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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
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第三章 6

 所用で木下ジムに寄った如月に、小倉が声をかけた。

「本当に引退したんだな」

「はい。大見得切ってデビューしたのに、初戦でミジメなKO負けですからね。恥ずかしくて続けられません」

 如月は、自虐をこめて笑った。

「それより小倉さんの方こそ。驚いたなんてものじゃありませんよ」

「まあ、いろいろあってな」

 小倉は、サバサバした表情をしていた。

「ところで、豊が対戦する森田さんはどうですかね?」

 如月は話題を変えた。

「そんなこと聞いてどうするんだ?」

「実は、成り行きで豊の練習を手伝ってまして」

「それで情報収集に来たわけか?」

「いえ、別件です。小倉さんに会わなければ聞いてませんよ」

「なるほど、豊を手伝ってるのか…」

 小倉は一瞬、寂しそうな顔を見せたが、

「そうだな。そんなにじっくり見てないけど、アマチュア出身だけあって基本に忠実なボクシングをするようだな。自分の型を崩さないから隙も少ない」

 と、森田の感想を口にした。

「僕もそう感じました」

 如月は、スパーリングで森田とグローブを交えたことがある。

「KO勝ちは少ないが、KO負けもほとんどない。弱点らしい弱点がないボクサーと言えるだろうな」

「それでも、あえて弱点を挙げるとすれば?」

「難しい質問だ」

 粘る如月に小倉は苦笑し、

「弱点がないことが弱点かな。あとは自分で考えてみろ」

 と言って、その場を離れた。指導待ちの選手がいたらしい。

「弱点がないのが弱点か…」

 トンチを出された気分なり、如月は頭を悩ませながらリング上を見た。小倉が、如月と同年代らしき選手にハッパをかけている。

「見たことないヤツだな…」

 と、思うのも無理はない。如月が引退してから木下ジムに来たボクサーである。名は広瀬、豊がデビュー二戦目でマットに沈めた選手だ。小倉が北原に頼み込み、FSGから譲り受けたのだ。


 荒川ジムへ向かう電車の中でも、如月は小倉の言葉を考えていた。

「弱点がないのが弱点…」

 いくら考えても答えが出ない。反対に、豊の弱点を描いてみるが、これもなかなか出てこなかった。パンチの破壊力は、贔屓目なしで日本ランカーレベルだと思っている。スピードやフットワークも申し分ない。そして、穴だらけだったディフェンスも、近頃は見違えるように進化していた。

「あとはスタミナか…」

 次の試合は、未経験の8ラウンドである。相手のペースにハマり、判定まで粘られると厄介かもしれない。前回のような、カウンター狙いのギャンブルなどもっての(ほか)だろう。

「森田さんは、確実に判定勝ちを拾いにくるはずだ…」

 如月はKOにこだわって敗れたが、森田にはKO勝ちへの執着はなさそうに思える。

 だが、豊は違う。本人から聞いたわけではないが、KOに並々ならぬ執念を燃やしている気がしていた。だから大振りになりがちなのだ。今まではそれで通用したかもしれないが、今後はそう簡単にはいかないだろう。


 その日のスパーリングは、実戦さながらの形式で行った。ヘッドギアをつけず、豊のみ試合用のグローブ装着する。

「いいか、スパーと思うな。俺を森田さんだと思って攻めてこい。こっちもガンガンいくからな」

 如月は、奮い立たせるように言った。勝てないはずはない、そう彼は信じている。だが、せっかくなら豊が望むようKOで決めてほしい。そのためなら、多少痛い目に遭っても耐えてみせよう、それが彼なりの心意気だった。

「さあ来い!」

 如月は、森田になりきろうとした。森田はインファイトを好む、典型的なボクサータイプの選手である。先に仕掛けたのは豊だ。

「よし、それでいい… 俺のガードを破ってみろ…」

 そう如月が思ったのも束の間、豊は左右(ひだりみぎ)と痛烈なフックの猛攻に出た。たまらず如月はクリンチで逃げようとするが、豊は振り払い攻撃の手を緩めない。

「ス、ストップ!」

 と、如月が声を出した時、豊は左ストレートを放とうする瞬間だった。

「戦術も何もあったもんじゃないぜ…」

 如月が呆れ顔で言うと、豊はニコッと笑った。


 練習後、豊と如月はリングの上で寝転んでいた。

「昼間、木下ジムで小倉さんに会ったんだ」

「元気だった?」

「張り切ってる感じだったよ。それで、森田さんの弱点を聞いてみたんだ。そしたら、弱点がないのが弱点だと。意味わかる?」

「さあ…」

「俺にはわかった。さっきのスパーで理解できたんだ。確かに森田さんに大きな弱点はない。でも、裏を返せば飛び抜けた長所もないってことなんだよ。きれいにまとまってるというか、セールスポイントに欠けてるんだ。豊とまるで正反対だな」

