、すでに三時間は経っている。
「あと二時間くらいじゃないかな」
「二時間も…」
豊はうなだれた。
「そう言えば昨日の夜、千尋さんを見かけたよ」
「そうなんですか?」
「うん。歌舞伎町なんだけど、男の人と一緒だったから声はかけなかったんだよね」
「何時頃ですか?」
「何時だったかなあ。多分、午前1時は過ぎてたと思うけど」
「1時…?」
豊は疑問に思った。その時間なら、千尋は居酒屋で働いているはずだ。
「あれ?なんかまずいこと言っちゃったかな?」
「いえ、そんなことないですよ」
豊は慌てて取り繕った。渋谷が見たのが本当に千尋で、仮に男と歩いていたとしても、豊がどうこう言える立場ではない。しかし、一昨日の涙があったので、少し心には引っかかった。
「気にしてもしょうがないか…」
撮影再開の声がかかり、再び豊は着せ替え人形となり、苦痛の時間を耐え続けた。
新富山県知事恐喝事件は、テレビや新聞でも大きく報道された。予想通り、梓のアパートにも富山県警の刑事が訪れた。豊を避難させた彼女の判断は、正しかったことになる。
大麻使用の件を問われると梓は覚悟していたが、刑事は一切触れてこなかった。竹内が否定しているのかもしれない。しかし、竹内との過去については、うんざりするほど問い質された。まさに身から出た錆だった。
梓の父親は謝罪会見で、
「娘の潔白を信じていたが、選挙戦が大詰めを迎えていたことを考慮し、犯人の要求に応じた」
と弁明した。ただし、当落の結果を問わず、選挙後には警察に相談する予定だったと付け加えた。会見後の質疑では、娘の薬物疑惑について追及されたが、そのような事実はなかったと突っぱねた。
会見をジムのテレビで見ていた千尋も、豊の名前が出なかったことに胸を撫で下ろしていた。
その日の午後、如月とスパーリングをする豊に、熱い視線を送るセーラー服姿の見学者がいた。スパーリングを終えた如月が千尋に言う。
「熱心ですね。ここんところ毎日来てますよ」
以前から彼は、その女子高生の存在に気づいていたようだ。
「あのコがプロ志望の入会希望者よ。他のジムを勧めたんだけど、荒川ジム以外ならやらないんだって」
千尋が説明すると、
「だったら、入ってもらえばいいじゃないですか?」
と、如月は呑気な口調で言った。
「誰が指導するのよ?」
「難しいかもしれないけど、本人にやる気があれば不可能ではないと思います。僕も協力しますよ」
挫折を経験しているからこそ、夢を追う者には頑張ってほしい。それが如月の考えだった。
「わかった、もう一回話してみる」
再度千尋との面談の末、椎名優夏の入会が決まった。
練習後の駅まで歩く間も、豊と千尋は新ジム生の話題を続けていた。
「夏休みは毎日来れるそうよ。明日は一日中、豊と行動してトレーニングの厳しさを体感してもらうつもり」
「親は反対してないのかなあ?俺なら、自分の子供にはボクシングをさせたくないけど」
未成年者の入会には、親の承諾が必要である。
「半年間、説得し続けてたみたいよ」
「でも、どうして他のジムじゃ駄目なのかな?FSGなんか、女子の世界王者もいて育成にも力を入れているのに」
荒川ジムは、ロッカーもトイレも男女兼用で、女子選手にとってあまりいい環境ではない。
「決まってるじゃない、豊と同じジムがいいんでしょ」
「そんな動機では、おそらくプロにはなれないと思うけど」
「私もそう思う。だから明日、豊と一緒にトレーニングさせるの。多分一日で音を上げるでしょう」
意地の悪い言い方であるが、豊も千尋に同感だった。生半可な気持ちでやるくらいなら、早いうちに見切りをつけた方が本人のためでもある。しかし、優夏の根性はなかなかのものだった。翌日、豊とのトレーニングを最後まで乗り切ったのだ。
「疲れたでしょ?」
如月が、リングの上で大の字になる優夏に声をかけたが、疲れ果てて返事すらできない。
「普通は、初日からこんなハードなメニューはしないんだ。君のやる気具合を確かめるために、あえて豊に付き合わせたんだよ」
「それで、本気度はわかってくれましたか?」
やっと優夏が言葉を発した。しかし、まだ起き上がることはできず、仰向けになったままだった。
「と言うことは、明日からも続ける気だね?」
「当然です。本気ですから」
音を上げるどころか、優夏の目は輝いている。この時、如月は絶対に彼女をプロデビューさせると心に誓った。
如月も多忙な毎日を過ごしている。予備校通いに荒川ジムでの指導、プラス豊のトレーニングパートナーと、二足どころか三足の草鞋状態だった。あまりにも忙しすぎて、高校の時から交際していた彼女に愛想をつかされてしまった。失恋のショックで落ち込んでいる彼に、
「私がジムの指導を頼んだせいよね」
と、千尋が申し訳なさそうに言った。実際その通りなのだが、引き受けたのは彼の意思なので仕方がない。
「可哀想だから慰め会してあげるよ」
千尋の発案により、豊を含め三人で小料理屋に集まった。
「またまた可愛いコ連れてきちゃって」
如月を見て、女将がご機嫌な声を上げた。
「彼女にフラれたばっかりなの。お姐さん、慰めてあげて」
千尋が笑いながら、如月の肩を叩いた。
「如月君はお酒飲むの?」
「未成年なので、大きな声では言えませんが…」
「飲めるのね。じゃあ付き合いなさい。豊は駄目よ、減量がキツくなるから」
「仲間外れ…」
と、豊はすねたが、楽しそうな千尋を見て安心していた。ここのところ、表情が暗く気になっていたからだ。話題は、今日からトレーニングを始めた優夏が中心となる。
「中学からバスケをやってるみたいだけど、体力と精神力は相当あると思う」
一日付き合った豊は、優夏のポテンシャルに合格点をつけた。彼の日課である20キロのロードワークにも、必死に食らいついて完走したのだ。
「部活じゃ、そんなに走らないだろうしね。相当きつかったと思うよ。とにかくハートが強い」
如月も、優夏のガッツを認めている。
「彼女用の練習メニューを作ってきます。豊と同じってわけにはいかないし、まずは基礎体力からつけていかないと」
「如月君、張り切るね。もしかして、もう優夏ちゃんに惚れちゃったとか?」
「そんなんじゃないですよ。豊に対してもそうなんだけど、一生懸命な人って応援したくなるんですよ。千尋さんだってそうでしょ?」
「そうだね。応援したくなるだけじゃなく、自分も頑張らなきゃって気にもなる」
「でしょう?俺も同じですよ」
意気投合して盛り上がる千尋と如月を見ながら、豊は心地好さを感じている。そして、いつか小倉が言っていた、
「人は独りでは生きていけない。感謝を忘れるな」
という言葉を思い出していた。




