第三章 9
営業時間前だったが、店内には男のスタッフがいた。黒服と呼ばれる職種の者だろう。
「梓というコがこちらで働いてると思うのですが?」
「梓ちゃんは、ここ何日か休んでますよ」
と答える黒服に、千尋は事情を話した。
「舞ちゃんなら何か知ってるかもしれないな。あのコも今日は休みだから、電話して聞いてみましょう」
チャラそうな感じだったが、黒服は親切に対応してくれた。数分して、
「ちょうど新宿に出てるから、会って話したいそうです」
と言って、駅ナカにあるタリーズで待っていると教えてくれた。二人は礼を言って新宿駅に戻った。
「どんな服装か聞いておけばよかったかな」
「舞さんなら、会ったことがあるよ」
「そうなの?」
「何度か梓と試合を観に来てくれたから」
タリーズに着くと、舞が豊に向かって手を振った。
「この前は応援行けなくてごめんね」
「いえ。梓から連絡ありました?」
「それが全然なの。メールの返事もないし。一週間前くらいから、ちょっと様子が変だったんだけど」
「そんな前から!?」
豊は驚いてしまった。彼の前では、普段と変わらぬ様子だったはずだ。
「何かあったんでしょうか?」
千尋が聞いた。
「実は、店に梓の元カレが来たんです」
「えっ、あの男が!?」
「豊君知ってるの?」
舞は、意外そうな顔をした。
「ちょっと前にアパートに来たんです。梓が追い返したけど」
「で、店には客として来たんですけど、それからだと思うんです。梓の様子が変わったのは」
どんな会話をしたかまではわからないと舞は言う。
「その男とヨリが戻ったのかな?」
「それは絶対にない!」
豊は、千尋の意見を強く否定した。
「じゃあ、何でいなくなったの?」
「それは…」
彼にもわからない。しかし、拳都を置いてあの男のもとへ行くなどありえない。いや、そう信じたかった。
「私もそれはないと思います。竹内ってホントにどうしようもないヤツだし、梓も散々苦労したから…」
舞も豊に同調した。
「彼女の実家はどこなの?」
「富山って言ってたけど、詳しくはわかりません。あのコ、上京前の話はしたがらなかったから。それに実家には戻ってないと思います」
「どうして?」
「親と仲悪いみたいで、もう何年も連絡も取ってないそうなんです」
「そうなんだ…」
親と音信不通なのは、千尋も同じである。
「梓ちゃんから連絡あったら、ここに電話して」
携帯番号を教え、豊と千尋は舞と別れた。
「何か食べていこうか」
「うん」
あまり食欲はなかったが、豊は誘いに乗った。
前に行った小料理屋に入ると、千尋は瓶ビールを注文しグラスを二つ頼んだ。ひとつは豊の分という意味だろう。
「ごめんね、仕事休ませちゃって」
「たまにはいいのよ」
千尋は、朝方まで営業している居酒屋で働いていた。そして日中は、ほとんど荒川ジムにいる。
「いったい、いつ寝てるんだろうか…」
と、いつも豊は心配していた。
「梓ちゃん、どうしたんだろう。本当にわからないの?」
「ええ…」
この時、梓と出会った経緯を話すべきか、豊は迷っていた。だが、まだ梓が自分の意思でいなくなったという確証はない。
「そんなんじゃ彼氏失格だよ」
「えっ!?」
「何驚いてるのよ。彼氏だったら、しっかりつかまえておかないと」
「いや、俺と梓はそんな関係じゃ…」
「はあ?同棲してるのに?」
「同棲じゃなくて同居。ただ一緒に暮らしるだけで」
「じゃあ身体の関係もないの?」
女将が会話に参加してきた。
「ありません」
と言って、豊は顔を赤らめた。
「嘘だ。信じられない!」
女子高生のような声を出して女将は驚いた。
「一緒に住んでどれくらい?」
「半年くらいです」
「そんなにいて一回もないの?そういう気にならない?」
「毎日練習でヘトヘトになって帰るし…」
「そのコはどう思ってるんだろうね?」
女将は興味津々である。
「どうなんでしょう…」
豊にもわからないが、そういった誘惑は一度もなかった。
「豊は梓ちゃんのこと、どういう風に考えてるわけ?将来的に結婚したいとかさ」
「それは…」
