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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
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第三章 8

 アパートの前で豊は異変を感じていた。いつもなら必ず点いている、梓の部屋の(あかり)が消えているのだ。

「出かけてるのか…?」

 と、彼は思ったが、午後8時を過ぎている。こんな時間に拳都を連れ外に出るとは考えにくい。急いで階段を駆け上がると、赤ん坊の泣き声が響き渡っていた。

「拳都だ…」

 ドアを開け電気を点けると、やはり梓の姿はなかった。慌てて拳都を抱き抱えたが、泣き止む気配がない。ミルクを作って与えると、夢中で哺乳瓶に吸いついた。空腹だったらしい。

 一息つくと、梓への怒りがこみ上げてきた。今日は仕事が休みのはずだ。稀に急遽出勤する日もあるが、そんな時はジムに来て拳都を預けてから出かけていた。

「帰ってきたら文句を言ってやる…」

 豊は、憤慨しながら拳都と眠りについたが、朝になっても梓は帰ってこなかった。

「俺、バイトがあるんですよ。申し訳ないんですが、拳都を預かってもらえませんか?」

 豊は事情を説明し、荒川に子守りを頼んだ。

「それは構わんが、梓ちゃんはどうしたんだ?」

「わからないんです。こんなこと今までなかったし…」

「心当たりは?」

「それが…」

 考えてみると、まったくと言っていいほど、梓について知らなかった。唯一知っているのは舞という友人だが、連絡先まではわからない。

「とりあえず仕事に行きますので、拳都をよろしくお願いします」

 二週間前から、豊は大里商店街にある市場(いちば)で働いている。午前中だけの勤務で、ほぼ毎日出勤していた。彼の仕事は、トラックで運ばれてくる商品の荷下ろしと陳列がメインである。年配の従業員が多く、若くて体力がある豊は重宝がられていた。


