第一章 4
11月6日。豊のデビュー戦が明日に迫っていた。梓のおかげもあって、彼は仕事に就かずトレーニングに集中することができた。夜は拳都の世話があったが、それ以外の時間はボクシングに専念できるので、結果的に恵まれた環境になった。
小倉のコーチを受けるのは、基本的に夕方から三時間程度。それまでの時間は、ほぼ単独での練習になる。トレーナーライセンスを持つ荒川がいるが、時間を計るくらいの手助けにしかならない。豊も、高齢の荒川に無理を強いるつもりはなかった。
豊が練習を終え、アパートに帰るのが夜の8時。入れ替わるように、梓が仕事に出かける。そのルーティンは、彼女の休日以外は毎日繰り返された。用意された夕食を食べ、梓が帰宅するまでの時間を拳都と二人で過ごす。
拳都は生後一ヶ月にも満たないので、一日の大半は眠っている。テレビを見る習慣がない豊は、飽きもせず拳都の寝顔を眺めていた。何故テレビを見ないのか、それは彼の育った環境が影響している。
中学卒業まで豊が過ごした施設にもテレビはあった。しかし、彼専用の物ではない。テレビは食堂に置かれており、視聴には他の入居者に気を遣わなければならず、わずらわしさを嫌う彼は自然とテレビから遠ざかった。
その代わりに、豊は読書を好んだ。ボクシングとの出会いも一冊の書物だった。図書館で借りた、あるボクサーの自伝である。プロボクサーを志してからは、視力の低下を恐れて本を読まなくなったため、今の彼にはこれといった趣味がない。なので、拳都の寝顔を見て時間を潰している。
午前3時過ぎ、梓が帰ってきた。豊が拳都のオムツを取り替えてる時だった。
「寝ててもいいよって言ってるのに」
「いつも、この時間になると泣き出すんだよ。梓が帰ってくるのがわかるんじゃないかな?」
「そうなのかな」
と言って、拳都を抱こうとする梓を豊は制した。
「先にうがいと手洗い!しかも酒臭い!未成年のくせに!」
梓の飲酒に、彼は毎回苦言を呈す。
「しょうがないじゃん、仕事なんだから」
梓は、すねた口調で言い返した。彼女は、歌舞伎町のキャバクラに勤めている。飲み屋にアルコールはつきものではあるが、それが未成年者の飲酒を正当化するはずもない。それに、梓はタバコも吸う。それも豊は気に入らなかった。彼がこの家に来てからは、部屋の中での喫煙を禁止している。
「俺は寝るからあとは頼むよ」
「あれ?朝のトレーニングは?」
「今日は試合だから身体を休めるんだ」
そう言って、豊は布団に潜り込んだ。
午後2時、後楽園ホールの控室で豊が出番を待ち構えていた。
「少しは緊張してきたか?」
豊の拳にバンテージを巻く小倉が聞いた。
「あんまり… 無神経なんですかね?」
「まったく、たいしたヤツだよ」
小倉は呆れたが、その後ろで荒川が、
「花道を歩く頃には、ちびりそうになるよ」
と言って、笑っている。
「あれ、荒川さんですか?お久しぶりです」
五十代半ばの男が、豊たちの前で立ち止まった。
「藤崎君じゃないか。本当に久しぶりだね」
荒川は、嬉しそうに挨拶を返した。
「今日は知り合いの応援ですか?」
「いや、うちの選手のデビュー戦でね」
と言って、苦笑いをする荒川に藤崎は驚いた。
「うちって… まだトレーナーやられてたんですか!?」
「そうだよ」
荒川は少し誇らしげに、豊の肩に手を置いた。藤崎は、豊の隣にいる小倉にも気づいた。
「小倉君か?」
「どうも、ご無沙汰しております」
小倉も苦笑している。藤崎はFSGというジムのオーナーで同業者であるが、その経営規模は月とスッポンほどの開きがあった。
「君、トレーナーになっていたのか。いやあ、懐かしい!」
藤崎は、小倉に握手を求めた。
「北原さんは元気にしてますか?」
「君の元ライバルか?あいつも今では、なかなかの指導者だよ」
北原は、小倉が日本王座に挑戦した時のチャンピオンだった。現在はFSGのトレーナーとして、後進の育成にあたっている。
「今日のメインに出る金本も北原の教え子でね。もうすぐ東洋太平洋のランキング入りだ」
藤崎は自慢げに言った。
「では、北原さんも来てるんですね?」
「向こうの控室にいるよ。あとで伝えておこう。君がトレーナーになってると知ったら驚くんじゃないかな?」
「どうでしょうね」
小倉は作り笑いをした。同じトレーナーと言っても、荒川ジムと業界最大手のFSGを同等に並べる気はない。
「ところで君の階級は?」
藤崎は豊を見た。
「フェザー級です」
「ほう、金本と一緒か。強くなって、ぜひライバルになってくれ」
「はあ」
豊は無表情で答えた。藤崎が去ったあと、小倉は豊に言った。
「金本は強いぞ。目標にするにはうってつけかもしれんな」
「はい」
豊は頷いたが、金本がどんな選手なのか知らなかった。しかし、彼はその名前を脳裏に刻み込んだ。この物語が終わるまで、ライバルとして立ちはだかる男の名を。
「拳都、大丈夫かな…」
梓は、同じキャバクラで働く舞に不安を隠さない。
「大丈夫。ママ喜んでたよ。赤ちゃんの世話なんて何十年ぶりかしらって」
拳都を舞の母親に預け、二人は豊の応援に来ていた。ボクシング観戦も後楽園ホールに来るのも初めてで、二人は戸惑いながらもどうにか自分たちの座席に着いた。
「豊君は、この次の試合かな…」
プログラムを見ながら梓が言った。
「で、本当に何もしてないの?」
電車に乗っている時から、舞は同じ質問ばかりしていた。
「だから何にもないんだって!ボクシング以外のものに興味ない感じ」
「17でしょ?そんなはずないって。よっぽど我慢してるか…」
「か?」
「梓に魅力がないかのどっちかだよね」
そう言って、舞は笑い声を上げた。梓としては複雑な心境だ。我慢はともかく、魅力に欠けていると思われているなら心外である。だが、同居を始めて約十日、豊からギラギラした男の視線を感じたことはなかった。狭い部屋の中で、下着姿でうろつく時もあるというのに。
「何か悔しい…」
梓は心の中で呟いた。
「小倉君にあったぞ」
「小倉…?」
藤崎の言葉に、北原が首をひねる。
「昔、何度か対戦しただろう」
「小倉伸一ですか?」
「ああ、トレーナーになったそうだ」
「そうなんですか?」
北原は、意外といった顔をした。それほど広い業界ではないのに初耳だったのだ。
「なんせ、あの荒川ジムだからな」
「荒川ジムですか。懐かしい名前が続きますね」
北原は手元のプログラムを開いた。
「ああ、ありますね。次の試合です。米崎豊、17歳。今日がデビュー戦ですよ」
「見に行くか?」
「そうですね、小倉にも会いたいし。お前も行くか?」
北原は、隣に座る金本を誘った。
「よしてくださいよ。何が楽しくて4回戦小僧の試合を見なきゃならないんですか?」
金本は鼻で笑うように答え、藤崎も同調する。
「そうだ。下を見てる暇なんてない。もう国内にこいつの敵はいないからな」
今日の対戦相手もタイ人だった。この試合に勝てば、金本の東洋太平洋ランキング入りは確実となる。
「では行きますか」
藤崎を促し、北原は控室を出た。