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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
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第四章 10

 正午過ぎ。豊がジムに着くと、千尋がパソコンに向かって居眠りをしていた。起こさないよう、静かに事務所のドアを閉めたが、気配を感じたのか千尋は目を覚ました。

「大丈夫?疲れてるみたいだけど」

「そんなことないよ」

 千尋は笑みを見せ、

「それより、これ…」

 と、豊にファイルを見せた。

「プロボクサー志望なんだって」

「へえ… って、女の子じゃないですか!?」

 豊の声が裏返った。(しい)()(ゆう)()、17歳と書いてある。

「そう、高校生なんだって。どうなのかな?」

 豊の活躍により、荒川ジムへの入会希望者は増えた。しかし、本格的にプロを目指すという者は、今のところ一人もいなかった。

「本気でプロを目指すなら、うちじゃない方がいいと思うけど…」

 荒川がトレーナーライセンスを持っているが、高齢で激しいトレーニングは望むべくもない。それに、最近は妻の看病で忙しく、ジムに来れる時間も多くなかった。豊も自分のことで精一杯である。アドバイスくらいならできるだろうが、プロデビューを真剣に考えているのなら、指導者と設備の充実したジムの方がいいのではないか。

「じゃあ断ろうか?」

「もったいないけど、その方が本人のためかと…」

 日本も、女子のプロボクサーが誕生して数年が経っている。世界ベルトを巻いた選手もいるが、世間の認知度は男子の足元にも及ばない。プロを目指す女子高生には関心があるものの、やはり荒川ジムでのデビューは厳しいと、豊は思った。


 この日は写真集の撮影があり、豊はスタジオに連れて行かれた。写真集には、試合や練習風景以外にも、私服姿の写真を多く取り入れるとのことで、スタイリストに言われるまま、着せ替え人形のように様々な服を着せられた。人生初のスーツまで着用するが、普段ウインドブレーカーしか着ない彼には、罰ゲームにしか感じられない時間だった。

「やっぱり、いい男は何を着ても(さま)になるねえ」

 と、渋谷が茶化すように言った。

「練習の時より汗だくですよ。まだ続くんですか?」

 スタジオに入って、すでに三時間は経っている。

「あと二時間くらいじゃないかな」

「二時間も…」

 豊はうなだれた。

「そう言えば昨日の夜、千尋さんを見かけたよ」

「そうなんですか?」

「うん。歌舞伎町なんだけど、男の人と一緒だったから声はかけなかったんだよね」

「何時頃ですか?」

「何時だったかなあ。多分、午前1時は過ぎてたと思うけど」

「1時…?」

 豊は疑問に思った。その時間なら、千尋は居酒屋で働いているはずだ。

「あれ?なんかまずいこと言っちゃったかな?」

「いえ、そんなことないですよ」

 豊は慌てて取り繕った。渋谷が見たのが本当に千尋で、仮に男と歩いていたとしても、豊がどうこう言える立場ではない。しかし、一昨日の涙があったので、少し心には引っかかった。

「気にしてもしょうがないか…」

 撮影再開の声がかかり、再び豊は着せ替え人形となり、苦痛の時間を耐え続けた。


 新富山県知事恐喝事件は、テレビや新聞でも大きく報道された。予想通り、梓のアパートにも富山県警の刑事が訪れた。豊を避難させた彼女の判断は、正しかったことになる。

 大麻使用の件を問われると梓は覚悟していたが、刑事は一切触れてこなかった。竹内が否定しているのかもしれない。しかし、竹内との過去については、うんざりするほど問い質された。まさに身から出た錆だった。

 梓の父親は謝罪会見で、

「娘の潔白を信じていたが、選挙戦が大詰めを迎えていたことを考慮し、犯人の要求に応じた」

 と弁明した。ただし、当落の結果を問わず、選挙後には警察に相談する予定だったと付け加えた。会見後の質疑では、娘の薬物疑惑について追及されたが、そのような事実はなかったと突っぱねた。

