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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
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第一章 4

 11月6日。豊のデビュー戦が明日に迫っていた。梓のおかげもあって、彼は仕事に就かずトレーニングに集中することができた。夜は拳都の世話があったが、それ以外の時間はボクシングに専念できるので、結果的に恵まれた環境になった。

 小倉のコーチを受けるのは、基本的に夕方から三時間程度。それまでの時間は、ほぼ単独での練習になる。トレーナーライセンスを持つ荒川がいるが、時間を計るくらいの手助けにしかならない。豊も、高齢の荒川に無理を強いるつもりはなかった。

 豊が練習を終え、アパートに帰るのが夜の8時。入れ替わるように、梓が仕事に出かける。そのルーティンは、彼女の休日以外は毎日繰り返された。用意された夕食を食べ、梓が帰宅するまでの時間を拳都と二人で過ごす。

 拳都は生後一ヶ月にも満たないので、一日の大半は眠っている。テレビを見る習慣がない豊は、飽きもせず拳都の寝顔を眺めていた。何故テレビを見ないのか、それは彼の育った環境が影響している。


 中学卒業まで豊が過ごした施設にもテレビはあった。しかし、彼専用の物ではない。テレビは食堂に置かれており、視聴には他の入居者に気を遣わなければならず、わずらわしさを嫌う彼は自然とテレビから遠ざかった。

 その代わりに、豊は読書を好んだ。ボクシングとの出会いも一冊の書物だった。図書館で借りた、あるボクサーの自伝である。プロボクサーを志してからは、視力の低下を恐れて本を読まなくなったため、今の彼にはこれといった趣味がない。なので、拳都の寝顔を見て時間を潰している。

 午前3時過ぎ、梓が帰ってきた。豊が拳都のオムツを取り替えてる時だった。

「寝ててもいいよって言ってるのに」

「いつも、この時間になると泣き出すんだよ。梓が帰ってくるのがわかるんじゃないかな?」

「そうなのかな」

 と言って、拳都を抱こうとする梓を豊は制した。

「先にうがいと手洗い!しかも酒臭い!未成年のくせに!」

 梓の飲酒に、彼は毎回苦言を呈す。

「しょうがないじゃん、仕事なんだから」

 梓は、すねた口調で言い返した。彼女は、歌舞伎町のキャバクラに勤めている。飲み屋にアルコールはつきものではあるが、それが未成年者の飲酒を正当化するはずもない。それに、梓はタバコも吸う。それも豊は気に入らなかった。彼がこの家に来てからは、部屋の中での喫煙を禁止している。

