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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
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第四章 9

 北原が帰り、豊がトレーニングに没頭している最中、千尋が関東スポーツの渋谷と話し込んでいた。

「写真集ですか!?」

 思わず千尋の声が裏返った。

「そうなんです。頃合いじゃないかと思いましてね」

「いやいや、写真集なんて… アイドルじゃないんですから…」

 やや呆れ気味の千尋に、

「米崎君はすでにアイドルですよ。この前、うちで出してる雑誌で紹介したでしょう?あの反響がすごかったんです。それで、デスクに起案したらオーケーが出ましてね。写真集と言っても、雑誌仕様の廉価版なんですが、一冊丸ごと米崎豊で埋め尽くします。うちの社は、早いうちから彼に注目してたので、素材もたくさんありますしね」

 と、渋谷は力説した。

「売れるんですか?」

 出したはいいが、売れなければ豊が傷つくのではと千尋は案じた。だが、渋谷は自信ありげに答える。

「売れる見込みがなければ作りません。それで、千尋さんにも寄稿していただければと思ってるんですよ」

 との言葉に、千尋は目を輝かせた。

「本当ですか!?」

「はい。誰よりも彼を知る人ですからね。いい原稿を期待しています」

「ありがとうございます!」

 豊の意見も聞かず、千尋は写真集の製作を承諾した。


 夜になり、豊と千尋はジムを出て駅に向かった。

「走らなくていいの?」

「駅から走ります」

「良かった!話したいこといっぱいあるからさ」

 いつになくテンションの高い千尋を、豊は微笑ましく思った。よほど原稿の依頼が嬉しかったのだろう。

 駅に着くまでの間、千尋は気分良く喋り続けていた。だが、豊と別れ電車に乗った途端、顔を引きつらせる。金本が横にいたのだ。

「今から出勤かな?」

 お忍びの有名人よろしく、金本はサングラスをかけマスクをしていた。

「そうですけど」

 千尋は感情のない返事をする。さっきまでの上機嫌が、一瞬にして吹き飛んでいた。

「千尋ちゃんさあ… あんまりツンケンするなよ。俺とあんたは赤の他人じゃないんだぞ?」

 こめかみが無意識に反応したが、千尋は返事をしなかった。

「次の休みはいつだ?飯でも食いに行かないか?」

「休みも忙しいので、申し訳ないんですが…」

「だからよ、そんな態度を取れる立場じゃないって、この前説明したつもりだがな」

 金本が低い声で言うと、

「わかりました。食事だけなら行きます。今からでも構いませんか?」

 と、あっさり千尋は了承した。

「今からって、仕事じゃないのか?」

「遅れて行きます。嫌なことは早く終わらせたいので」

「あんまりズバズバと傷つく言葉を吐くんじゃねえよ。こう見えても俺はデリケートなんだぜ」

 と言いながら、金本はニヤリと笑った。


 電車を降りた二人は、駅から近い居酒屋に入った。

「もっといい店に連れて行きたいんだが、突然だからな」

 二人は個室に通される。

「何飲むんだ?」

「食事だけなので、お酒は結構です」

 千尋は、アルコールのメニューを突き返した。

「つまらねえ女だな」

 と吐き捨てる金本に、千尋は心の中で苦笑していた。つまらない、愛嬌がない、彼女がよく男に言われる台詞だった。そして彼女自身、それを自覚している。

「米崎と付き合ってるのか?」

「いえ…」

 と聞かれ、千尋は思い出していた。ソープランドで初めて金本と会った時に、豊を知っているかと尋ねたことを。その時、金本は「そんなヤツは知らない」と言っていたのだ。今や〝そんなヤツ〟が、世界チャンピオンをしのぐ知名度を得ている。当然、金本は面白くないだろうが、千尋にしてみれば笑止千万だった。

「うちのトレーナーが、俺と米崎との防衛戦を企んでるようだけどな」

「そうなんですか?」

 千尋は、とぼけて聞き返した。会話を膨らませる気はないものの、この話題にだけは食いつかずにはいられなかった。

「聞いてないのか?北原さんは米崎のマネージメントしてるんだろう?」

「そうですが、私は別に…」

「まあ、あの人が何と言おうと、俺は挑戦を受けるつもりはないけどな」

「えっ!?」

「何驚いてるんだよ?受けるはずがないじゃないか。何のメリットもないんだからな」

「メリット?」

「ああ。勝って当たり前の相手。しかもアホなマスコミどもが持ち上げるから、たいして強くもないのにミーハーが大騒ぎ。そんなヤツに勝ったところで、ただ憎まれ役になるだけじゃねえか」

