第四章 1
「三試合目が終わったぞ!」
如月が叫んだ。その声を合図に、ベンチでうつむいていた豊が立ち上がった。もう一試合挟んで彼の出番となる。
豊を見て如月は驚いた。表情が見事なまでに晴れ渡っているからだ。そして身体の震えは止まっていた。
「よし!」
豊は気合を入れ、シャドウボクシングを始めた。この時の様子を、後に千尋はこう記している。
― この日、米崎豊は新たな扉を開けた ―
入場曲〝太陽の破片〟がアリーナに響き渡り、豊が花道を小走りで駆け抜ける。今日の対戦相手は外国人なので、必然的に声援のほぼすべてが彼に向けられた。
会場の熱気は、タイトル戦を控える金本の耳にも届いていた。
「誰の試合だ?」
金本が不機嫌な顔で付き人を見た。実際、それほど機嫌は悪くないのだが、試合前の彼はいつもそんな表情をしている。
「米崎豊ですよ」
「米崎?」
金本は一重瞼の目を細めた。どこかで聞いたことのある名前だった。
「森田さんを1ラウンドKOしたヤツです」
「ああ…」
金本は思い出した。その敗戦のショックで、森田が引退したとも耳にしている。だが、その記憶ではない。米崎豊という名を、彼は別のロケーションで記憶しているはずだった。
「ちょっと見に行くか」
金本が立ち上がった。
「珍しいですね」
と、付き人が驚くように、普段の金本は他のボクサーの試合に興味を示さない男だった。
関係者席で豊の試合を観戦していた北原も、金本を見て意外な顔をした。
「どういう風の吹き回しだ?」
「別に…」
金本は仏頂面でリングを見た。マスコミの下馬評を嘲笑うかのように、豊が押し気味で試合を進めていた。
「どうだ?」
と、北原が聞くが金本は何も答えない。トレーナーに対しても愛想の悪い男である。北原は構わずに会話を続けた。
「大方のマスコミは、ヘフロンが勝つと予想している。まあ当然だな。だが見てみろ。互角以上に渡り合っている」
「どこのジムですか?」
リングを注視しながら金本が聞いた。
「荒川ジムだ」
「荒川ジム?」
金本の細い目が更に細くなる。その名にも微かな記憶があった。
1ラウンド終了間際、アリーナを大歓声が包んだ。豊がダウンを奪ったのだ。だが、ビル・ヘフロンはカウント6で立ち上がりファイティングポーズを取った。と同時にゴングが鳴る。
「森田さんを1ラウンドで倒しただけのことはありますね」
金本が感心するように言った。彼も一度、森田と対戦しており、最終ラウンドで辛うじてKO勝ちを収めたが、判定になっていればきわどいほどの接戦だった。だが、彼は思う。
「俺が対戦した時の森田は全盛期。その後、森田が衰えていたとすれば比較にはならない…」
確かに、豊に負けたあとすぐ森田は引退しているので、金本の理屈はまかり通るかもしれない。
「ヘフロンは本調子じゃないみたいですね」
と呟く金本を、北原は否定しない。だが、彼の見立ては違った。
「ヘフロンの調子が悪く見えるほど、米崎の動きが良すぎるんだ…」
マスコミは圧倒的にヘフロン有利と書いているが、希望的観測も踏まえた上で、北原は番狂わせもありえると考えていた。それが、どっちが格上かわからないような戦いを見せている。だが、さすがにヘフロンも世界ランカーである。第2ラウンドに入ると、自分のペースを取り戻していた。観客の目には、豊が押され始めたように映っただろう。しかし、北原は気づいた。
「いや… あいつ、わざと撃たせているんだ…」
彼にはそう見えていた。1ラウンドとは別人のように、豊はパンチを出さない。そして二分を過ぎたあたりで豊の意図が読めた。
「まさか…」
あろうことか、試合中に動作解析の復習をしているのではないか。1ラウンド目がディフェンス、そしてこのラウンドがオフェンスと、ヘフロンの癖や仕草を再確認しているに違いない。そして、第3ラウンドで勝負に出るつもりなのだろう。北原の読みが当たったのか、このラウンドで豊は一発もパンチを放たなかった。
インターバルに入ると、
「次のラウンドで決まるな…」
と、金本がボソッと呟いた。その声を北原は逃さない。
「そう思うか?」
「はい。やはり実力の差は歴然ですよ。ラッキーパンチをもらってダウンしましたが、それでヘフロンも目が覚めたんでしょう。今のラウンドは、米崎に一度も撃たせませんでした。あれが本来の姿です」
金本は自信ありげに解説した。
「なるほどな」
北原の見解とは逆だが、その可能性も否定はできない。いくら豊がヘフロンの動きを見切ったとしても、それに対応できる技術がなければ、返り討ちに遭うのは必至である。総合力は世界ランカーの方が上なのだ。
「さあどうする、米崎…」
第3ラウンドのゴングが鳴る。先に仕掛けたのはヘフロンだ。前ラウンドでも見られた光景だが、いとも簡単に豊をコーナーに追い詰めた。彼の得意とする戦法である。
「こりゃ滅多撃ちを食らいますよ」
金本が呆れるように言ったその時、豊の火を吹くような左ストレートが、ヘフロンの鼻っ柱をとらえ、この試合二度目のダウンを奪った。場内に響くカウントの声に、一段と大きな歓声が起こる。そして、レフェリーが10カウントを数えてもヘフロンは立てなかった。
「またラッキーパンチですよ。あんな体勢からストレートが決まるなんてありえない」
金本は、豊の幸運を強調した。そう見えても何らおかしくはない。北原にもそう見えていたのだ。金本の指摘通り、とても腰の入ったストレートを出せる体勢ではなかった。
「だが…」
狙っていたとしたら。故意に相手の有利な状況を作り上げ、コーナーに誘き寄せたのではないか。事実、第2ラウンドで三度同じような展開になっていた。そこで豊は、ストレートを撃てる隙を発見したのではないか。北原の額に汗が滲んだ。その推理が正しいなら、豊の能力は彼が考えている以上のものだった。
リング上の豊は、大歓声に応え四方に手を振っている。この勝利により、観客は新たなスターの誕生を予感したことだろう。これが金本と豊の決定的な差だった。現時点での完成度こそ金本に軍配が上がるが、ルックスを含めたスター性では豊の足元にも及ばない。聞くところによると、女性だけの私設ファンクラブまで結成されているという。お世辞にもイケメンとは言い難い金本には、ほとんど女性ファンはいなかった。
北原が金本に言う。
「これで、お前もKOで恰好よく決めなきゃならなくなったな」
だが、その声は金本に届いていなかった。彼は、花道を引き上げる豊に目を奪われていた。いや、豊の斜め後ろを歩く女にである。
「あの女…」
金本の脳裏に、千尋の裸体が思い浮かんだ。そして、はっきりと思い出した。彼女が米崎豊の名を口にしていたことを。
「おい、大丈夫か?戻るぞ」
金本の様子がおかしいと、北原は察知した。
金本は豊の後ろ姿から目を離さない、北原にはそう見えた。だが、実際には金本の視線は豊のやや左にあった。
「あの女…」
世界タイトル初挑戦の直前、金本のメンタルは大いに揺れ動いた。




