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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
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第三章 12

 正午過ぎ、千尋は富山駅に着いた。タクシーに乗り、県知事の家までと告げる。

「当選祝いかい?」

「東京から来たのかい?」

 話好きな運転手らしく、乗車早々質問攻めにあった。適当にあしらっていたが、急に運転手の声のトーンが変わった。

「あれ?ひょっとして角田さんの娘さんかい?」

「いえ、そのコの知り合いなんです」

「そうなんだ。いや、知事選の最中に変な噂が立ってね」

 運転手の声にまた変化が見えた。心なしか小声になっている。

「どんな噂ですか?」

 千尋も小声になりながら、身を乗り出すように聞いた。

「あくまでも噂なんだけどね…」

 と言いながら、運転手は詳しく教えてくれた。

 角田の娘が富山を離れ、東京で水商売をしている。ここまでは千尋の知る情報と同じである。問題はそのあとだ。

「なんでも相当グレちゃって、クスリにまで手を出したって話なんだよ」

「クスリって… 覚醒剤か何かですか?」

「だと思うよ。それで角田さんは、その噂のもみ消しに必死だったらしいんだ」

「そんなことがあったんですか?」

 事実なら大問題だが、その噂が梓の失踪に関係があるのか。

 タクシーは目的地、角田の自宅に到着した。


 大きな家だった。敷地も広く、大豪邸と呼んでも大袈裟ではない。舞が言っていた通り金持ちなのだろう。

 門柱にある呼び鈴を押すと、インターホンから女の声が聞こえた。

「東京から来た者ですが、梓さんのことでお話がありまして」

 そう言って、千尋は相手の様子を窺った。数秒後、

「どうぞ…」

 と、力ない返事があり、門の鍵が開く音がした。千尋が玄関に向かって歩くと、ドアが開き三十代後半くらいの女が姿を見せた。角田の妻だろうか。挨拶をする間もなく、女は千尋をにらみつけ、

「約束が違うじゃないの!」

 と、非難するような声を上げた。

「約束…?」

 わけがわからない。千尋はアポなしで来ているのだ。

「一度きりの約束だったはずでしょ?だから主人もお支払いしたんです」

 何故怒っているのかも千尋にはわからないが、女が角田の妻であることは確認できた。とにかく、会話を成立させる必要がある。

「ちょっと待ってください、いったい何の話でしょうか?」

「しらばっくれるの?警察呼びますよ?」

 角田夫人は、ついに怒鳴るような声になった。千尋が何を言っても、取りつく島もない雰囲気である。こうなれば、用件だけ伝えて一旦引き下がるしかない。

「梓さんのお子さんのことで来ました。三週間前、子供を残して行方不明になってしまったんです」

「子供…?」

 興奮が冷めやまぬのか、角田夫人の呼吸が荒い。

「はい、まだ生後六ヶ月の赤ちゃんです。今は知人が預かってくれていますが、梓さんが戻ってこないなら、ご実家の方で引き取っていただけないかと思い、こうしてお伺いしたのですが」

 角田夫人は、とりあえず最後まで聞いてくれた。脈があると千尋は思ったが、そうは問屋が卸さなかった。

「確かに梓は角田の娘です。けど、自分から縁を切って出て行ったんです。何故、うちで引き取らなければならないんでしょうか?」

「何故って、あなたのお孫さんだろ?引き取るのが筋だろ!」

 千尋は喧嘩腰になった。金本に絡まれた時もそうだったが、ドスを効かせるのはお手の物である。しかし、一瞬尻込みはしたものの、角田夫人も負けていなかった。

「そんなチンピラみたいな脅しが、何度も通用すると思ってんの?いいわ、警察を呼ぶからキッチリ話つけようじゃないの!」

 そう言うと、家の中に入ってしまった。本当に警察に電話をするつもりなのか。

 馬鹿馬鹿しくなった千尋は、東京に帰ることにした。こんな家に引き取ってもらっても、拳都が幸せに暮らせないと判断したからだ。


「こんな遅い時間になって申し訳ないね」

 北原が豊に謝った。場所はFSGのコンピュータールーム、時刻は午前0時近い。

「部外者は立入禁止でね。みんなが帰ったあとじゃないと、君を呼べなかったんだ」

 つまり、北原の独断での行動なのだろう。豊の方こそ申し訳なく思った。

「君が気にすることじゃない。君が勝ってくれたら、うちのジムも潤うんだから」

 そんな話をしながら、北原がパソコンを立ち上げると、壁にかかった大きなスクリーンが輝いた。

「ここに等身大の選手が映るんだよ」

「へえ…」

 豊は子供のような声を上げた。

「ビル・ヘフロンのデータを入れよう」

 北原がディスクを入れると、スクリーンにボクサーの姿が映し出された。

「おお!」

 思わず叫んだ豊に、

「今から映像を動かすから、この眼鏡をかけて正面に立ってくれ」

 と、北原が促す。言われた通り眼鏡を装着しスクリーンの前に立つと、またもや豊は感嘆の声を上げた。そこに立体的なビル・ヘフロンがいるのだ。

「動かすぞ」

 北原の声に反応するように、ヘフロンがジャブを放ってきた。条件反射で豊はかわす。

「かわしちゃ駄目だよ。相手が動く瞬間にどんな前兆があるか、それを見極めるんだ」

「難しいですね…」

「難しいが、コツさえつかめばいろいろと見えてくる。たとえば、ある選手は右アッパーを撃つ時だけ口が微妙に開く。そういった癖を頭の中に叩き込み、対応するトレーニングをするんだ」

「わかりました。時間はどれくらいありますか?」

「君さえ良かったから、朝までいても構わないぞ」

 と、北原は笑ったが、豊が本当に夜明けまでスクリーンとにらめっこを続けるとは思いもしなかった。

「参考になったかな?」

 朝陽に目を細め、北原が豊に聞いた。

「はい。でもすみません、こんな時間まで付き合わせてしまって」

「いや、夢中になってくれて、連れてきた甲斐があったよ」

 豊の飽くなき向上心に、ますます北原は好感を持った。事情が許すなら、今すぐにでも引き抜いて、みっちり指導したいとさえ思うほどだ。だが、その欲望はすぐにかき消した。荒川ジムにいるからこそ、米崎豊は値打ちがあるボクサーなのだ。

 高校野球に例えるなら、離島にある無名校が甲子園常連校に立ち向かう、そんな図式に世間は共感する。北原のプロデュースでは、豊は離島の無名校である。部員ギリギリの公立校が勝ち進み、決勝で私立の強豪に挑む。判官贔屓も手伝って、誰しもが無名校を応援するだろう。大衆とはそんなものだ。だが、北原は知っていた。大衆がブームを作り、そして育むことを。〝金本vs米崎〟は、最高のディナーになりえる素材である。あとは、シェフである彼が、どんなスパイスをきかせ、どう調理するのか、腕の見せどころとなるだろう。


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