第一章 3
色づく街路樹の下を、豊は颯爽と走った。彼が15歳の時から通っている荒川ジムは、梓のアパートから10キロほどの場所にあった。廃業した町工場を改造して作られており、はっきり言って見てくれは良くない。室内も殺風景で、トレーニング器具は大手のジムとは比べものにならないほど貧相だ。
「住む所は決まったのか?」
恰幅のいい恵比寿顔の老人が、ストーブに両手をかざしながら豊に声をかけた。オーナーの荒川である。
「はい。小倉さんは?」
「夕方まで来れないな。急遽、牛久までの配送が入っちゃったんだよ」
小倉伸一は豊を指導しているトレーナーで、荒川ジムが輩出した初めてのプロボクサーだった。
豊はウインドブレーカーを脱ぎ、練習着に着替えた。
「すっかり寒くなりましたね」
「そうだな」
荒川は立ち上がり、壁のカレンダーを見た。
「あと十日か…」
今年で60歳になる荒川は、その肉づきのいい体型からは想像できないが、元プロボクサーである。引退して三十年以上経っているので、面影がないのも当然かもしれない。引退後はトラックの運転手になり、四十代で自分の会社を持った。トラック二十台ほどの小規模な会社で、不景気の中どうにか持ちこたえていた。今は娘婿に社長の座を譲り、こうして道楽のボクシングを楽しんでいる。
ちなみに、ジムの経営は芳しくない。豊の他に練習生は五人しかいなく、いつも娘から嫌味を言われている。本当に道楽でやっているのだ。
豊の練習はストレッチから始まる。荒川は、リング下から感慨深げに豊の動きを見つめていた。
「まさか、このジムから再びプロが出るとは…」
荒川がジムを設立したのは十五年前。開業二年目に、豊のトレーナーである小倉がプロデビューした。
小倉は日本ランキングに名を連ね、日本王座にも挑戦したほどのボクサーだったが、目を悪くしたため引退を余儀なくされた。
「あれ以来のプロだもんな…」
ジムを続けてきて良かったと、豊の練習を見つめながら荒川は思った。
陽が落ちる頃、小倉がジムに来た。今でも現役ボクサーで通るほど、締まった身体をしている。彼は、荒川の会社で運転手として働く傍ら、このジムでトレーナーをしていた。近所の子供たちに遊び程度で指導していたが、豊が入会してトレーナーライセンスを取得した。
「こいつはモノになる…」
小倉は、一目で豊の素質を見抜き、夢半ばで散った自分の志を託そうとしたのだ。初めて豊を見た時の衝撃を、彼は今でも忘れられない。二年間、独学でトレーニングをしてきたという豊に、小倉は試しにサンドバッグを撃たせた。そして、左利きの豊が叩き込んだストレートに絶句した。今すぐにでもプロで通用しそうなほどの破壊力だったからだ。
あの日から二年半、いよいよ豊がプロのリングに上がる時が来た。
「今日からは実戦に向け、スパーリング中心のメニューだ。ヘッドギアをつけてリングに上がれ!」
「はい!」
小倉の檄に、おのずと豊の返事にも気合が入った。
「いいか、デビュー戦でKO勝ちできないヤツが、この世界でのしあがれるなんて思うなよ。ましてや、負けるようなことがあれば、お前のボクシング人生に未来はない」
「はい、絶対にKOで勝ちます!」
豊はニコッと笑った。この強心臓ぶりが小倉の好みだった。
「会長、ゴング!」
小倉の声が狭いジムに響き渡った。
激しい練習を終えた豊が、シャワーを浴びている。
「晩飯来るだろ?」
仕切りの向こうから小倉の声がした。練習後の恒例のやり取りだ。もちろん、小倉は豊の境遇を知っており、今では実の弟のように接していた。
「すみません!今日はまっすぐ帰ります!」
「帰るって、どこに帰るんだよ?」
「実は、今日から泊めてくれるって人がいて」
「女か?」
「はい、一応…」
豊は「性別」という意味で答えたが、小倉はそう受け取らなかった。
「お前もなかなか隅に置けんな」
と言って、シャワー室から出てきた豊の背中を叩いた。
「そんなんじゃないです…」
豊は、梓との経緯を説明した。ただし、コインロッカーでの出来事を伏せたため、ほとんど作り話になってしまった。
「つまり逆ナンされたってわけか。今日からうちに泊めようと思ってたんだぞ」
二人はジムを出て夜道を歩いた。
「新婚さんなのに、そうそうお邪魔できませんよ」
「いや、あいつだって歓迎してるよ」
小倉は、今年の夏に結婚したばかりだった。それまでは毎日と言っていいほど、練習後の晩酌に付き合っていた。もちろん未成年の豊は飲まないが、元プロボクサーの話は何時間聞いても飽きなかった。しかし、小倉が所帯を持ってからは遠慮するようにしていた。
「じゃあ、走って帰ります」
「風邪ひくなよ」
「はい」
豊は走り出した。
「シャワー浴びなきゃよかったかな…」
凍てつく風を頬に受け、豊は夜の街を駆け抜けた。
明日の夜から出勤するという梓は、夕食を作って待っていた。
「遅かったね」
「そう?」
帰りを待つ誰かがいる風景。それが自分のことのように思えなく、豊の態度はぎこちなくなった。
部屋の中にカレーの香りが漂っている。
「お腹すいてる?今日は私の得意料理だから!」
梓は若干はしゃぎ気味だった。昨日までと違う生活に、彼女も違和感があるのかもしれない。
「少なめにした方がいいのかな?」
「うん、ありがとう」
と、豊は答えたが、それほど体重の不安はない。無理に絞る必要もなかった。しかし、彼は食事制限をしていた。理由は、やはり精神を研ぎ澄ますためである。常に何かに飢えている状態を維持して、デビュー戦に臨みたいのだ。
デビュー戦は、遥かなる目標への第一歩にすぎない。その一歩目で、つまずくわけにはいかなかった。華々しく鮮やかに、そして強烈なインパクトを見せつける勝利を豊は求めている。
「子供の名前は決まった?」
カレーライスを食べながら豊が聞いた。
「うん、一応…」
「教えてよ」
「ケント。どうかな?」
「どういう漢字?」
「拳に都。ボクシングって拳闘って書くんでしょ?豊君にあやかったの。都は新宿で出会ったから。都庁があるし」
「俺にあやかっても、ご利益なんかないよ」
豊は照れた。
「でも、拳都はかっこいいね」
「でしょ?」
梓は満更でもない顔をした。