第四章 8
「お腹は空いてないよね?」
「うん。祝勝会でたくさん食べたから」
豊は、さりげなく部屋の中を見回した。梓の部屋と違い、色彩も地味で無機質な感じがする。テレビ、ベッド、本棚、そして小さなテーブルしかない、本当に質素な部屋だった。ただし、ライターを目指してるだけあって、本は棚に収まり切らないほどあり、テーブルの上にはノートパソコンが置かれていた。
「あっ、着替え持ってきてないよね?」
思い出したように千尋が言った。
「うん…」
「下着はコンビニで売ってると思うけど、パジャマは… 私のスウェットでいいか。パンツとシャツ買ってくるから、豊はシャワー浴びちゃって。バスタオルはそこにあるの使っていいからね」
と言って、慌ただしく千尋は部屋を出て行った。ドアの閉まる音を聞き、豊は大きく息を吐いた。
「どうも緊張する…」
そう自覚できるほど鼓動が速まっていた。シャワーを浴びている最中も脈拍が落ち着く様子がなく、何度も深呼吸をした。
豊がシャワーから出ると、千尋はすでに帰っていた。
「ちょっと!」
「えっ?」
目を逸らす千尋を見て、豊は自分が素っ裸だったことに気づいた。慌ててバスタオルで下半身を隠す豊に、
「これ、下着入ってるから」
と言って、袋を渡した。
「梓ちゃんの前でも、そんな感じなの?」
「いや、あのアパートは脱衣所があるから」
「そっか。もうパンツ穿いた?」
千尋は豊に背を向けている。
「うん」
その言葉に振り返った千尋は、豊のセミヌードに見とれてしまった。すべての無駄を削ぎ落とした、西洋の彫刻像のような上半身である。練習中、いつも見慣れているはずなのに、何故これほどまでに目を奪われてしまうのか。実際、女性ファンの多くは、ボクサーの肉体美が目当てと聞く。しかし、彼女が意識して豊の身体を見たのは、この時が初めてだった。
「千尋さん?」
と、声をかけられるまで、千尋は視線を動かさなかった。
「疲れてるんじゃない?早く寝た方がいいよ」
「そうだね…」
ここで新たな問題が発生する。誰がどこに寝るかである。
「俺が床に寝るから」
と、豊は言うものの、身体が資本のボクサーにそんなことはさせられない。
「駄目よ。筋肉を傷めたらどうするの」
来客用の布団もなく、フローリングに直で寝ることになるのだ。
「ベッドで一緒に寝ようよ。狭いけど床で寝るよりはいいでしょ?」
「けど…」
豊は躊躇した。
「じゃあ私が床に寝ようか?」
「それは駄目だよ」
「そしたら一緒に寝るしかないじゃない。それに、豊は私と一緒に寝たことあるのよ。覚えてない?」
「覚えてる…」
豊が小学四年の時である。例の夢にうなされていた彼に、隣の部屋にいた千尋が気づき、添い寝をしてくれたのだ。
その夜、豊は千尋の身体にしがみつきながら一晩を過ごした。そして、その後も彼女が施設を出るまでに、何度か一緒に寝てもらっていた。
「寝るよ」
と言って、千尋は灯を暗くしベッドに入る。豊も遠慮気味に続いた。
「梓ちゃんとは別々に寝てるの?」
「もちろん」
と答えたが、実は数回一緒に寝たことがあった。時々、酔っ払って帰ってきた梓が、彼の布団に潜り込んでくるのだ。
「今日はいろんなことがあったね」
天井を見つめながら、呟くように千尋が言った。
「うん…」
シングルベッドに大人二人は窮屈だった。豊は、落ちそうなくらい身体を端に寄せているが、それでも千尋の肩や腕に触れてしまう。
「もうちょっと、こっちに来て大丈夫だよ」
千尋は身体を横にして、二人の間のスペースを作った。しかし、豊は動こうとはしなかった。すると、千尋は彼の身体を強引に引きつけ両腕で包み込んだ。
「ホント、昔から世話の焼ける子なんだから」
豊は抵抗しなかった。闇の中、二人の視線が交差する。
「実はね… 私、梓ちゃんが戻って来なければいいと思ってたの」
豊は驚いた。富山まで捜しに行ったのは、他でもない千尋なのだ。
「もちろん、帰ってきてほしい気持ちもあったけど、豊と二人で拳都を育てるのもありかなって」
と言って、千尋は微笑んだ。しかし、その笑みはすぐに消える。
「でも、私じゃ駄目なんだ。汚れた人間だからさ。豊みたいに清らかで純粋な人と、同じ人生を歩む資格なんかないのね…」
千尋は涙声になっていた。
「千尋さんは汚れてなんかないよ」
「ううん… でも、今ね… 一生懸命洗い流してるの。少しでも、豊のような澄んだ人になれるように…」
豊は何も答えられなかった。その代わりに、千尋の顔を抱き寄せる。それが、今の彼にできる精一杯の優しさだった。