「俺は欠点だらけだからね」

 豊は笑った。

「いや、豊の場合は欠点とは言わない。まだ荒削りなだけでね。多分、小倉さんは俺にこう言いたかったんだと思う。誰にも負けないハードパンチがあるんだ、下手(へた)な小細工は考えるなと」

「小細工か…」

 確かに、小倉はいつも言っていた。ボクシングは本能のスポーツだと。

「コンマ何秒の世界では、本能による一瞬の判断が勝負の境目を分ける。勝つためには本能を磨く訓練をしろ」

 それが小倉の口癖だった。

「今日のスパー、あれも本能?」

「そうかもしれない。ベテランだし格も違うから、きっと見下してくると思うんだ。だったら、見下されているうちにケリをつけちゃおうってね」

「なるほど」

 この時、豊は圧勝するだろうと如月は確信した。もう余計な心配は不要だった。


 試合当日。豊の試合はメインの前、セミファイナルに組まれていた。この試合で、初めて入場曲を使うことになり、彼は尾崎豊の〝太陽(たいよう)破片(はへん)〟という曲を選んだ。

「なんか暗くない?もっと派手な方がいいんじゃないの?士気を鼓舞するような」

 梓は納得がいかないようだったが、

「この歌が好きなんだ」

 と言って、豊は譲らなかった。確かに明るい曲調ではないが、彼はこの歌と自分の境遇をオーバーラップさせていた。

「今日は商店街の方たちが団体で来るんだって。豊の後援会作るって言ってたよ」

 千尋は、メモを取りながら興奮していた。彼女が試合前の控室に来るのは、今日が初めてだった。

「独特な雰囲気ね。ピリピリ感が部屋中に広がってる感じ」

「俺は嫌いじゃないけどね」

 肝が座っているのか、豊はデビュー以来緊張とは無縁である。

「今日勝てばA級ライセンスなんだよね?」

「よく知ってるね」

「だって勉強してるもん」

 小倉が去ったあと、千尋は豊のマネージャー的な仕事をしている。誰に頼まれたわけでもないが、豊を手伝うことに喜びを感じていた。もちろん、本を書く上でのメリットも大きい。題材となる人物と身近にいられるからだ。

 豊も、千尋に全幅の信頼を寄せている。すると当然、梓は面白くない。

「私だって、食事に気を遣ったりしてるのに…」

 甲斐甲斐しく豊の世話を焼く千尋を見て、梓の心境は穏やかではなかった。


 場内に〝太陽の破片〟が流れ、豊が入場すると拍手と歓声が起こった。そのボリュームは、あとからリングインした森田を大きく上回っていた。

「豊ちゃん、すごい人気だね」

 大里商店街代表の山本(やまもと)が、場内を見回して目を丸くしている。今日は、商店街のメンバーと常連客合わせて、三十人を超す団体で応援に来ており、明日には豊の後援会発足パーティーが予定されていた。

「ホントすごい…」

 一緒に観戦している梓も、ただ驚くしかない。

「やっぱりマスコミの力って大きいんだね」

 如月戦以後、ほぼ毎日のように豊は取材を受けていた。千尋は常にアグレッシブで、後援会の立ち上げにも一枚噛んでいる。

「豊は絶対有名になるから、早いうちに作るべき。商店街の宣伝にもなるし」

 と、自らプロデュースを買って出ていた。その千尋も、

「お願い、絶対に勝って…」

 と、梓の隣で手を合わせ祈っていた。

 試合開始のゴングが鳴った。豊は先手を取ろうと、森田の懐に入ろうとするが難なくかわされてしまう。だが、暴走気味とも思われるペースで豊は攻め続けた。

 試合前の取材では、

「胸を借りるつもりで…」

 などと、殊勝な発言をしていたが、まったく臆する気配はない。森田の方は守りに徹しながら、どこかで余裕を感じていた。試合開始から九十秒、休むことなく攻め続ける豊を侮り始めている。

「騒がれている割には、ペース配分も知らんのか…」

 そんな心の余裕が油断を生んだのか、豊の強烈なフックを左頬にもらってしまった。

「えっ!?」

 目の前が真っ暗になったと思った瞬間、今度は視界全体が白一色に染まった。豊の左ストレートが火を吹いたのだ。意識を取り戻した時、森田は医務室のベッドに寝かされていた。

「大丈夫か?」

 トレーナーの声が聞こえるが、森田は状況を把握できなかった。

「し、試合はどうなったんだ!?」

 試合途中からの記憶がまったくない。だが、

「今は何も考えるな」

 と言って、首を振ったトレーナーの表情で、彼はKO負けを悟った。そして、格下の6回戦に負けたショックで、数日後に引退を発表した。


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