第四章 2
豊の控室は、タイトル戦並みの記者で溢れかえった。これには理由があった。このあとの三試合はテレビの生中継があり、放映時間の調整で試合の開始を遅らせているため、手の空いた記者がこぞって集まっていたのだ。
「会心の勝利でしたね?」
「はい」
豊の表情は明るい。敗戦が許されないというプレッシャーから、解放されたからだろう。
「苦戦が予想されておりましたが、下馬評を覆す圧勝劇。勝因はどのあたりに?」
「正直、僕自身も苦戦を覚悟してました。勝因?すべてがうまくいったという感じです」
「デビュー以来、すべてKOでの勝利。KOへのこだわりはありますか?」
「あります。そして、これからもこだわり続けます」
「これで世界ランキング入りが確実となりましたが、今後の抱負をお願いします」
「一日でも早く、世界王者に挑戦したいと思っています。最終目標はそこですので」
口下手な豊にしては、よく受け答えできたものだと、会見を見守っていた千尋は安堵した。
着替えを済ませた豊は、如月や千尋と一緒に三大タイトルマッチを観戦した。スパーリングでグローブを交えた水谷圭太郎は、判定でミニマム級の王座防衛に成功した。次の試合は、空位になっているスーパーフライ級の王座決定戦で、FSG所属の前王者松本が韓国の選手を下し王座に返り咲いた。
そして、豊のお目当てである金本の試合だが、金本は入場の際に関係者席の前で立ち止まり、豊の横に座る千尋に視線を向けた。異様な雰囲気の中、豊が千尋の耳元で囁いた。
「知り合いなの?」
「さあ…?」
千尋は金本を見ようともしない。北原に促され金本が去ったあと、
「絶対に千尋さんをにらんでたよね?」
と、如月も首を傾げた。千尋と金本に面識があることなど、豊同様知るはずもない。
「それにしても、思ったほど歓声がないよな。豊の時の方がすごかったぜ」
如月が、不思議そうに言った。
「そうかな?そんなことないと思うけど」
「いや、そんなことあるよ」
如月は会場を見回した。世界タイトルマッチだけあって、ものすごい熱気ではある。だが、豊の試合の時と何かが違うのだ。その何かを如月は特定できなかったが、実は単純なカラクリだった。
豊の試合は、女性ファンのいわゆる黄色い歓声が多く、それが会場の雰囲気を華やかにしていたのだ。しかし、それを金本に求めるのは酷である。もともと、ボクシングは男性ファンの比率が圧倒的に高いからだ。
リングアナのコールに、金本が右手を上げた。そして、また豊たちがいる席に目を向けた。しかし、今度は千尋ではなく、彼の目は豊をとらえていた。
「俺を見ている…」
金本の視線を、豊ははっきりと意識していた。そして、その目の奥に潜む憎悪まで感じ取っている。北原が自分のマネージメントに関与しているからなのか。理由は定かではないが、間違いなく憎しみが感じられた。
試合は、第1ラウンドから激しい撃ち合いになった。
「いつもとスタイルが違うな」
「うん…」
如月の言葉に豊が頷く。何度か試合を見ているが、金本は序盤の撃ち合いを避ける傾向にある。守りを固め無駄撃ちを誘い、相手のスタミナを消耗させる。そして、頃合いを見計らいラッシュを仕掛けKOで決める、そんな試合運びが多かった。
「俊基!落ち着け!」
セコンドが声を飛ばした。金本陣営も異変を感じているのだ。しかし、その声を無視するかのごとく、金本は暴走気味に攻め続ける。一方、チャンピオンはディフェンスに重きを置いたため、金本は無駄に体力を浪費させているように、豊や如月の目には映っていた。
豊の席には、テレビ中継の実況が届いている。解説者の元世界王者も、
「らしくないですね。初挑戦のプレッシャーで、自分を見失っているのかもしれません。普段の力を出せればいいのですが…」
と、やはりメンタル的な部分を指摘していた。
「金本さん、勝ってくださいよ…」
豊は拳を握り締めた。勝ってもらわなければ彼が困るのだ。金本も、北原が企てる大舞台の出演予定者である。いや、主演と言ってもいい。金本がベルトを獲らなければ、すべてが企画倒れで終わってしまい、豊の夢が果てしなく遠ざかってしまう。
第4ラウンド終了後のインターバル、初めて北原は金本に声をかけた。
「大阪に帰るか?」
「は?」
右瞼を腫らした金本が北原をにらんだ。唇も切れ、鮮血が滴り落ちている。
「大阪に帰って、実家の廃品回収を継ぐかと聞いてるんだ」
「ふざけんじゃねえよ」
と、毒づく金本の頬を、北原は思いきり張り飛ばした。その音は客席の豊にも聞こえたほどだ。
「ぶざけてるのはてめえじゃねえか!もし、この試合を落とすようなことがあれば契約は打ち切る。それが嫌なら勝つんだな」
