第四章 7
予期せぬ梓の姿に、豊たちは驚きを通り越し、しばらく言葉が出てこなかった。
梓の方も唇を動かしていたが、発声にはならず、ついに泣き出してしまい、その場にひざまずいた。
「どこに行ってたの?」
と、千尋が尋ねても、泣きじゃくって会話にならない。
「後援会の人たちが来るから、とりあえず中に入ろう」
千尋に促され、一同はジムの中に移動した。恒例の祝勝会が一時間後に始まるのだ。
事務所の椅子に座らせ飲み物を与えると、梓はいくらか落ち着いた様子になった。女同士の方がいいだろうと、豊たちは千尋に任せて事務所から出て行った。
「心配してたのよ」
と言って、千尋は殊更に笑顔を作った。
「はい…」
「事故ってわけじゃなさそうね」
やつれてはいるが、外傷などは見当たらない。
「実家にいたんです」
「実家!?富山の?」
驚いた千尋の声が裏返った。
「はい。無理矢理連れ去られて、監禁されてました」
「監禁って… 私、あなたの実家を訪ねたのよ?」
「来たんですか!?」
今度は梓が驚く。豊には自分の実家について、何も教えていないのだ。
「舞ちゃんから聞いたのよ。県議会議員やってるって言ってたから、それで調べて。でも、お母さんは戻ってないと」
「あの女は、お母さんなんかじゃありません。本当のお母さんは10歳の時に死にましたから」
「継母ってこと?」
「はい。あの女が、私をこんな目に遭わせたんです」
梓は、自分が知る限りの事情を話した。
事の発端は、梓の元彼である竹内だった。
知事選に出馬を表明した梓の父親を、竹内が富山に行き脅迫したというのだ。脅しのネタは、彼女が竹内と付き合っている時に手を出した大麻である。千尋が富山に行った時に、タクシーの運転手から聞いた話と合致する。
「やってたの?」
「はい。興味本位で… もちろん今はやってませんが」
「でも、証拠がなければ脅迫なんてできないでしょう?」
「動画を撮られてたらしくて。その頃、竹内に実家の話もしてて、父親が県知事の椅子を狙ってるって話もした記憶があるから、きっとそれを覚えてたんじゃないかと…」
金を払わなければ、その動画をライバル候補に売りつける気だったのか。
「それでお母さんは要求を飲んだのね」
これで、竹内の羽振りが良くなったという噂と繋がった。
「知事選が終わるまでは一歩も外に出さないと言われて、何度も逃げ出そうとしたんですが、ずっと見張りがついてて。でも、選挙が終わっても出してくれる気配がないので、見張りの人に聞いたら、竹内がまた金を要求してきたらしく、警察に相談することになって…」
それで、ようやく梓は解放されたのだという。
「いくら親でも監禁なんてひどすぎるわ。訴えればいいのよ」
「私だって腸が煮えくり返ってます。けど、公になっちゃうと、豊君に迷惑がかかるかもと思ったから。私が黙ってれば、親はただの被害者で済むと思ったんです」
「なるほど…」
新県知事の娘のスキャンダル。その娘の生活がフォーカスされるのは必至だろう。薬物使用者の同居人が、注目の新鋭ボクサーとなれば、確実にマスコミの餌食になる。
「で、竹内って人はどうなったの?」
「捕まったそうです」
「そしたら、梓ちゃんのことも喋っちゃうんじゃない?」
「お父さんの弁護士が言うには、私が罪に問われる可能性はないとのことです。もしそうなったとしても、豊君との関係さえ知られなければいいので。それでお願いがあるんですが、ほとぼりが冷めるまで豊君を預かってもらえませんか?」
「それは構わないけど…」
「豊君、千尋さんのことをお姉さんだと思ってるし。私も安心だから」
「でも、豊いなくて大丈夫なの?学校とか仕事は?」
「親から口止め料をもらったので、当分仕事は休みます。と言うか、もう夜の仕事はこりごりです。学校行ってる間は託児所に預けようかと」
