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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
38/55

第四章 3

 試合翌日。豊がジムに来ると、千尋がニヤニヤしながらスポーツ新聞を広げた。

「見て」

 昨日の三大タイトルマッチの記事である。一面ではなかったが、見開きカラーで大きく扱われていた。

「ここ!」

 千尋が左隅を指差す。豊も気づいた。

「俺だ!」

 もちろん世界戦には及ばないものの、写真付きでなかなかのスペースが割かれている。

「凄いじゃん!」

 豊は無邪気な声を上げた。

「こっちはもっと凄いのよ!」

 千尋が別の新聞を開くと、「こちらも連続KO勝利継続中!世界ランカーに圧勝!」の見出しで、更に大きく取り上げられていた。

「関東スポーツだから、渋谷さんが書いたのかもね。これをカラーコピーしてジムの会員に配るの。はい、これ」

 千尋は、マジックペンを豊に渡した。

「何するの?」

「サインするに決まってるでしょ。ただの紙切れを渡したって誰も喜ばないわよ」

「サインか…」

 何度か頼まれたことはあるが、今まで一度も書いたことはなかった。

「世界ランキングに名を連ねるんだから、サインくらいできないと恥かいちゃうよ」

 千尋は色紙も用意していた。これも大里商店街のサポーターに配布するらしい。

「それからね、如月君にお願いしたの。荒川ジムの正式な指導員になってほしいって。もちろん、学業優先で構わないからってね。彼、会員の評判いいからさ」

 豊は女子高生を中心とした年下に人気があるが、如月は彼らと同世代や年上からの好感度が高い。棲み分けができているのだ。

「もはや千尋さんが経営者だね」

 豊は冗談で言ったつもりなのだが、それが満更でもないような話を千尋は持ち出した。

「改築!?」

「そう。入会希望者を待たせたり、断ったりするのもったいないもん。ジムを拡充すれば解決する問題なんだし」

「それはそうかもしれないけど…」

 もともと、荒川ジムは営利を目的として設立されたジムではない。オーナーの荒川は、赤字にならなければいいという考えだが、開業から今日(こんにち)まで利益が出たことは一度もなかった。

「資金はどうするのさ?」

「それが問題なんだよねえ。大里商店街の山本さんが銀行を紹介してくれるんだけど、貸してくれるかどうか。でも、交渉するのは無料(ただ)だし、当たって砕けろの精神で会おうかなって。それと、荒川ジムのオリジナルグッズを作ろうと思ってる」

「グッズ?」

「そう、Tシャツとかスポーツタオルとか。結構実入りがいいらしいのよ。他のジムもやってるしね。これも北原さんを通して、近々業者と話すことになってるの」

「ジムで売るの?」

「メインはインターネットかな。その前に荒川ジムのホームページも作らなきゃ駄目か…」

 商魂のたくましさと豊富なアイデアに、豊は感心するしかなかった。


 千尋に負けじと豊も忙しない。練習が休みの今日も、ジム生指導の合間を縫って数本の取材を受けた。夕方になると関東スポーツの渋谷も顔を覗かせた。

「新聞見てくれた?」

「はい。あんなに大きく載せていただいて驚いてます」

「デスクから嫌味を言われたけどね。他のジムからクレームが入るぞって」

 渋谷はおどけるように言い、

「それで、今日はプレゼントを持ってきたんだよ」

 と、畳ほどあろうかという大きなパネルを見せた。

「紙面で使った写真を、引き延ばしてもらったんだ」

 豊が勝ち名乗りを上げるカットである。昨日の日付と、〝世界ランキング入り記念〟の文字が添えられている。

「自宅かジムに飾ってもらえればと思ってね」

「ありがとうございます。早速ジムに飾らさせてもらいます」

 今日は人の出入りが多い。今度は北原が現れた。

「快勝だったな」

「北原さんも、おめでとうございます」

「危なかったがね」

 北原は苦笑した。

「序盤は金本さんらしくなかったと思いました」

「私が余計なことを言ったからかもしれん」

「余計なこと?」

「君が鮮やかなKOを決めたもんだから、お前もとけしかけたんだよ」

「そんなことで?もっと図太いイメージですけど」

「真相はわからんが、あんな金本を見るのは初めてだった。でも、勝てて良かったよ。東京ドームの夢が消えちまうところだったからね。で、今日は聞きたいことがあって来たんだ。昨日の試合運びなんだが、最初から3ラウンドで決めるつもりだったのかと思ってね」

