表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
3/55

第一章 3

 色づく街路樹の下を、豊は颯爽と走った。彼が15歳の時から通っている荒川(あらかわ)ジムは、梓のアパートから10キロほどの場所にあった。廃業した町工場(まちこうば)を改造して作られており、はっきり言って見てくれは良くない。室内も殺風景で、トレーニング器具は大手のジムとは比べものにならないほど貧相だ。

「住む所は決まったのか?」

 恰幅のいい恵比寿顔の老人が、ストーブに両手をかざしながら豊に声をかけた。オーナーの荒川(あらかわ)である。

「はい。小倉(おぐら)さんは?」

「夕方まで来れないな。急遽、牛久(うしく)までの配送が入っちゃったんだよ」

 小倉(おぐら)伸一(しんいち)は豊を指導しているトレーナーで、荒川ジムが輩出した初めてのプロボクサーだった。

 豊はウインドブレーカーを脱ぎ、練習着に着替えた。

「すっかり寒くなりましたね」

「そうだな」

 荒川は立ち上がり、壁のカレンダーを見た。

「あと十日か…」

 今年で60歳になる荒川は、その肉づきのいい体型からは想像できないが、元プロボクサーである。引退して三十年以上経っているので、面影がないのも当然かもしれない。引退後はトラックの運転手になり、四十代で自分の会社を持った。トラック二十台ほどの小規模な会社で、不景気の中どうにか持ちこたえていた。今は娘婿に社長の座を譲り、こうして道楽のボクシングを楽しんでいる。

 ちなみに、ジムの経営は芳しくない。豊の他に練習生は五人しかいなく、いつも娘から嫌味を言われている。本当に道楽でやっているのだ。


 豊の練習はストレッチから始まる。荒川は、リング下から感慨深げに豊の動きを見つめていた。

「まさか、このジムから再びプロが出るとは…」

 荒川がジムを設立したのは十五年前。開業二年目に、豊のトレーナーである小倉がプロデビューした。

 小倉は日本ランキングに名を連ね、日本王座にも挑戦したほどのボクサーだったが、目を悪くしたため引退を余儀なくされた。

「あれ以来のプロだもんな…」

 ジムを続けてきて良かったと、豊の練習を見つめながら荒川は思った。

 陽が落ちる頃、小倉がジムに来た。今でも現役ボクサーで通るほど、締まった身体をしている。彼は、荒川の会社で運転手として働く傍ら、このジムでトレーナーをしていた。近所の子供たちに遊び程度で指導していたが、豊が入会してトレーナーライセンスを取得した。

「こいつはモノになる…」

 小倉は、一目(ひとめ)で豊の素質を見抜き、夢半ばで散った自分の志を託そうとしたのだ。初めて豊を見た時の衝撃を、彼は今でも忘れられない。二年間、独学でトレーニングをしてきたという豊に、小倉は試しにサンドバッグを撃たせた。そして、左利きの豊が叩き込んだストレートに絶句した。今すぐにでもプロで通用しそうなほどの破壊力だったからだ。

 あの日から二年半、いよいよ豊がプロのリングに上がる時が来た。

「今日からは実戦に向け、スパーリング中心のメニューだ。ヘッドギアをつけてリングに上がれ!」

「はい!」

 小倉のげきに、おのずと豊の返事にも気合が入った。

「いいか、デビュー戦でKO勝ちできないヤツが、この世界でのしあがれるなんて思うなよ。ましてや、負けるようなことがあれば、お前のボクシング人生に未来はない」

「はい、絶対にKOで勝ちます!」

 豊はニコッと笑った。この強心臓ぶりが小倉の好みだった。

「会長、ゴング!」

 小倉の声が狭いジムに響き渡った。


 激しい練習を終えた豊が、シャワーを浴びている。

「晩飯来るだろ?」

 仕切りの向こうから小倉の声がした。練習後の恒例のやり取りだ。もちろん、小倉は豊の境遇を知っており、今では実の弟のように接していた。

「すみません!今日はまっすぐ帰ります!」

「帰るって、どこに帰るんだよ?」

「実は、今日から泊めてくれるって人がいて」

「女か?」

「はい、一応…」

 豊は「性別」という意味で答えたが、小倉はそう受け取らなかった。

「お前もなかなか隅に置けんな」

 と言って、シャワー室から出てきた豊の背中を叩いた。

「そんなんじゃないです…」

 豊は、梓との経緯を説明した。ただし、コインロッカーでの出来事を伏せたため、ほとんど作り話になってしまった。

「つまり逆ナンされたってわけか。今日からうちに泊めようと思ってたんだぞ」

 二人はジムを出て夜道を歩いた。

「新婚さんなのに、そうそうお邪魔できませんよ」

「いや、あいつだって歓迎してるよ」

 小倉は、今年の夏に結婚したばかりだった。それまでは毎日と言っていいほど、練習後の晩酌に付き合っていた。もちろん未成年の豊は飲まないが、元プロボクサーの話は何時間聞いても飽きなかった。しかし、小倉が所帯を持ってからは遠慮するようにしていた。

「じゃあ、走って帰ります」

「風邪ひくなよ」

「はい」

 豊は走り出した。

「シャワー浴びなきゃよかったかな…」

 凍てつく風を頬に受け、豊は夜の街を駆け抜けた。


 明日の夜から出勤するという梓は、夕食を作って待っていた。

「遅かったね」

「そう?」

 帰りを待つ誰かがいる風景。それが自分のことのように思えなく、豊の態度はぎこちなくなった。

 部屋の中にカレーの香りが漂っている。

「お腹すいてる?今日は私の得意料理だから!」

 梓は若干はしゃぎ気味だった。昨日までと違う生活に、彼女も違和感があるのかもしれない。

「少なめにした方がいいのかな?」

「うん、ありがとう」

 と、豊は答えたが、それほど体重の不安はない。無理に絞る必要もなかった。しかし、彼は食事制限をしていた。理由は、やはり精神を研ぎ澄ますためである。常に何かに飢えている状態を維持して、デビュー戦に臨みたいのだ。

 デビュー戦は、遥かなる目標への第一歩にすぎない。その一歩目で、つまずくわけにはいかなかった。華々しく鮮やかに、そして強烈なインパクトを見せつける勝利を豊は求めている。

「子供の名前は決まった?」

 カレーライスを食べながら豊が聞いた。

「うん、一応…」

「教えてよ」

「ケント。どうかな?」

「どういう漢字?」

(こぶし)(みやこ)。ボクシングって拳闘って書くんでしょ?豊君にあやかったの。都は新宿で出会ったから。都庁があるし」

「俺にあやかっても、ご利益なんかないよ」

 豊は照れた。

「でも、拳都はかっこいいね」

「でしょ?」

 梓は満更でもない顔をした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