第四章 3
試合翌日。豊がジムに来ると、千尋がニヤニヤしながらスポーツ新聞を広げた。
「見て」
昨日の三大タイトルマッチの記事である。一面ではなかったが、見開きカラーで大きく扱われていた。
「ここ!」
千尋が左隅を指差す。豊も気づいた。
「俺だ!」
もちろん世界戦には及ばないものの、写真付きでなかなかのスペースが割かれている。
「凄いじゃん!」
豊は無邪気な声を上げた。
「こっちはもっと凄いのよ!」
千尋が別の新聞を開くと、「こちらも連続KO勝利継続中!世界ランカーに圧勝!」の見出しで、更に大きく取り上げられていた。
「関東スポーツだから、渋谷さんが書いたのかもね。これをカラーコピーしてジムの会員に配るの。はい、これ」
千尋は、マジックペンを豊に渡した。
「何するの?」
「サインするに決まってるでしょ。ただの紙切れを渡したって誰も喜ばないわよ」
「サインか…」
何度か頼まれたことはあるが、今まで一度も書いたことはなかった。
「世界ランキングに名を連ねるんだから、サインくらいできないと恥かいちゃうよ」
千尋は色紙も用意していた。これも大里商店街のサポーターに配布するらしい。
「それからね、如月君にお願いしたの。荒川ジムの正式な指導員になってほしいって。もちろん、学業優先で構わないからってね。彼、会員の評判いいからさ」
豊は女子高生を中心とした年下に人気があるが、如月は彼らと同世代や年上からの好感度が高い。棲み分けができているのだ。
「もはや千尋さんが経営者だね」
豊は冗談で言ったつもりなのだが、それが満更でもないような話を千尋は持ち出した。
「改築!?」
「そう。入会希望者を待たせたり、断ったりするのもったいないもん。ジムを拡充すれば解決する問題なんだし」
「それはそうかもしれないけど…」
もともと、荒川ジムは営利を目的として設立されたジムではない。オーナーの荒川は、赤字にならなければいいという考えだが、開業から今日まで利益が出たことは一度もなかった。
「資金はどうするのさ?」
「それが問題なんだよねえ。大里商店街の山本さんが銀行を紹介してくれるんだけど、貸してくれるかどうか。でも、交渉するのは無料だし、当たって砕けろの精神で会おうかなって。それと、荒川ジムのオリジナルグッズを作ろうと思ってる」
「グッズ?」
「そう、Tシャツとかスポーツタオルとか。結構実入りがいいらしいのよ。他のジムもやってるしね。これも北原さんを通して、近々業者と話すことになってるの」
「ジムで売るの?」
「メインはインターネットかな。その前に荒川ジムのホームページも作らなきゃ駄目か…」
商魂のたくましさと豊富なアイデアに、豊は感心するしかなかった。
千尋に負けじと豊も忙しない。練習が休みの今日も、ジム生指導の合間を縫って数本の取材を受けた。夕方になると関東スポーツの渋谷も顔を覗かせた。
「新聞見てくれた?」
「はい。あんなに大きく載せていただいて驚いてます」
「デスクから嫌味を言われたけどね。他のジムからクレームが入るぞって」
渋谷はおどけるように言い、
「それで、今日はプレゼントを持ってきたんだよ」
と、畳ほどあろうかという大きなパネルを見せた。
「紙面で使った写真を、引き延ばしてもらったんだ」
豊が勝ち名乗りを上げるカットである。昨日の日付と、〝世界ランキング入り記念〟の文字が添えられている。
「自宅かジムに飾ってもらえればと思ってね」
「ありがとうございます。早速ジムに飾らさせてもらいます」
今日は人の出入りが多い。今度は北原が現れた。
「快勝だったな」
「北原さんも、おめでとうございます」
「危なかったがね」
北原は苦笑した。
「序盤は金本さんらしくなかったと思いました」
「私が余計なことを言ったからかもしれん」
「余計なこと?」
「君が鮮やかなKOを決めたもんだから、お前もとけしかけたんだよ」
「そんなことで?もっと図太いイメージですけど」
「真相はわからんが、あんな金本を見るのは初めてだった。でも、勝てて良かったよ。東京ドームの夢が消えちまうところだったからね。で、今日は聞きたいことがあって来たんだ。昨日の試合運びなんだが、最初から3ラウンドで決めるつもりだったのかと思ってね」
北原は、試合中に感じた疑問を向けた。
「どうしてわかったんですか?」
