第三章 12
正午過ぎ、千尋は富山駅に着いた。タクシーに乗り、県知事の家までと告げる。
「当選祝いかい?」
「東京から来たのかい?」
話好きな運転手らしく、乗車早々質問攻めにあった。適当にあしらっていたが、急に運転手の声のトーンが変わった。
「あれ?ひょっとして角田さんの娘さんかい?」
「いえ、そのコの知り合いなんです」
「そうなんだ。いや、知事選の最中に変な噂が立ってね」
運転手の声にまた変化が見えた。心なしか小声になっている。
「どんな噂ですか?」
千尋も小声になりながら、身を乗り出すように聞いた。
「あくまでも噂なんだけどね…」
と言いながら、運転手は詳しく教えてくれた。
角田の娘が富山を離れ、東京で水商売をしている。ここまでは千尋の知る情報と同じである。問題はそのあとだ。
「なんでも相当グレちゃって、クスリにまで手を出したって話なんだよ」
「クスリって… 覚醒剤か何かですか?」
「だと思うよ。それで角田さんは、その噂のもみ消しに必死だったらしいんだ」
「そんなことがあったんですか?」
事実なら大問題だが、その噂が梓の失踪に関係があるのか。
タクシーは目的地、角田の自宅に到着した。
大きな家だった。敷地も広く、大豪邸と呼んでも大袈裟ではない。舞が言っていた通り金持ちなのだろう。
門柱にある呼び鈴を押すと、インターホンから女の声が聞こえた。
「東京から来た者ですが、梓さんのことでお話がありまして」
そう言って、千尋は相手の様子を窺った。数秒後、
「どうぞ…」
と、力ない返事があり、門の鍵が開く音がした。千尋が玄関に向かって歩くと、ドアが開き三十代後半くらいの女が姿を見せた。角田の妻だろうか。挨拶をする間もなく、女は千尋をにらみつけ、
「約束が違うじゃないの!」
と、非難するような声を上げた。
「約束…?」
わけがわからない。千尋はアポなしで来ているのだ。
「一度きりの約束だったはずでしょ?だから主人もお支払いしたんです」
何故怒っているのかも千尋にはわからないが、女が角田の妻であることは確認できた。とにかく、会話を成立させる必要がある。
「ちょっと待ってください、いったい何の話でしょうか?」
「しらばっくれるの?警察呼びますよ?」
角田夫人は、ついに怒鳴るような声になった。千尋が何を言っても、取りつく島もない雰囲気である。こうなれば、用件だけ伝えて一旦引き下がるしかない。
「梓さんのお子さんのことで来ました。三週間前、子供を残して行方不明になってしまったんです」
「子供…?」
興奮が冷めやまぬのか、角田夫人の呼吸が荒い。
「はい、まだ生後六ヶ月の赤ちゃんです。今は知人が預かってくれていますが、梓さんが戻ってこないなら、ご実家の方で引き取っていただけないかと思い、こうしてお伺いしたのですが」
角田夫人は、とりあえず最後まで聞いてくれた。脈があると千尋は思ったが、そうは問屋が卸さなかった。
「確かに梓は角田の娘です。けど、自分から縁を切って出て行ったんです。何故、うちで引き取らなければならないんでしょうか?」
「何故って、あなたのお孫さんだろ?引き取るのが筋だろ!」
千尋は喧嘩腰になった。金本に絡まれた時もそうだったが、ドスを効かせるのはお手の物である。しかし、一瞬尻込みはしたものの、角田夫人も負けていなかった。
「そんなチンピラみたいな脅しが、何度も通用すると思ってんの?いいわ、警察を呼ぶからキッチリ話つけようじゃないの!」
そう言うと、家の中に入ってしまった。本当に警察に電話をするつもりなのか。
馬鹿馬鹿しくなった千尋は、東京に帰ることにした。こんな家に引き取ってもらっても、拳都が幸せに暮らせないと判断したからだ。
「こんな遅い時間になって申し訳ないね」
北原が豊に謝った。場所はFSGのコンピュータールーム、時刻は午前0時近い。
「部外者は立入禁止でね。みんなが帰ったあとじゃないと、君を呼べなかったんだ」
つまり、北原の独断での行動なのだろう。豊の方こそ申し訳なく思った。
「君が気にすることじゃない。君が勝ってくれたら、うちのジムも潤うんだから」
そんな話をしながら、北原がパソコンを立ち上げると、壁にかかった大きなスクリーンが輝いた。
「ここに等身大の選手が映るんだよ」
「へえ…」
豊は子供のような声を上げた。
「ビル・ヘフロンのデータを入れよう」
北原がディスクを入れると、スクリーンにボクサーの姿が映し出された。
「おお!」
思わず叫んだ豊に、
「今から映像を動かすから、この眼鏡をかけて正面に立ってくれ」
と、北原が促す。言われた通り眼鏡を装着しスクリーンの前に立つと、またもや豊は感嘆の声を上げた。そこに立体的なビル・ヘフロンがいるのだ。
「動かすぞ」
北原の声に反応するように、ヘフロンがジャブを放ってきた。条件反射で豊はかわす。
「かわしちゃ駄目だよ。相手が動く瞬間にどんな前兆があるか、それを見極めるんだ」
「難しいですね…」
「難しいが、コツさえつかめばいろいろと見えてくる。たとえば、ある選手は右アッパーを撃つ時だけ口が微妙に開く。そういった癖を頭の中に叩き込み、対応するトレーニングをするんだ」
「わかりました。時間はどれくらいありますか?」
「君さえ良かったから、朝までいても構わないぞ」
と、北原は笑ったが、豊が本当に夜明けまでスクリーンとにらめっこを続けるとは思いもしなかった。
「参考になったかな?」
朝陽に目を細め、北原が豊に聞いた。
「はい。でもすみません、こんな時間まで付き合わせてしまって」
「いや、夢中になってくれて、連れてきた甲斐があったよ」
豊の飽くなき向上心に、ますます北原は好感を持った。事情が許すなら、今すぐにでも引き抜いて、みっちり指導したいとさえ思うほどだ。だが、その欲望はすぐにかき消した。荒川ジムにいるからこそ、米崎豊は値打ちがあるボクサーなのだ。
高校野球に例えるなら、離島にある無名校が甲子園常連校に立ち向かう、そんな図式に世間は共感する。北原のプロデュースでは、豊は離島の無名校である。部員ギリギリの公立校が勝ち進み、決勝で私立の強豪に挑む。判官贔屓も手伝って、誰しもが無名校を応援するだろう。大衆とはそんなものだ。だが、北原は知っていた。大衆がブームを作り、そして育むことを。〝金本vs米崎〟は、最高のディナーになりえる素材である。あとは、シェフである彼が、どんなスパイスをきかせ、どう調理するのか、腕の見せどころとなるだろう。