 会見をジムのテレビで見ていた千尋も、豊の名前が出なかったことに胸を撫で下ろしていた。

 その日の午後、如月とスパーリングをする豊に、熱い視線を送るセーラー服姿の見学者がいた。スパーリングを終えた如月が千尋に言う。

「熱心ですね。ここんところ毎日来てますよ」

 以前から彼は、その女子高生の存在に気づいていたようだ。

「あのコがプロ志望の入会希望者よ。他のジムを勧めたんだけど、荒川ジム以外ならやらないんだって」

 千尋が説明すると、

「だったら、入ってもらえばいいじゃないですか?」

 と、如月は呑気な口調で言った。

「誰が指導するのよ?」

「難しいかもしれないけど、本人にやる気があれば不可能ではないと思います。僕も協力しますよ」

 挫折を経験しているからこそ、夢を追う者には頑張ってほしい。それが如月の考えだった。

「わかった、もう一回話してみる」

 再度千尋との面談の末、椎名優夏の入会が決まった。


 練習後の駅まで歩く間も、豊と千尋は新ジム生の話題を続けていた。

「夏休みは毎日来れるそうよ。明日は一日中、豊と行動してトレーニングの厳しさを体感してもらうつもり」

「親は反対してないのかなあ?俺なら、自分の子供にはボクシングをさせたくないけど」

 未成年者の入会には、親の承諾が必要である。

「半年間、説得し続けてたみたいよ」

「でも、どうして他のジムじゃ駄目なのかな?FSGなんか、女子の世界王者もいて育成にも力を入れているのに」

 荒川ジムは、ロッカーもトイレも男女兼用で、女子選手にとってあまりいい環境ではない。

「決まってるじゃない、豊と同じジムがいいんでしょ」

「そんな動機では、おそらくプロにはなれないと思うけど」

「私もそう思う。だから明日、豊と一緒にトレーニングさせるの。多分一日で()を上げるでしょう」

 意地の悪い言い方であるが、豊も千尋に同感だった。生半可な気持ちでやるくらいなら、早いうちに見切りをつけた方が本人のためでもある。しかし、優夏の根性はなかなかのものだった。翌日、豊とのトレーニングを最後まで乗り切ったのだ。

「疲れたでしょ?」

 如月が、リングの上で大の字になる優夏に声をかけたが、疲れ果てて返事すらできない。

「普通は、初日からこんなハードなメニューはしないんだ。君のやる気具合を確かめるために、あえて豊に付き合わせたんだよ」

「それで、本気度はわかってくれましたか?」

 やっと優夏が言葉を発した。しかし、まだ起き上がることはできず、仰向けになったままだった。

「と言うことは、明日からも続ける気だね?」

「当然です。本気ですから」

 音を上げるどころか、優夏の目は輝いている。この時、如月は絶対に彼女をプロデビューさせると心に誓った。


 如月も多忙な毎日を過ごしている。予備校通いに荒川ジムでの指導、プラス豊のトレーニングパートナーと、二足どころか三足の草鞋状態だった。あまりにも忙しすぎて、高校の時から交際していた彼女に愛想をつかされてしまった。失恋のショックで落ち込んでいる彼に、

「私がジムの指導を頼んだせいよね」

 と、千尋が申し訳なさそうに言った。実際その通りなのだが、引き受けたのは彼の意思なので仕方がない。

「可哀想だから慰め会してあげるよ」

 千尋の発案により、豊を含め三人で小料理屋に集まった。

「またまた可愛いコ連れてきちゃって」

 如月を見て、女将がご機嫌な声を上げた。

「彼女にフラれたばっかりなの。お姐さん、慰めてあげて」

 千尋が笑いながら、如月の肩を叩いた。

「如月君はお酒飲むの?」

「未成年なので、大きな声では言えませんが…」

「飲めるのね。じゃあ付き合いなさい。豊は駄目よ、減量がキツくなるから」

「仲間外れ…」

 と、豊はすねたが、楽しそうな千尋を見て安心していた。ここのところ、表情が暗く気になっていたからだ。話題は、今日からトレーニングを始めた優夏が中心となる。

「中学からバスケをやってるみたいだけど、体力と精神力は相当あると思う」

 一日付き合った豊は、優夏のポテンシャルに合格点をつけた。彼の日課である20キロのロードワークにも、必死に食らいついて完走したのだ。

「部活じゃ、そんなに走らないだろうしね。相当きつかったと思うよ。とにかくハートが強い」

 如月も、優夏のガッツを認めている。

「彼女用の練習メニューを作ってきます。豊と同じってわけにはいかないし、まずは基礎体力からつけていかないと」

「如月君、張り切るね。もしかして、もう優夏ちゃんに惚れちゃったとか?」

「そんなんじゃないですよ。豊に対してもそうなんだけど、一生懸命な人って応援したくなるんですよ。千尋さんだってそうでしょ?」

「そうだね。応援したくなるだけじゃなく、自分も頑張らなきゃって気にもなる」

「でしょう?俺も同じですよ」

 意気投合して盛り上がる千尋と如月を見ながら、豊は心地好さを感じている。そして、いつか小倉が言っていた、

「人は独りでは生きていけない。感謝を忘れるな」

 という言葉を思い出していた。


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