豊は驚いた。如月にも話していない作戦だったのだ。
「2ラウンドまでは、動作解析のおさらいをしているように見えたんだよ」
「そうです。映像で得た情報を肌で確かめるために、最初の2ラウンドは捨てました。しかし、試合を長引かせちゃうとKOが取りにくくなります。だから3ラウンド目で決めなくてはならなかったんです。結果的に成功しましたが、本当に出来すぎでした」
「映像を見せた甲斐があったんだな」
「はい。あれがなかったら、勝てたかどうかもわからないです。インサイドワークの重要性を知りました」
豊の底知れぬ成長力とクレバーな応用力に、北原は身震いしそうになった。そして、豊が金本に挑む日も、そう遠くはないと確信した。
梓が姿を消して一ヶ月が過ぎようとしている。荒川の好意に甘え、ほぼ毎日拳都を預かってもらっているが、いつまでもというわけにもいかない。
「私が面倒見れればいいんだけど…」
千尋はそう言うが、現実問題としてそれも不可能に近かった。
「私と一緒に住む?」
唐突に千尋が言い、豊を当惑させた。
「今いるアパートだって梓ちゃんの名義でしょ?いつまで住めるかわからないんだよ。家賃だってバカにならないし、二人で工夫すれば拳都の面倒も見れると思うの」
「うーん…」
「私と住むのイヤ?」
「そうじゃないけど…」
豊は悩む。千尋は見限っているようだが、彼はまだ梓が帰ってくると信じていた。いや、信じたいという方が正確か。
「まあ、考えといて」
豊の苦悩を察したのか、千尋は話を切り上げた。しかし、指導の最中も豊は悩み続けていた。
千尋は、拳都を施設に入れるべきだと思っている。荒川夫妻も、口にこそ出さないが同じ意見なのかもしれない。
自分の考え方が間違っているのか。そんな自問自答を、豊は繰り返していた。
豊は拳都の幸せを最優先に考えている。しかし、仮に彼が育てたとしても、それが本当に拳都の幸福になるのか。いつか血の繋がりがないことを知った時、拳都はどう思うのか。
「俺のように…」
実の親に会いたいと願うかもしれない。
「俺のように…」
豊は、サンドバッグに何度も拳を叩きつけた。
世界ランク9位。それが、豊に与えられた初めての勲章になった。ただし、ランキング入りしたからといって、賞金などの特典はほとんどない。1位の選手には世界ベルト挑戦の優先権があるが、2位以下はリストに名前が掲載されるくらいのものだ。それでも、やはり勲章には違いない。
その記念パーティーが、豊の後援会を運営する大里商店街の主催で開かれた。商店街にある居酒屋を貸し切り、賑やかな会となった。
「商店街のヒーローが、今じゃ世界のヒーローだもんな。こんな嬉しいことはないよ」
商店街代表及び後援会の会長である山本の喜びもひとしおだった。会長と言っても四十代前半で、高齢化が進む商店街の中では若手の部類に入る。彼と荒川ジムの付き合いは長く、デビューする前から豊を応援していた。
「けど、この席に伸一がいないのだけが残念だな」
「はい」
豊は小さく頷いた。小倉がいなければ、世界ランカーどころかプロボクサーにもなれなかったと思っている。米崎豊の礎を築いたのは、間違いなく小倉なのだ。
「伸一は意固地な男だからな…」
山本は、小倉の現役時から交流があり、若い頃は毎日のように飲み歩いていた仲だった。
「目をやられて引退勧告を受けた時も、やめないと言い張って荒川さんを困らせたもんよ」
「そんなことがあったんですか」
「ああ。俺からボクシングを取ったら何も残らない。失明しても構わないから続けさせてくれってな。俺もどれだけ説得したことか」
山本は、昔を懐かしむように言った。
「そんなヤツだからさ、豊ちゃんをコーチするようになって、ボクシングへの情熱が息を吹き返したんだろうな…」
「はい…」
小倉の情熱なら、豊が誰よりも知っている。だからこそ、荒川ジムを去ったということも。
「誰が悪かったわけでもないんだ。あいつにも豊ちゃんにも譲れない何かがあって、もし、どっちかが譲っていたとても、きっと歪みは残ったんじゃないかと思うな」
何も言わず微笑む豊を見て、
「すまん、お祝いの席でしんみりさせちゃったね。けど、豊ちゃんも意地を通したんなら、とことん突き通さないとな」
と言って、背中をポンと叩いた。




