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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
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第四章 8

「お腹は空いてないよね?」

「うん。祝勝会でたくさん食べたから」

 豊は、さりげなく部屋の中を見回した。梓の部屋と違い、色彩も地味で無機質な感じがする。テレビ、ベッド、本棚、そして小さなテーブルしかない、本当に質素な部屋だった。ただし、ライターを目指してるだけあって、本は棚に収まり切らないほどあり、テーブルの上にはノートパソコンが置かれていた。

「あっ、着替え持ってきてないよね?」

 思い出したように千尋が言った。

「うん…」

「下着はコンビニで売ってると思うけど、パジャマは… 私のスウェットでいいか。パンツとシャツ買ってくるから、豊はシャワー浴びちゃって。バスタオルはそこにあるの使っていいからね」

 と言って、慌ただしく千尋は部屋を出て行った。ドアの閉まる音を聞き、豊は大きく息を吐いた。

「どうも緊張する…」

 そう自覚できるほど鼓動が速まっていた。シャワーを浴びている最中も脈拍が落ち着く様子がなく、何度も深呼吸をした。

 豊がシャワーから出ると、千尋はすでに帰っていた。

「ちょっと!」

「えっ?」

 目を逸らす千尋を見て、豊は自分が素っ裸だったことに気づいた。慌ててバスタオルで下半身を隠す豊に、

「これ、下着入ってるから」

 と言って、袋を渡した。

「梓ちゃんの前でも、そんな感じなの?」

「いや、あのアパートは脱衣所があるから」

「そっか。もうパンツ穿いた?」

 千尋は豊に背を向けている。

「うん」

 その言葉に振り返った千尋は、豊のセミヌードに見とれてしまった。すべての無駄を削ぎ落とした、西洋の彫刻像のような上半身である。練習中、いつも見慣れているはずなのに、何故これほどまでに目を奪われてしまうのか。実際、女性ファンの多くは、ボクサーの肉体美が目当てと聞く。しかし、彼女が意識して豊の身体を見たのは、この時が初めてだった。