 北原は、試合中に感じた疑問を向けた。

「どうしてわかったんですか?」

 豊は驚いた。如月にも話していない作戦だったのだ。

「2ラウンドまでは、動作解析のおさらいをしているように見えたんだよ」

「そうです。映像で得た情報を肌で確かめるために、最初の2ラウンドは捨てました。しかし、試合を長引かせちゃうとKOが取りにくくなります。だから3ラウンド目で決めなくてはならなかったんです。結果的に成功しましたが、本当に出来すぎでした」

「映像を見せた甲斐があったんだな」

「はい。あれがなかったら、勝てたかどうかもわからないです。インサイドワークの重要性を知りました」

 豊の底知れぬ成長力とクレバーな応用力に、北原は身震いしそうになった。そして、豊が金本に挑む日も、そう遠くはないと確信した。


 梓が姿を消して一ヶ月が過ぎようとしている。荒川の好意に甘え、ほぼ毎日拳都を預かってもらっているが、いつまでもというわけにもいかない。

「私が面倒見れればいいんだけど…」

 千尋はそう言うが、現実問題としてそれも不可能に近かった。

「私と一緒に住む?」

 唐突に千尋が言い、豊を当惑させた。

「今いるアパートだって梓ちゃんの名義でしょ?いつまで住めるかわからないんだよ。家賃だってバカにならないし、二人で工夫すれば拳都の面倒も見れると思うの」

「うーん…」

「私と住むのイヤ?」

「そうじゃないけど…」

 豊は悩む。千尋は見限っているようだが、彼はまだ梓が帰ってくると信じていた。いや、信じたいという方が正確か。

「まあ、考えといて」

 豊の苦悩を察したのか、千尋は話を切り上げた。しかし、指導の最中も豊は悩み続けていた。

 千尋は、拳都を施設に入れるべきだと思っている。荒川夫妻も、口にこそ出さないが同じ意見なのかもしれない。

 自分の考え方が間違っているのか。そんな自問自答を、豊は繰り返していた。

 豊は拳都の幸せを最優先に考えている。しかし、仮に彼が育てたとしても、それが本当に拳都の幸福になるのか。いつか血の繋がりがないことを知った時、拳都はどう思うのか。

「俺のように…」

 実の親に会いたいと願うかもしれない。

「俺のように…」

 豊は、サンドバッグに何度も拳を叩きつけた。


 世界ランク9位。それが、豊に与えられた初めての勲章になった。ただし、ランキング入りしたからといって、賞金などの特典はほとんどない。1位の選手には世界ベルト挑戦の優先権があるが、2位以下はリストに名前が掲載されるくらいのものだ。それでも、やはり勲章には違いない。

 その記念パーティーが、豊の後援会を運営する大里商店街の主催で開かれた。商店街にある居酒屋を貸し切り、賑やかな会となった。

「商店街のヒーローが、今じゃ世界のヒーローだもんな。こんな嬉しいことはないよ」

 商店街代表及び後援会の会長である山本の喜びもひとしおだった。会長と言っても四十代前半で、高齢化が進む商店街の中では若手の部類に入る。彼と荒川ジムの付き合いは長く、デビューする前から豊を応援していた。

「けど、この席に伸一がいないのだけが残念だな」

「はい」

 豊は小さく頷いた。小倉がいなければ、世界ランカーどころかプロボクサーにもなれなかったと思っている。米崎豊の(いしずえ)を築いたのは、間違いなく小倉なのだ。

「伸一は意固地な男だからな…」

 山本は、小倉の現役時から交流があり、若い頃は毎日のように飲み歩いていた仲だった。

「目をやられて引退勧告を受けた時も、やめないと言い張って荒川さんを困らせたもんよ」

「そんなことがあったんですか」

「ああ。俺からボクシングを取ったら何も残らない。失明しても構わないから続けさせてくれってな。俺もどれだけ説得したことか」

 山本は、昔を懐かしむように言った。

「そんなヤツだからさ、豊ちゃんをコーチするようになって、ボクシングへの情熱が息を吹き返したんだろうな…」

「はい…」

 小倉の情熱なら、豊が誰よりも知っている。だからこそ、荒川ジムを去ったということも。

「誰が悪かったわけでもないんだ。あいつにも豊ちゃんにも譲れない何かがあって、もし、どっちかが譲っていたとても、きっと(ひず)みは残ったんじゃないかと思うな」

 何も言わず微笑む豊を見て、

「すまん、お祝いの席でしんみりさせちゃったね。けど、豊ちゃんも意地を通したんなら、とことん突き通さないとな」

 と言って、背中をポンと叩いた。


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