「俺は寝るからあとは頼むよ」

「あれ?朝のトレーニングは?」

「今日は試合だから身体を休めるんだ」

 そう言って、豊は布団に潜り込んだ。


 午後2時、後楽園ホールの控室で豊が出番を待ち構えていた。

「少しは緊張してきたか?」

 豊の拳にバンテージを巻く小倉が聞いた。

「あんまり… 無神経なんですかね?」

「まったく、たいしたヤツだよ」

 小倉は呆れたが、その後ろで荒川が、

「花道を歩く頃には、ちびりそうになるよ」

 と言って、笑っている。

「あれ、荒川さんですか?お久しぶりです」

 五十代半ばの男が、豊たちの前で立ち止まった。

藤崎(ふじさき)君じゃないか。本当に久しぶりだね」

 荒川は、嬉しそうに挨拶を返した。

「今日は知り合いの応援ですか?」

「いや、うちの選手のデビュー戦でね」

 と言って、苦笑いをする荒川に藤崎は驚いた。

「うちって… まだトレーナーやられてたんですか!?」

「そうだよ」

 荒川は少し誇らしげに、豊の肩に手を置いた。藤崎は、豊の隣にいる小倉にも気づいた。

「小倉君か?」

「どうも、ご無沙汰しております」

 小倉も苦笑している。藤崎はFSGというジムのオーナーで同業者であるが、その経営規模は月とスッポンほどの開きがあった。

「君、トレーナーになっていたのか。いやあ、懐かしい!」

 藤崎は、小倉に握手を求めた。

北原(きたはら)さんは元気にしてますか?」

「君の元ライバルか?あいつも今では、なかなかの指導者だよ」

 北原は、小倉が日本王座に挑戦した時のチャンピオンだった。現在はFSGのトレーナーとして、後進の育成にあたっている。


「今日のメインに出る金本(かねもと)も北原の教え子でね。もうすぐ東洋太平洋のランキング入りだ」

 藤崎は自慢げに言った。

「では、北原さんも来てるんですね?」

「向こうの控室にいるよ。あとで伝えておこう。君がトレーナーになってると知ったら驚くんじゃないかな?」

「どうでしょうね」

 小倉は作り笑いをした。同じトレーナーと言っても、荒川ジムと業界最大手のFSGを同等に並べる気はない。

「ところで君の階級は?」

 藤崎は豊を見た。

「フェザー級です」

「ほう、金本と一緒か。強くなって、ぜひライバルになってくれ」

「はあ」

 豊は無表情で答えた。藤崎が去ったあと、小倉は豊に言った。

「金本は強いぞ。目標にするにはうってつけかもしれんな」

「はい」

 豊は頷いたが、金本がどんな選手なのか知らなかった。しかし、彼はその名前を脳裏に刻み込んだ。この物語が終わるまで、ライバルとして立ちはだかる男の名を。


「拳都、大丈夫かな…」

 梓は、同じキャバクラで働く(まい)に不安を隠さない。

「大丈夫。ママ喜んでたよ。赤ちゃんの世話なんて何十年ぶりかしらって」

 拳都を舞の母親に預け、二人は豊の応援に来ていた。ボクシング観戦も後楽園ホールに来るのも初めてで、二人は戸惑いながらもどうにか自分たちの座席に着いた。

「豊君は、この次の試合かな…」

 プログラムを見ながら梓が言った。

「で、本当に何もしてないの?」

 電車に乗っている時から、舞は同じ質問ばかりしていた。

「だから何にもないんだって!ボクシング以外のものに興味ない感じ」

「17でしょ?そんなはずないって。よっぽど我慢してるか…」

「か?」

「梓に魅力がないかのどっちかだよね」

 そう言って、舞は笑い声を上げた。梓としては複雑な心境だ。我慢はともかく、魅力に欠けていると思われているなら心外である。だが、同居を始めて約十日、豊からギラギラした男の視線を感じたことはなかった。狭い部屋の中で、下着姿でうろつく時もあるというのに。

「何か悔しい…」

 梓は心の中で呟いた。


「小倉君にあったぞ」

「小倉…?」

 藤崎の言葉に、北原が首をひねる。

「昔、何度か対戦しただろう」

「小倉伸一ですか?」

「ああ、トレーナーになったそうだ」

「そうなんですか?」

 北原は、意外といった顔をした。それほど広い業界ではないのに初耳だったのだ。

「なんせ、あの荒川ジムだからな」

「荒川ジムですか。懐かしい名前が続きますね」

 北原は手元のプログラムを開いた。

「ああ、ありますね。次の試合です。米崎豊、17歳。今日がデビュー戦ですよ」

「見に行くか?」

「そうですね、小倉にも会いたいし。お前も行くか?」

 北原は、隣に座る金本を誘った。

「よしてくださいよ。何が楽しくて4回戦小僧の試合を見なきゃならないんですか?」

 金本は鼻で笑うように答え、藤崎も同調する。

「そうだ。下を見てる暇なんてない。もう国内にこいつの敵はいないからな」

 今日の対戦相手もタイ人だった。この試合に勝てば、金本の東洋太平洋ランキング入りは確実となる。

「では行きますか」

 藤崎を促し、北原は控室を出た。


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