第三章 7
翌日の荒川ジムは、盆と正月が一緒に来たような騒ぎになった。日中は取材ラッシュ、夜は大里商店街の連中が集まり、祝勝会兼後援会発足パーティーが催された。
「いやあ、豊ちゃんは本当に強いな。昨日だって、ちょっとよそ見してる間にKOしちゃってるんだもの。せっかく応援に行ったんだから、もっと楽しませてくれないと」
後援会長となった山本は、すこぶるご機嫌である。
「すみません、次はもうちょっと長くリングにいるようにします」
苦笑しながら豊は答えた。
「今日はテレビの取材もあったんだって?」
「はい。CSの番組らしいんですが、緊張して何を喋ったんだか全然覚えてないんです」
「いやいや、たいしたもんだよ。後援会も、千尋ちゃんのおかげでこんなに盛り上がってるし」
「そうですね。本当にありがたいです」
後援会云々より、ジムが賑やかになることが豊には嬉しい。荒川の楽しそうな顔を見るのも久しぶりだった。
荒川は、妻と拳都の取り合いをしている。その光景を微笑ましく眺めている時、千尋に呼ばれた。
「FSGの北原さんって人から電話。知ってる?」
「知ってるけど何の用?」
「それはわからないけど、豊と会いたいんだって。どうする?」
「別に構わないけど…」
試合のオファーだろうか。今までは、すべて小倉が交渉していたのだ。
「引き抜きじゃないかな?」
と、千尋は警戒心をあらわにした。だが、当然豊には移籍する気はない。
翌日、豊は北原と会った。一人では心許ないので、千尋にも同行してもらう。
北原が指定した場所は、新宿にあるステーキショップだった。
「まずはおめでとう。完璧な試合運びだった」
二人の警戒をよそに、北原は笑顔を見せる。
「好きな物を注文してくれ。試合が終わったばかりだし、ウエートの心配もないだろう。ここのステーキは美味いんだ」
ご馳走してくれるようなので豊は安心した。高級そうな店だったからだ。
「それで、ご用件は何でしょうか?」
メニューを開く前に千尋が切り出した。
「失礼ですがあなたは?」
「米崎の後見人のような者です」
微妙な言い回しだったが、北原は気にする様子もなく本題に入る。
「なるほど、なら話は早い。米崎君の今後についてのことなんだが、先にオーダーを済ませてしまおう」
北原は店員を呼び、三人分のシャトーブリアンを注文した。
「あの… 移籍という話でしたら、僕は荒川ジムを出るつもりはありません」
と、豊が牽制した。しかし、北原は即座に否定する。
「違うんだ。君のプロモートのことなんだよ」
「プロモート?」
「昨日の圧勝で、君の商品価値は更に高まった。しかし、荒川ジムには興行権がない。それは、飛躍の時を迎えた君には大きなマイナスだ。そこで、君の試合に関するプロモートを、FSGに任せてもらえないかという相談なんだ。簡単に言うと、対戦相手やギャラの交渉などを我々が引き受ける。もちろんマージンはいただくが」
「そういう契約は、よくある話なんでしょうか?」
千尋が尋ねる。
「外国では、エージェントがボクサーのマネージメントをするのが当たり前なんだが、日本のボクシング界は特殊な構造なので、ほとんど前例はない。うちも、基本的には所属選手のマネージメントしかやらないんだが」
「なのに、何故米崎を?」
「私には夢があってね。日本人同士の世界タイトルマッチで、東京ドームを超満員してみたいんだ」
「はあ…」
突然話が飛び、豊と千尋は戸惑いを見せるが、北原は構わずに続けた。
「東京ドームを満員にするとなれば、相当インパクトのあるマッチメイクじゃないと無理だ。どうだろう、無敗同士、しかもすべてKOで勝ち上がってきた者同士の対決は?夢があると思わないか?」
北原は、豊を見つめて聞いた。
以前、関東スポーツの渋谷が、似たようなことを小倉に話しているが、北原にはよりスケールの大きな構想があるらしい。
「その候補に、僕が選ばれているってことですか?」
豊が尋ねた。
「そうだ。KOで勝ち続けている君は、その資格を持っているからね。金本は近いうちに世界を獲る。ぜひ、君にも無傷のまま金本に挑戦してもらいたいんだよ」
「挑戦…」
豊の背筋に電流が流れていた。北原が語った青写真は、まさに彼がデビュー前から思い描いていた未来予想図そのものだった。
「だから、もし君が一戦でもKO勝ちを逃したら、その時点でマネージメントは降りさせてもらう。商品価値がなくなるんでね」
「ずいぶん、ビジネスライクなんですね」
千尋が眉をひそめた。商品という言葉に反発があるようだが豊は違った。プロである以上、ボクサーは商品でなければならないと考える。そして、客を呼べる商品に価値があるのは当然なのだ。
「もちろん、君がKO勝ちを続ける限り、最大限のバックアップもさせてもらうつもりだ。マージンが発生すると言ったが、この話は特に利益を追求するものではないんだ。ただ、うちも組織なんでボランティアというわけにはいかなくてね」
豊は、運ばれたステーキに手をつけるのを忘れるほど、北原の話に聞き入った。
「返事は後日でも構いませんか?荒川とも相談しなきゃなりませんし」
千尋は慎重な態度を見せたが、
「いえ、今すぐにでもお願いしたいです!」
と、豊は前のめりになっている。そんな彼を北原は笑顔で諭す。
「いや、彼女が言うように、荒川さんともじっくり話し合うべきだよ。それに、契約書なんかも必要になるから、この場ですぐというわけにはいかないんだ」
話し合いも一段落つき、豊は今まで見たこともない分厚いステーキにかじりついた。
「美味い…」
すっかり冷めていたが、興奮状態の豊にはたまらなく美味しく感じられた。
その夜、荒川を交え北原のオファーについて話し合った。
「悪い話ではないと思うが?」
と、荒川は反対しなかった。だが、いくつか疑問もある。
「うまく事が運んで、豊が金本に挑戦するとなる。もし、その試合で豊が勝ったらどうするんだ?FSGはベルトを失って、大損害だと思うんだよ」
「私もそう思ったから、北原さんに聞いたんです。そしたら、目先の利益にこだわってるようでは、ビッグイベントの実現は不可能だと。もし本当に実現できたら、ボクシング界から身を退いてもいいくらいだって言ってました」
「そこまで覚悟してるとは… そして、豊が目をつけられたのが凄い」
「強いだけじゃなく、豊にはスター性があると言うんです。多くのボクサーを見てきて、これほど輝きを秘めている選手は稀だって、すごい褒めようで」
「伸一もいつも言ってたんだよ。豊はダイヤの原石だってな。ワシと違って、二人には見る目があったってことだな」
事実、荒川はプロボクサーを輩出したことだけで満足しており、ここまで騒がれる選手になるとは想像だにしなかった。
「会社を閉める時、ワシはもう人生おしまいだと思っていた。それがジムも続けられて… こんな死に損ないでも、夢を見ることができるんだな。本当にありがとう」
荒川は泣きながら、豊に両手で握手を求めた。
「礼を言うのは俺の方です。荒川ジムがあったからこそ、俺はボクサーになれたんですから。ここは俺の故郷です、簡単に潰すわけにはいきません」
二人のやり取りを見て、千尋も目頭を熱くさせた。彼女が書く豊の物語は、きっと感動エピソードに事欠かないものになるだろう。