「そうね。梓ちゃんにも、たっぷり反省してもらわないと。学校行く時はジムで預かるから」
「ありがとうございます」
やっと梓は笑顔を見せた。
祝勝会が始まってすぐ、舞が拳都を連れてジムに現れ、梓を見て涙を流した。
「舞、ごめんね」
「どれだけ心配したか…」
二人は抱き合いながら、互いの服を涙で濡らす。そんな二人に、
「二人とももう泣かない。こっちに来て飲もう!豊は勝ったし、梓ちゃんは戻ってきたしで、すべてがめでたしだよ」
と、荒川が声をかけた。そういう彼も目頭を赤くさせていた。
「でもさ、どこで連れ去られたわけ?親は梓の居場所を知らないって言ってたじゃない」
梓のグラスにビールを注ぎながら、舞が聞いた。
「竹内が教えたんだと思う。タバコを切らしてコンビニに行こうとしたら、車に押し込まれて富山まで連れて行かれたの」
「で、監禁されたんだ。逃げ出せなかったの?」
「うん。離れに閉じ込められてたんだけど、常に見張りがいて。拳都のことが心配で、どうにかして脱走しようとしたんだけど…」
「しかし、ひどい親だな。それで県知事かよ。明らかに犯罪行為だぜ」
梓の話を聞き、後援会長の山本が憤慨している。
「お父さんは最初何も知らなくて、あの女が勝手に企んだみたいなんです」
「それにしてもだよ。選挙と娘、どっちが大事かってことだよ。その男にはいくら払ったんだ?」
「わからないけど、相当な額だと思います」
「そいつも馬鹿な男だな。一回でやめとけば捕まらずに済んだのに」
山本は、顔も知らぬ竹内に妙な同情をしたが、千尋は厳しい顔をして、
「いえ、捕まって良かったんです。これで梓ちゃんも膿を出し切ったと思うし、これからは母親としての自覚を持ってもらわないと」
と、きつい言葉を浴びせた。
「はい、全部私のだらしなさから起きたことで…」
梓は反省しきりだった。
祝勝会が終わり、それぞれが家路に就く。今夜から千尋の家で泊まることになった豊は、
「施設に入れなくて良かったけど、離れ離れかあ…」
と言って、眠っている拳都を名残惜しそうに抱いていた。
「昼間は会えるんだから我慢しなさい」
そう千尋にたしなめられ、渋々拳都の身を手放した。
「じゃあ、しばらく豊を預かるね」
「はい、迷惑をかけてすみません」
と、梓は申し訳なさそうに言うが、千尋の表情は明るい。
「平気よ。昔もひとつ屋根の下で暮らしてたんだし。ねっ?」
「う、うん…」
千尋のテンションの高さに、豊は少し困惑気味である。梓も戸惑いを感じていたが、今更どうしようもできなかった。
「じゃあ、ゆっくり休んでね」
千尋は、豊の腕を引くように梓と別れた。
「ジムまでちょっと遠くなるね」
「走る距離が少し増えるだけだから」
「不思議よね。施設で知り合って一度離れたけど、また一緒に住むことになって」
「うん」
「あの時、川崎で偶然会わなかったら、一生会えなかったと思うんだ。豊がプロボクサーになったことを知っても、やさぐれて陰で応援してただけだと思う。本当に自棄になってたから」
電車を降りる頃、急に会話がなくなった。その理由が二人にはわかっている。それぞれが、それぞれの緊張を感じ始めていたからだ。
千尋は、部屋に男を上げたことがなかった。事情が事情とは言え、そして相手が豊といえども、やはり緊張してしまうシチュエーションなのだろう。では、豊の緊張の理由は何なのか。初めて梓の部屋に行った時とは、別の感情が発生している。常に「尊敬するお姉さん」的存在だった千尋が、何故か今は「生臭い一人の女」のように感じられていた。だが、それは決して愛情に直結するものではない。恋愛経験のない彼には、解説しようがない感情だった。
緊張が解け切らないまま、二人は千尋のマンションに着いた。
「狭いけど我慢してね」
八畳ワンルームの殺風景な空間。ここで豊の新しい生活が始まる。