 仕事を終えた豊はアパートに帰った。だが、梓の姿はない。書き置きを残しジムへ行くと、千尋が子守りをしていた。

「すみません、迷惑かけちゃって」

「梓ちゃん、いなくなったんだって?」

「いなくなったというか、帰ってこないんです」

「心当たりは?」

 今朝、荒川にもされた質問に、再び豊は当惑するしかない。

「それが何にもなくて…」

 豊の答えに千尋は呆れた。

「あんたたち一緒に暮らしてるんでしょ?喧嘩でもしたんじゃなくて?」

「いや、喧嘩なんか…」

「何にもないのに出て行くはずがないでしょ!」

「そんなこと言われても…」

「もう!今日はトレーニングを中止して梓ちゃんを捜すよ!」

 豊の態度に業を煮やしたのか、千尋は苛立ちを隠さずに大声を出した。タイミングよくジムに来た如月も連れ、梓の捜索が始まった。

「まずは警察に行ってみましょう。事件や事故の可能性もあるから」

 三人は、大里商店街にある派出所へ走った。

「うちの管轄では何もなかったけど、本署に問い合わせてみよう」

 人の()さそうな巡査が電話をかけてくれたが、それらしき事件や事故は今のところ発生していなかった。

「そうですか…」

「がっかりすることはないじゃないか。事件や事故に関係ないなら、どこかで元気にいると思わなきゃ」

 落胆する豊を励ますように巡査は言った。

「そうですよね。何かわかったら連絡ください」

 千尋は自分の携帯番号を伝え、派出所を後にした。

「梓ちゃんの番号教えて」

「はい。でも出ないと思うけど…」

 豊も、公衆電話から何度もかけているのだ。

「勤め先は?」

 千尋が、電話をかけながら豊に聞いた。

「それも…」

 新宿歌舞伎町のキャバクラ、それ以上の情報はない。

「ホントに…」

 千尋は電話を諦め、苛立つように呟いた。

「あなたたちのアパートに行きましょう。何か手がかりがあるかも」

 千尋は行動が早い。タクシーを止め三人は乗り込んだ。

「多分、名刺を作ってると思うの。飲み屋のコってお客さんに渡すから」

「なるほど、それが見つかれば店の名前がわかりますね」

 と、如月が感心しているうちにアパートに着き、千尋はテーブルの上のバッグに注目した。

「見てもいい?」

 豊に確認してバッグを開ける。

「あった!」

 千尋が定期入れの中を調べると、ピンク色の名刺が数枚出てきた。電話をかけてみるが誰も出ない。

「時間が早いんだわ。開店前にならないと人が来ないのよ。夕方頃かけ直しましょう」

 その後、梓が通っている専門学校にも足を運んだが、これといった手がかりはつかめなかった。


 千尋は、マネージメント契約の件で北原と会う予定があり、豊と如月は一旦ジムに戻ることにした。

「せっかくだし、走って行こうか」

「えっ?ここからだと結構な距離だぜ?」

 豊の提案に、如月は後退(あとずさ)りした。ボクシングをやめてから、彼はほとんど走っていなかった。

 豊も無理には誘わない。

「じゃあ、如月は電車に乗りなよ。俺一人で走るから」

 そう言われると、如月は張り合いたくなった。

「いや、俺も走るわ」

 子供の頃から、長距離走にかけては誰にも負けたことがない。試合で負けた恨みではないが、一泡吹かせてやろうと思った。

 一方、豊は走ることで不安をかき消したかった。もしかしたら、梓は拳都を捨てたのではないか、そんな疑念が芽生えている。疑いたくはないが、彼女には前科があるのだ。

「頼む、思い過ごしであってくれ…」

 そう祈りながら、ジムまでの道のりを夢中で走った。夢中になりすぎて、途中で如月とはぐれたことにすら気づかなかった。

「道に迷っちゃってさ…」

 如月がジムに到着したのは、豊より二十分ほど(あと)だった。

「競ってるわけでもないのに、一人で行っちゃうんだもの…」

 と、如月は文句を言ったが、実際は豊より早く着こうと最短ルートを探した結果が、裏目に出てしまっただけである。

「ごめん。考え事しながら走ってたから…」

「まあ、いいけど。梓さんから連絡は?」

「いや…」

 豊は、弱々しく首を振った。


 夕方、千尋が戻ってきた。

「いや、思った以上にちゃんとしてて驚いちゃった。見て、この契約書」

 千尋は、茶封筒から数枚の書類を出し、豊と如月に見せた。

「うわ、何かいっぱい書いてあるね」

「そうなの。これを全部読み上げて確認するもんたから、時間もかかっちゃって」

「ちんぷんかんぷん…」

 書類を見て、豊は目を丸くしている。

「これが大人の世界なのよ。重要なのはマージンのトコかな。豊のギャラの10パーセントをFSGに支払うって部分。それと、今までのギャラはチケットでの支払いだったけど、今後は現金になるそうよ」

 要するに、豊が出場する興行は売上が見込めると、FSGは判断したということだ。

「それから、なんと契約金も出るの!そんなの聞いてなかったから、思わず声が出ちゃったよね」

 そう言って千尋は笑い、豊も自然と笑顔になった。彼自身、金に執着はないが、少しでも荒川やジムのためになるのなら、収入は多いに越したことはない。豊はこのジムの稼ぎ頭、いや唯一とも言える収入源なのだ。

「ところで、梓ちゃんは…」

 と聞きかけて、千尋は言葉を止めた。豊や如月の表情で察したからだ。

「じゃあ、彼女のお店に行きましょう。もう誰か彼か出勤してるだろうから」

「電話で確認すればいいんじゃないですか?」

 と聞く如月に、

「梓ちゃんがいるとは思えないから、彼女をよく知ってる人と連絡を取りたいの。このご時世、個人情報はなかなか教えてくれないけど、親しい仲の同僚でもいれば、協力してくれるかもしれないでしょ?もちろん本人に会えれば、それが一番いいんだけど」

 と、千尋は説明した。

「なるほど」

 如月は納得した。そして、彼女の行動力に感心しきりだった。

 拳都を荒川に預け、豊と千尋は電車で新宿へ向かった。


「豊も携帯くらい持ちなさいよ」

「電話をかける友達もいないし、使うこともないから」

 豊は、可能な限り出費を抑えている。注目されているとは言え、ファイトマネーが跳ね上がったわけでもないのだ。

「でも、やっぱり持たなきゃダメ。試合とかの話で、北原さんから連絡あるかもしれないんだから。契約金も出たんだし、明日買いに行くわよ」

「いや、そのお金は会長に…」

「会長、受け取れないって」

「どうして?」

「豊が自分の力で手にしたお金だから。ジムの運営は、練習生が増えたからやりくりできるって」

 豊効果なのだろう、確かに会員が増えた。指導する人間が荒川しかいないため、新規の入会を断っているほどである。豊もトレーニングの合間に手伝っているが、それも限界があった。

「そのコーチ代も払ってないって引け目もあると思うな」

「そうなんだ…」

 そこまで言っているのなら、強引に渡そうとしてもプライドを傷つけるだけだろう。

「千尋さん、ジムの入会受付もしてるんだよね?」

「うん、会長は指導だけで手一杯だから」

 千尋は、ジムの雑用などをボランティアでやっている。ボクシングの知識を得られるので、むしろ率先して引き受けていた。

「入会希望の人がいたら、断らないでどんどん入れてよ。俺もできるだけ協力するからさ」

「そうね…」

 練習生と言ってもプロ志望者は皆無で、ダイエット目的の社会人や学生がほとんどである。練習スケジュールを調整すれば、もっと効率よくさばけるかもしれない。

「豊目当ての女の子も多いしね」

 実際、トレーニングそっちのけで、豊の練習を眺めている女子学生も多い。

 そんな話をしている間に、二人は梓が勤める歌舞伎町のキャバクラに到着した。


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