表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
36/55

第四章 1

「三試合目が終わったぞ!」

 如月が叫んだ。その声を合図に、ベンチでうつむいていた豊が立ち上がった。もう一試合挟んで彼の出番となる。

 豊を見て如月は驚いた。表情が見事なまでに晴れ渡っているからだ。そして身体の震えは止まっていた。

「よし!」

 豊は気合を入れ、シャドウボクシングを始めた。この時の様子を、(のち)に千尋はこう記している。


― この日、米崎豊は新たな扉を開けた ―


 入場曲〝太陽の破片〟がアリーナに響き渡り、豊が花道を小走りで駆け抜ける。今日の対戦相手は外国人なので、必然的に声援のほぼすべてが彼に向けられた。

 会場の熱気は、タイトル戦を控える金本の耳にも届いていた。

「誰の試合だ?」

 金本が不機嫌な顔で付き人を見た。実際、それほど機嫌は悪くないのだが、試合前の彼はいつもそんな表情をしている。

「米崎豊ですよ」

「米崎?」

 金本は一重瞼の目を細めた。どこかで聞いたことのある名前だった。

「森田さんを1ラウンドKOしたヤツです」

「ああ…」

 金本は思い出した。その敗戦のショックで、森田が引退したとも耳にしている。だが、その記憶ではない。米崎豊という名を、彼は別のロケーションで記憶しているはずだった。

「ちょっと見に行くか」

 金本が立ち上がった。

「珍しいですね」

 と、付き人が驚くように、普段の金本は他のボクサーの試合に興味を示さない男だった。


 関係者席で豊の試合を観戦していた北原も、金本を見て意外な顔をした。

「どういう風の吹き回しだ?」

「別に…」

 金本は仏頂面でリングを見た。マスコミの下馬評を嘲笑うかのように、豊が押し気味で試合を進めていた。

「どうだ?」

 と、北原が聞くが金本は何も答えない。トレーナーに対しても愛想の悪い男である。北原は構わずに会話を続けた。

「大方のマスコミは、ヘフロンが勝つと予想している。まあ当然だな。だが見てみろ。互角以上に渡り合っている」

「どこのジムですか?」

 リングを注視しながら金本が聞いた。

「荒川ジムだ」

「荒川ジム?」

 金本の細い目が更に細くなる。その名にも微かな記憶があった。

 1ラウンド終了間際、アリーナを大歓声が包んだ。豊がダウンを奪ったのだ。だが、ビル・ヘフロンはカウント6で立ち上がりファイティングポーズを取った。と同時にゴングが鳴る。

「森田さんを1ラウンドで倒しただけのことはありますね」

 金本が感心するように言った。彼も一度、森田と対戦しており、最終ラウンドで辛うじてKO勝ちを収めたが、判定になっていればきわどいほどの接戦だった。だが、彼は思う。

「俺が対戦した時の森田は全盛期。その後、森田が衰えていたとすれば比較にはならない…」

 確かに、豊に負けたあとすぐ森田は引退しているので、金本の理屈はまかり通るかもしれない。

「ヘフロンは本調子じゃないみたいですね」

 と呟く金本を、北原は否定しない。だが、彼の見立ては違った。

「ヘフロンの調子が悪く見えるほど、米崎の動きが良すぎるんだ…」

 マスコミは圧倒的にヘフロン有利と書いているが、希望的観測も踏まえた上で、北原は番狂わせもありえると考えていた。それが、どっちが格上かわからないような戦いを見せている。だが、さすがにヘフロンも世界ランカーである。第2ラウンドに入ると、自分のペースを取り戻していた。観客の目には、豊が押され始めたように映っただろう。しかし、北原は気づいた。

「いや… あいつ、わざと撃たせているんだ…」

 彼にはそう見えていた。1ラウンドとは別人のように、豊はパンチを出さない。そして二分を過ぎたあたりで豊の意図が読めた。

「まさか…」

 あろうことか、試合中に動作解析の復習をしているのではないか。1ラウンド目がディフェンス、そしてこのラウンドがオフェンスと、ヘフロンの癖や仕草を再確認しているに違いない。そして、第3ラウンドで勝負に出るつもりなのだろう。北原の読みが当たったのか、このラウンドで豊は一発もパンチを放たなかった。


 インターバルに入ると、

「次のラウンドで決まるな…」

 と、金本がボソッと呟いた。その声を北原は逃さない。

「そう思うか?」

「はい。やはり実力の差は歴然ですよ。ラッキーパンチをもらってダウンしましたが、それでヘフロンも目が覚めたんでしょう。今のラウンドは、米崎に一度も撃たせませんでした。あれが本来の姿です」

 金本は自信ありげに解説した。

「なるほどな」

 北原の見解とは逆だが、その可能性も否定はできない。いくら豊がヘフロンの動きを見切ったとしても、それに対応できる技術がなければ、返り討ちに遭うのは必至である。総合力は世界ランカーの方が上なのだ。

「さあどうする、米崎…」

 第3ラウンドのゴングが鳴る。先に仕掛けたのはヘフロンだ。前ラウンドでも見られた光景だが、いとも簡単に豊をコーナーに追い詰めた。彼の得意とする戦法である。

「こりゃ滅多撃ちを食らいますよ」

 金本が呆れるように言ったその時、豊の火を吹くような左ストレートが、ヘフロンの鼻っ柱をとらえ、この試合二度目のダウンを奪った。場内に響くカウントの声に、一段と大きな歓声が起こる。そして、レフェリーが10カウントを数えてもヘフロンは立てなかった。

「またラッキーパンチですよ。あんな体勢からストレートが決まるなんてありえない」

 金本は、豊の幸運を強調した。そう見えても何らおかしくはない。北原にもそう見えていたのだ。金本の指摘通り、とても腰の入ったストレートを出せる体勢ではなかった。

「だが…」

 狙っていたとしたら。故意に相手の有利な状況を作り上げ、コーナーに誘き寄せたのではないか。事実、第2ラウンドで三度(みたび)同じような展開になっていた。そこで豊は、ストレートを撃てる隙を発見したのではないか。北原の額に汗が滲んだ。その推理が正しいなら、豊の能力は彼が考えている以上のものだった。


 リング上の豊は、大歓声に応え四方に手を振っている。この勝利により、観客は新たなスターの誕生を予感したことだろう。これが金本と豊の決定的な差だった。現時点での完成度こそ金本に軍配が上がるが、ルックスを含めたスター性では豊の足元にも及ばない。聞くところによると、女性だけの私設ファンクラブまで結成されているという。お世辞にもイケメンとは言い難い金本には、ほとんど女性ファンはいなかった。

 北原が金本に言う。

「これで、お前もKOで恰好よく決めなきゃならなくなったな」

 だが、その声は金本に届いていなかった。彼は、花道を引き上げる豊に目を奪われていた。いや、豊の斜め後ろを歩く女にである。

「あの女…」

 金本の脳裏に、千尋の裸体が思い浮かんだ。そして、はっきりと思い出した。彼女が米崎豊の名を口にしていたことを。

「おい、大丈夫か?戻るぞ」

 金本の様子がおかしいと、北原は察知した。

 金本は豊の後ろ姿から目を離さない、北原にはそう見えた。だが、実際には金本の視線は豊のやや左にあった。

「あの女…」

 世界タイトル初挑戦の直前、金本のメンタルは大いに揺れ動いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