 金本はまくし立てた。千尋の想像通り、豊の人気ぶりへの不満が、言葉の端々から感じ取れる。

「そんなことを言いながら、本当は負けるのが怖いんじゃないですか?」

「そうやって煽っても無駄だよ」

 金本は鼻で笑い、

「どうしても対戦しろと言うなら、ファイトマネーを一億円用意しな。それでも断るけどな」

 と言って、千尋を絶句させた。それは以前、彼女が金本に吐いた台詞だった。


 金本は勝ち誇った顔で、美味(うま)そうにビールを飲み、そして口元に笑みを浮かべた。

「金が用意できないなら、何か別の形で誠意を見せるしかないんじゃないか?」

「誠意?何ですか?」

「自分で考えろよ。こっちから要求して、脅しと取られるのも困るんでね」

 金本は、千尋を品定めするような目つきをした。その視線に耐えながら彼女は思った。

「これは復讐なんだ…」

 恋愛感情などは一切なく、復讐のためだけに自分を追い回しているだけなのだと。なんという粘着質な人間なのか。

 千尋は、心の底から金本を軽蔑した。しかし、金本が言う「誠意」を提供しなければ、豊が世界王座に挑戦するチャンスを逸するかもしれない。チャンピオンは金本一人ではないし、他のベルトに挑戦できる可能性はある。しかし、それが日本中の話題をかっさらうほどの試合になるかは未知数だ。北原が言うように、無敗同士の日本人対決だからこそ、付加価値がありインパクトがあるのではないか。豊の目標達成のためには、やはり北原が実現しようとする二人の対決が望ましい。そんな葛藤の末、

「私を金本さんの自由にしたらいいんでしょうか?だったら、今日は仕事を休みますので、好きなようにしてください」

 と、覚悟を決めて千尋は言った。

「はあ?お前、なんか勘違いしてないか?」

 呆れ顔をする金本に、千尋は当惑するしかない。

「だって、私には他に何も…」

「俺が欲しいのは、お前の身体じゃない。お前のすべてだ。俺の女になるんだよ。それなら、米崎に挑戦させてやってもいい。相手にもならんが」

 またしても、千尋は絶句するしかなかった。金本の要求が、彼女の予想をはるかに上回っている。ただ身体を許すだけであれば腹をくくることもできるが、「金本の女」になるくらいなら、はっきり言って死んだ方がマシだった。

「そんなに悩むことか?世界チャンピオンの女だぞ」

 金本は笑い、続けて言った。

「どっちにしても、今日は朝まで付き合ってもらおうか。お前の過去をマスコミに知られたくなければな」

 テーブルの下で握り締める千尋の拳が、小刻みに震えていた。


 午前6時45分。普段より遅く豊は目が覚めたが、まだ千尋は帰っていなかった。客入りによって終業時間は変わると言っていたので、今日は遅い方なのかもしれない。

 ロードワークの途中、梓のアパートに寄り拳都の顔を覗く。

「豊君?おはよう…」

「ごめん、起こしちゃったね」

「いいの。もう拳都が起きる時間だから」

 梓は、目をこすりながら寝床から出てきた。

「千尋さんの家はどう?」

「どうって?」

「居心地がいいとか、そういうの」

「どうなんだろう?千尋さんは夜中いないから、ほとんど一人だし」

「でも、休みの日は一緒でしょ?」

「今のところ一日だけだよ」

「一緒の布団で寝てるの?」

「いや、別々」

「ホントに?」

「うん」

「そっか、それなら安心」

 梓は笑顔を見せた。

「そろそろ行くね」

 と言って、拳都の頭を撫でる豊に梓が聞く。

「落ち着いたら戻ってくるんだよね?」

「その予定だけど」

「よかった…」

 ホッとした顔で、梓は豊の手を握った。

「私、豊君好きだから。ずっとずっと一緒にいたいと思ってる」

 豊は何も言えず、梓の手を握り返した。

「ごめんね、朝っぱらから変なこと言っちゃって… 昨夜、豊君の夢を見ちゃって、その夢の中で私と豊君が結婚してたんだよね。すごく嬉しい夢だったんだけど、現実の豊君は遠い世界の人になっちゃいそうで。私、駄目なコだから…」

「俺…」

 豊は、どう答えていいかわからず、

「とにかく、梓が帰ってきて本当に良かったと思ってるよ。拳都の本当の親だからさ。仕事の時間だから行くね」

 と言って、ニコッと微笑みアパートを出た。


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