そう吐き捨てて、北原はリング下に降りた。彼は本気だった。ボクサーなら誰もが夢焦がれる世界戦で、試合に集中できないヤツなど、いくら素質があろうがプロとは呼べない。まさに今の金本はプロ失格であった。だが、北原の喝で目覚めたのか、次のラウンドから金本の動きに変化があった。
「これだ…」
豊は、金本の一挙手一投足に感嘆の声を漏らした。忘れもしない、自身のデビュー戦後、初めて観戦した時のしなやかな動きが復活したのだ。その風貌から〝恐竜〟というニックネームがついているが、豊に言わせれば、金本は〝しなやかな恐竜〟だった。そして、パンチの精度は非常に高く、動作には寸分の無駄がなかった。
世界戦に相応しい白熱した試合になり、勝負は最終ラウンドまでもつれ込んだ。序盤こそ劣勢だった金本も、5ラウンド以降は押し気味に試合を進めていた。最終ラウンド前のインターバル、金本は再び客席にいる豊を見た。
「誰が大阪になんかに帰るか…」
金本俊基、彼の生い立ちは複雑だった。
2歳になったばかりの頃に、祖父母の家に預けられた。父親が傷害致死の罪で服役したからである。被害者は金本の母親、つまり彼は両親を同時に失ったことになる。
七年後、出所した父と再び暮らし始めたが、父が営む廃品回収の手伝いのため、小学校さえ満足に通えなかった。荒んだ暮らしの中、必然のごとく非行に走り、窃盗、恐喝、傷害を繰り返して、少年院に送致された。そこで、更生プログラムの一環として実施されていたボクシングと出会い、彼は才能の片鱗を見せた。
少年院から連絡を受けたFSGは、退院後の身元引受人となり、金本にプロボクサーの道を歩ませた。大阪にも支部があるが、東京に連れてきたのは、悪友との接点を断ち切るという配慮だった。それ以来、彼は一度も大阪には帰っていない。帰るつもりもなかった。
関西訛りは残っているものの、言葉も標準語を使っている。金本にとって大阪は、極貧に苦しめられた忌まわしい記憶しかないのだ。
「東京で… そしてボクシングで…」
成り上がるしかない。それが彼の原動力だった。
最終ラウンドも、金本がペースを握っていた。判定になれば勝利は確実と思われたが、彼はKOで勝つことしか考えていなかった。
「あの女に見せつけるのだ…」
何という巡り合わせなのだろうか。二度と会えないと諦めていた女に、世界初挑戦の日に再会したのだ。そして、その女は自分より格下のボクサーの隣に座っている。どういう間柄かは知らずとも、親しい仲であることに疑う余地はない。
愛情に恵まれない幼少期を過ごしたせいか、金本には愛という概念が薄かった。極端に言えば、人を愛したこともない。そんな彼の心を初めて揺さぶったのが千尋だった。
娼婦と客、ただそれだけの関係で終わるはずだった。金を渡し性欲を満たす、金本にとってはありふれた一夜にすぎない。しかし、その夜だけは何かが違った。千尋の身体を辱めながら、
「この女と…」
もっと深く関わり合いたい、そんな感情が生まれたのだ。だが、その願望は叶わなかった。恥も外聞も捨て懸命に千尋を捜したが、ついに見つけることはできなかった。ほんの数ヶ月前の出来事である。
その後、金本は千尋を忘れようとボクシングに集中した。そして、完全に忘れていた今夜、再び遭遇したのだ。想いは再燃し、リングに上がった彼は決意した。KOでベルトをもぎ取り、千尋も自分の女にすると。
だが、最終ラウンドも残り一分。ダウンだけは逃れようと、チャンピオンは完全に守りの態勢に入っていた。ここで、金本は賭けに出た。ガードを下げ、相手に顔を突き出した。
「逃げんじゃねえよ!撃ってこい!」
王者はタイ人である。当然、日本語が通じるはずもない。だが、一発逆転の絶好機にボクサーの本能が反応し、挑発に乗る形で猛ラッシュを仕掛けた。
「しめた…」
金本はそう思っただろう。重いパンチを数発もらいながらも、渾身のストレートを王者の顔面に叩き込んだ。その後のことは彼も記憶にない。試合後に聞くと、コーナーに吹っ飛ばした王者を、レフェリーの制止も振り切り、鬼の形相で殴り続けていたらしい。
TKO勝ちという最高の結果で、金本は世界ベルトを奪取した。勝ち名乗りを受けたあと、彼は四方に向かって吠えた。恒例のパフォーマンスで、一部のマスコミは〝ダイナソーシャウト〟と呼んでいるらしいが、評判はあまり良くなかった。北原も苦々しい顔で金本を見ている。
そして、ベルトを巻いてリング上での勝利者インタビュー、全国に生中継される晴れ舞台である。普段は無愛想な金本も、この時ばかりは満面の笑みを浮かべインタビューに応じていた。だが、突然表情が曇った。客席にいたはずの千尋がいなかったからだ。もちろん豊の姿もない。一番見てほしい場面で、一番見てもらいたい人がいない、こんな悲劇があっていいのか。その後は、金本の不貞腐れた顔が日本中の茶の間に届けられた。