「千尋さん?」

 と、声をかけられるまで、千尋は視線を動かさなかった。

「疲れてるんじゃない?早く寝た方がいいよ」

「そうだね…」

 ここで新たな問題が発生する。誰がどこに寝るかである。


「俺が床に寝るから」

 と、豊は言うものの、身体が資本のボクサーにそんなことはさせられない。

「駄目よ。筋肉を傷めたらどうするの」

 来客用の布団もなく、フローリングに(じか)で寝ることになるのだ。

「ベッドで一緒に寝ようよ。狭いけど床で寝るよりはいいでしょ?」

「けど…」

 豊は躊躇した。

「じゃあ私が床に寝ようか?」

「それは駄目だよ」

「そしたら一緒に寝るしかないじゃない。それに、豊は私と一緒に寝たことあるのよ。覚えてない?」

「覚えてる…」

 豊が小学四年の時である。例の夢にうなされていた彼に、隣の部屋にいた千尋が気づき、添い寝をしてくれたのだ。

 その夜、豊は千尋の身体にしがみつきながら一晩を過ごした。そして、その後も彼女が施設を出るまでに、何度か一緒に寝てもらっていた。

「寝るよ」

 と言って、千尋は(あかり)を暗くしベッドに入る。豊も遠慮気味に続いた。

「梓ちゃんとは別々に寝てるの?」

「もちろん」

 と答えたが、実は数回一緒に寝たことがあった。時々、酔っ払って帰ってきた梓が、彼の布団に潜り込んでくるのだ。

「今日はいろんなことがあったね」

 天井を見つめながら、呟くように千尋が言った。

「うん…」

 シングルベッドに大人二人は窮屈だった。豊は、落ちそうなくらい身体を(はし)に寄せているが、それでも千尋の肩や腕に触れてしまう。

「もうちょっと、こっちに来て大丈夫だよ」

 千尋は身体を横にして、二人の間のスペースを作った。しかし、豊は動こうとはしなかった。すると、千尋は彼の身体を強引に引きつけ両腕で包み込んだ。

「ホント、昔から世話の焼ける子なんだから」

 豊は抵抗しなかった。闇の中、二人の視線が交差する。

「実はね… 私、梓ちゃんが戻って来なければいいと思ってたの」

 豊は驚いた。富山まで捜しに行ったのは、他でもない千尋なのだ。

「もちろん、帰ってきてほしい気持ちもあったけど、豊と二人で拳都を育てるのもありかなって」

 と言って、千尋は微笑んだ。しかし、その笑みはすぐに消える。

「でも、私じゃ駄目なんだ。(よご)れた人間だからさ。豊みたいに清らかで純粋な人と、同じ人生を歩む資格なんかないのね…」

 千尋は涙声になっていた。

「千尋さんは汚れてなんかないよ」

「ううん… でも、今ね… 一生懸命洗い流してるの。少しでも、豊のような澄んだ人になれるように…」

 豊は何も答えられなかった。その代わりに、千尋の顔を抱き寄せる。それが、今の彼にできる精一杯の優しさだった。


 豊の朝は早い。5時には起床してトレーニングを始める。アルバイトに行くまでの二時間、近所の公園で腹筋、スクワットなどの筋トレとストレッチで、みっちり汗を流す。

「おはよう」

 豊が着替えていると、ベッドの中から千尋の声がした。

「ごめん、起こしちゃったね」

「大丈夫。ちゃんと眠れた?」

「うん。ロードワークして、そのままバイトに行くから」

 気恥ずかしさから逃れるように、豊は千尋の部屋を出た。朝陽が眩しい道路を走りながら、昨夜の千尋を思い出していた。

 昨夜、豊は千尋が眠りにつくまで、ずっと彼女の髪を撫でていた。

 千尋の涙を見るのは二回目だが、あの時の涙とは別の理由のような気がしてならなかった。

「何かあったの?」

 と、豊は聞いたが、千尋は首を振るだけだった。彼も深く詮索はしない。「生臭い一人の女」が、生臭く腕の中で泣き続けた。しかし、それで彼の千尋に対する見方が変わるわけでもない。小料理屋の女将も言っていたように、女が一人で生きるのは大変なのだろう。

「それなのに…」

 いつも千尋は笑顔を絶やさず、ジムの仕事をこなしている。そのおかげで、豊は何のストレスもなくトレーニングに集中できていた。彼女の支えがなかったら、今頃どうなっていただろうか。


 バイトを終え豊がジムに行くと、北原が待っていた。

「もう次の試合の打ち合わせですか?」

「そうじゃないんだ。これを持って来たんだよ」

「チケット?」

「金本の初防衛戦のだよ。観たいだろうと思ってね」

「ありがとうございます。来月ですよね?」

「そうだ。ここでベルトを守れば、夢の対決が現実味を帯びてくる」

 その言葉に、豊は唾を飲み込んだ。

「その前に、君には世界ランカーの上位と戦ってもらわないといけないが。堂々ランキング1位になってというのが理想ではあるが、こればっかりは巡り合わせもある」

「1位になるには、どうすればいいんでしょうか?」

「手っ取り早いのは1位の選手に勝つことだな。だが、タイトルマッチでもないのに、わざわざ日本に来てくれるとは思えない」

「じゃあ、僕が海外に行って試合をすればいいんですか?」

「いや、その必要はない。君が次の試合も快勝し、次期挑戦者は君しかいないとアピールすればいい。タイトルマッチの興行権はうちにある。あとは、世間が注目するビッグイベントとしてプロデュースするだけでね。もう一押しだと思っているんだが、そのもう一押しは君にかかっている」

「僕に?」

「そうだ。この際だから、はっきり言っておこう。金本は強いがスター選手ではない。いや、勘違いしないでくれ。あいつを認めていないわけじゃない。むしろ、歴史に名を残すほどの選手になる可能性さえ秘めている。だが、私が望んでいる世紀の大一番に必要な駒ではないんだ。何が必要だと思うかね?」

「ああ、スター選手ですね?」

 逆に豊が尋ねると、北原はニヤリと笑った。

「違う、スーパースターだよ。トレーナー人生において、一人でいいからそんな選手を育ててみたいと願っていた。そして、金本という十年に一人の逸材を発掘し、期待に応えて世界チャンピオンにまでなってくれた。だけど、その金本もスーパースターの器ではなかった。ヤツがこの先どれだけ防衛を続けたとしても、ボクシング界の枠を超えることはないだろう。スーパースターとは、野球のイチローのように、老若男女問わず、幅広く認知される存在のことなんだよ」

「ボクシング界から、そんなレベルの選手は出ないと思いますが…」

「君が出るんだ。君にはその素質があるんだよ。スーパースターがチャンピオンである必要はない。冷たい言い方かもしれんが、その試合で君が勝とうが負けようが、私にはどうでもいい。世紀の一戦をプロデュースすることが目的なんでね。もちろん、君が勝てば真のスーパースターになれるだろうが、前に言った旬の時期はその辺までかなと思っている」

 ここまで熱く語る北原を見るのは初めてで、つられるように豊の胸の内も揺さぶられる。

「自分がそれほどの選手かわかりませんが、北原さんがそう言ってくるのなら、その気になりましょう。僕の野望を聞いてもらえますか?」

 豊は、ボクサーを志した動機を打ち明けた。中学生の時、千尋にだけ教えた動機である。北原は無表情のまま、豊の長い告白を聞いた。

「どう思います?」

 話し終えた豊が尋ねると、顔を紅潮させた北原は、

「やはり、君はスーパースターになるためにボクサーになったんだよ。金本との試合はすごいことになる」

 と、確信に満ちた声で言った。そしてこの日、彼は大晦日の東京ドームを押さえた。


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