千尋の問いに豊は窮した。梓や拳都との触れ合いの中で、彼は家族というものを意識するようになった。いつかは結婚して子供を欲しいとも思う。だが、梓をその対象として考えたことはなかった。それは好き嫌いの問題ではなく、今はボクシングがすべてであり、恋愛に心を向ける余裕がないからである。
「とりあえず、もう一日待ってみましょう。明日までに帰ってこなければ、考えなきゃならないこともあるし」
「何を?」
「拳都よ。ずっと会長に面倒見てもらうわけにもいかないのよ?」
「そうだね…」
豊と違い、千尋は梓が戻ってこないものと想定しているようだ。しかし、いつまでも荒川に拳都を預けるのは彼も反対だった。荒川の妻が体調を崩しているので、負担をかけられないのだ。
「梓、帰ってこい…」
豊は、グラスに残っていたビールを飲み干し、心の中で呟いた。
翌朝になっても梓は帰らない。豊がジムに行くと、
「何か見つかった?」
と、千尋が聞いた。手がかりになるような物を探してと頼まれ、夜通し部屋の中をかき回したが、徒労に終わっていた。
「私が警察に行って相談してくるから、豊はバイト行ってトレーニングしてちょうだい」
「でも、こんな時に…」
「あたふたしてもしょうがないの。もう一度梓ちゃんの学校にも行って、実家の連絡先を聞いてくるから」
「すみません、何もかも押しつけちゃって」
「いいの。ちゃんと練習するんだよ」
千尋が出かけたあと、豊もアルバイトに行きトレーニングに励んだが、やはり集中力が持続せず、如月とのスパーリングでも、普段ではありえないほどパンチを受けてしまった。
「これじゃあ練習にもならない。今日はもうやめよう」
そう言って、如月はグローブとヘッドギアを外しベンチに腰を下ろした。
「ごめん…」
豊も、リングから降り如月の隣に座った。
「聞いてもいいか?豊と梓さんはどういう関係なんだ?俺は、普通に恋人同士だと思ってたんだけど」
「ただ一緒に住んでるって関係なのかな…」
「拳都は豊の子供じゃないんだろ?」
「うん」
「将来結婚の予定もなし?」
「うん…」
昨夜の千尋と同じ質問に、豊は苦笑しながら答えた。
「けど、梓さんは豊を好きだぞ?」
「そうかな?」
「見てりゃわかるさ。ホントに気づいてないの?それとも照れ隠し?」
「たとえ向こうがそう思ってたとしても、今の俺にはそんな余裕なんてないよ」
「ボクシングと恋愛は別物だろ?俺だって、高校の時から付き合ってる彼女もいるんだし」
「君と俺じゃ境遇が違いすぎるよ。ボクシングをやめても、君には歩くべき道があるじゃないか。今の俺にはこれしかないんだ」
豊は、外したばかりのグローブを撫でた。だが、ボクシングで生計が立つわけではないし、彼自身そんな気もない。引退後は家庭を持ちたいとも思うが、親も学歴もない身で養っていけるのかという不安もあった。
夕方、千尋が戻ってきた。
「やっぱり個人情報だから、実家の連絡先は教えてくれなかった。けど、梓ちゃんの親には電話してくれるって」
そして、その結果も知らせてくれるという。
今夜も荒川が拳都を預かってくれることになったが、
「施設に相談した方がいいのかも…」
と、厳しい顔で千尋は言った。だが、豊は反対だった。もし永遠に梓が戻ってこないなら、彼は自分の子として育てようとまで考えている。
「練習はどうするの?」
「ジムに連れてくるか、託児所に預けるか、そこまでは考えてないけど…」
「できると思う?今までは梓ちゃんがいたけど、それを全部一人でやらなきゃならないんだよ?ボクシングだって、これからが大事な時なのに」
「大変なのはわかってる。でも、施設には絶対に入れたくないんです。拳都には、親に捨てられた悲しみを背負ってほしくないから…」
そう言われると、千尋に返す言葉はなかった。彼女は、豊がプロボクサーを志した真の理由を知っている。孤児でなければ、彼はこの世界に足を踏み入れていないことも。
「わかった。私も出来る限り協力する」
千尋は妥協した。豊の考えが正しいとは思わないが、すぐに結論を出せる問題ではない。それに、豊は信念を貫き通す人間である。だからこそ目標のプロボクサーになり、今もこうして邁進しているのだ。
「捜索願も出したし、とにかく見つかることを祈りましょう」
練習後、豊は荒川の家に寄り、一緒に泊めてもらうことになった。