豊の朝は早い。5時には起床してトレーニングを始める。アルバイトに行くまでの二時間、近所の公園で腹筋、スクワットなどの筋トレとストレッチで、みっちり汗を流す。
「おはよう」
豊が着替えていると、ベッドの中から千尋の声がした。
「ごめん、起こしちゃったね」
「大丈夫。ちゃんと眠れた?」
「うん。ロードワークして、そのままバイトに行くから」
気恥ずかしさから逃れるように、豊は千尋の部屋を出た。朝陽が眩しい道路を走りながら、昨夜の千尋を思い出していた。
昨夜、豊は千尋が眠りにつくまで、ずっと彼女の髪を撫でていた。
千尋の涙を見るのは二回目だが、あの時の涙とは別の理由のような気がしてならなかった。
「何かあったの?」
と、豊は聞いたが、千尋は首を振るだけだった。彼も深く詮索はしない。「生臭い一人の女」が、生臭く腕の中で泣き続けた。しかし、それで彼の千尋に対する見方が変わるわけでもない。小料理屋の女将も言っていたように、女が一人で生きるのは大変なのだろう。
「それなのに…」
いつも千尋は笑顔を絶やさず、ジムの仕事をこなしている。そのおかげで、豊は何のストレスもなくトレーニングに集中できていた。彼女の支えがなかったら、今頃どうなっていただろうか。
バイトを終え豊がジムに行くと、北原が待っていた。
「もう次の試合の打ち合わせですか?」
「そうじゃないんだ。これを持って来たんだよ」
「チケット?」
「金本の初防衛戦のだよ。観たいだろうと思ってね」
「ありがとうございます。来月ですよね?」
「そうだ。ここでベルトを守れば、夢の対決が現実味を帯びてくる」
その言葉に、豊は唾を飲み込んだ。
「その前に、君には世界ランカーの上位と戦ってもらわないといけないが。堂々ランキング1位になってというのが理想ではあるが、こればっかりは巡り合わせもある」
「1位になるには、どうすればいいんでしょうか?」
「手っ取り早いのは1位の選手に勝つことだな。だが、タイトルマッチでもないのに、わざわざ日本に来てくれるとは思えない」
「じゃあ、僕が海外に行って試合をすればいいんですか?」
「いや、その必要はない。君が次の試合も快勝し、次期挑戦者は君しかいないとアピールすればいい。タイトルマッチの興行権はうちにある。あとは、世間が注目するビッグイベントとしてプロデュースするだけでね。もう一押しだと思っているんだが、そのもう一押しは君にかかっている」
「僕に?」
「そうだ。この際だから、はっきり言っておこう。金本は強いがスター選手ではない。いや、勘違いしないでくれ。あいつを認めていないわけじゃない。むしろ、歴史に名を残すほどの選手になる可能性さえ秘めている。だが、私が望んでいる世紀の大一番に必要な駒ではないんだ。何が必要だと思うかね?」
「ああ、スター選手ですね?」
逆に豊が尋ねると、北原はニヤリと笑った。
「違う、スーパースターだよ。トレーナー人生において、一人でいいからそんな選手を育ててみたいと願っていた。そして、金本という十年に一人の逸材を発掘し、期待に応えて世界チャンピオンにまでなってくれた。だけど、その金本もスーパースターの器ではなかった。ヤツがこの先どれだけ防衛を続けたとしても、ボクシング界の枠を超えることはないだろう。スーパースターとは、野球のイチローのように、老若男女問わず、幅広く認知される存在のことなんだよ」
「ボクシング界から、そんなレベルの選手は出ないと思いますが…」
「君が出るんだ。君にはその素質があるんだよ。スーパースターがチャンピオンである必要はない。冷たい言い方かもしれんが、その試合で君が勝とうが負けようが、私にはどうでもいい。世紀の一戦をプロデュースすることが目的なんでね。もちろん、君が勝てば真のスーパースターになれるだろうが、前に言った旬の時期はその辺までかなと思っている」
ここまで熱く語る北原を見るのは初めてで、つられるように豊の胸の内も揺さぶられる。
「自分がそれほどの選手かわかりませんが、北原さんがそう言ってくるのなら、その気になりましょう。僕の野望を聞いてもらえますか?」
豊は、ボクサーを志した動機を打ち明けた。中学生の時、千尋にだけ教えた動機である。北原は無表情のまま、豊の長い告白を聞いた。
「どう思います?」
話し終えた豊が尋ねると、顔を紅潮させた北原は、
「やはり、君はスーパースターになるためにボクサーになったんだよ。金本との試合はすごいことになる」
と、確信に満ちた声で言った。そしてこの日、彼は大晦日の東京ドームを押さえた。




