第三章 10
梓が姿を消して一週間が過ぎた。その間に、彼女が通う専門学校から連絡があり、実家の方でも梓の行方はわからないとのことだった。舞も協力し、目ぼしい場所はすべて探したが、依然手がかりさえつかめていなかった。
「まさか自殺なんてことは…?」
荒川が不安を口にした。だが、舞は自信を持って否定する。
「それは絶対にありません。そこまで悩んでいたなら、私に相談していたはずです。けど、梓のお父さんって、地元ではかなりの有名人でお金持ちみたいなんです。私立探偵でも雇ってくれればいいのに」
「でも、仲悪いんでしょ?」
千尋が聞いた。
「仲が悪くても親子じゃないですか。普通なら心配すると思いますけど?」
「普通か…」
千尋は寂しげに微笑んだ。彼女の親も、舞が考える普通の親ではない。五年近く音信不通だが、一切心配などしていないだろう。
「お金持ちってことは、社長とかやってるのかな?」
「そうみたいです。あと県議会議員みたいなのもやってるらしく」
「だったら調べたらわかりそうだね」
「でも実家にいないんじゃ、調べても意味なくないですか?」
「拳都を引き取ってもらうのよ。お孫さんなんだから当然よね」
「なるほど」
梓の苗字は角田。インターネットで検索すると、角田啓三という県議にヒットした。この人物が梓の父親だとすると、なかなかの大物である。地元では大手の部類に入る建設会社を経営しており、二週間後の県知事選に立候補していた。
「すぐに行っても会えそうにないか…」
選挙が終わってから訪ねてみようと、千尋は思った。
その日の夕方、北原が荒川ジムに来た。次戦の相手についての話だったが、その相手に豊と千尋は驚いた。
「世界ランカー!?」
「そうなんだ。君も知っての通り、来月の興行で金本が世界タイトルに挑戦する。そして、同じ日に世界ランク8位のアメリカ人選手と大阪日下部ジムの鮎川の試合を予定していたんだが…」
鮎川はフェザー級の東洋太平洋ランカーだが、怪我で出場できなくなったという。
「契約は済ませてるから、試合が中止になってもギャラは支払わなければならない。かと言って、代役を立てようにも手頃な選手がいなくてね」
そんな北原の説明に、千尋が難色を示す。
「いきなり世界ランカーなんて… 米崎に勝ち目はあるんですか?」
「確かに強敵だが、面白いと思っている。当日はトリプル世界戦があってマスコミの注目も高いし、アリーナもおそらく超満員になる。そんな中で世界ランカーを倒したら… 考えるだけでゾクゾクしないかね?」
北原は、豊の目を見て言った。しかし、千尋が異を唱える。
「でも、負ければ商品価値はゼロになると言ってたじゃありませんか?」
「だが、勝てば何倍にも跳ね上がるんだ」
「ハイリスクハイリターンですね」
「もともとボクシングは、そういう性質のものだよ。それに、ボクサーの選手寿命は長くない。特に旬の時期は一瞬で過ぎ去ってしまう。もちろん、やるかどうかは本人次第だが。どうだね、米崎君?」
「やらせてください!」
豊は間髪入れずに答えた。自分でも驚くほど大きな声だった。北原と千尋のやり取りを黙って聞いていたが、胸の高鳴りをこらえずにはいられなかった。
「KOだぞ?できるか?」
「はい!」
これにも豊は即答した。できるできないではなく、この千載一遇のチャンスを逃す選択は、彼にはなかった。
翌日から、豊のトレーニングは激しさを増した。梓のことは気がかりだが、次の試合で結果を残せなければ、拳都を養うために引退する覚悟だった。結果とはKOでの勝利を意味する。勝ってもKOでなければ、北原に見限られるのは明白であるし、彼自身その商品価値にこだわっていた。
KO勝ちを続けることでプレミア感を高め、世界に挑むタイミングでマックスに達する。そうすれば、自ずと世間の注目を集めるに違いない。豊がボクシングを始めた理由はそこにあった。ボクシングファンのみならず、一人でも多くの国民に米崎豊の名を知ってもらいたかった。
翌日、また北原がジムに来た。
「ビル・ヘフロンの試合映像を持ってきたんだ。それと、彼…」
北原は、見るからにボクサーとわかる男を連れていた。
「如月君のような素晴らしいパートナーがいるので、余計なお世話かとも思ったんだが、次の対戦相手とタイプが似ているんでね」
豊のスパーリングパートナーとして、FSGからわざわざ連れてきたのだ。豊よりランクも階級も上の選手だ。
「いえ、とても助かります」
北原が言うように、如月は最高のパートナーだが、いろんなタイプの選手と交わるのは勉強になる。早速、豊はリングに上がった。如月とスパーリングを6ラウンド消化したばっかりだったが、気合の入り方が違うのだろう、笑顔すら見せるタフネスぶりである。
「米崎の相手って、強いんですよね?」
リング上の豊を見つめながら、千尋は北原に尋ねた。
「当然強い。だが、センスなら彼も負けていないよ。問題はキャリアだろう」
彼が不安視するのは、豊がトレーナーのいない状況で練習をしていることだ。素晴らしいと評した如月がいるものの、あくまで彼はトレーナーではなかった。トレーナーの指導なしで勝てるほど、ボクシングは甘いスポーツではない。ましてや、次の試合は世界レベルの戦いなのだ。だからこそ、北原は最大限のバックアップをするつもりだった。
今度のマッチメイクは、ひとえにFSGの都合によるものだ。北原のプランでは、これほど早く大物とぶつける予定ではなかった。しかし、本当に世界ランカーをKOで倒したとなれば、マスコミを煽りまくって豊を売り出す腹づもりでいる。
「それにしても…」
豊の動きがいいと、北原は目を見張った。彼が連れてきたスパーリングパートナーを子供扱いしている。
「これは、ひょっとしてひょっとするかもな…」
ベテラントレーナーの北原にそう思わせるほど、豊は格上の相手を圧倒していた。




