第三章 5
北原と金本の冷戦は、藤崎が間を取り持ち早期の決着を見た。それは金本たっての希望でもあった。北原ほど自分のポテンシャルを引き出せるトレーナーはいないと、彼自身が知っていたからだ。
ボクサーが戦闘機なら、トレーナーは操縦士である。いくら高性能な戦闘機でも、パイロットが優秀でなければ宝の持ち腐れになる。それを金本は心得ているのだ。もう少しで世界ベルトに手が届く、そんな大事な時期に乗り替わられては困る、そう思った彼は心を改めた。
千尋に精神を乱され堕落した毎日を送っていたが、いざ改心するとさすがは世界ランカー、本来のキレを取り戻すのに多くの時間は必要なかった。金本のスパーリングを見つめる北原も、納得の表情をしていた。
「見違えるようだな」
隣で藤崎が唸る。
「私は約束を守る男ですから」
北原は満足そうに呟いた。
「千尋さんって、豊君とどんな関係なの?」
夕食時、梓はジムで初めて会った千尋のことを聞いた。
「一緒の施設にいた人だよ」
カレーライスを頬張りながら、豊は答えた。
「それだけ?」
梓は、千尋に良い初印象を持たなかった。豊への態度が馴れ馴れしかったからだ。だが、そんな感情に豊は気づかない。
「優しいお姉さんって感じかなあ」
「お姉さん?」
「うん。おかわりしてもいい?」
「いいけど体重は大丈夫なの?」
「うん」
梓は空いた皿を受け取り、
「お姉さんってことは、きょうだいだから恋愛対象ではないのか…」
と、ぶつぶつ言いながら、二杯目のカレーライスをよそった。
「恋愛?何のこと?」
「別に何でもない!早く食べちゃって!」
豊がこの部屋に住みついて半年が過ぎようとしているが、梓は何か物足りなさを感じている。その想いは、千尋の存在によって今日はっきりと再認識した。
「ずっと豊君と一緒にいたい…」
しかし、豊にそんな感情はあるのだろうか。もしなかったとしても、梓は一日でも長く一緒にいたいと願う。だが、そのささやかな望みさえ、千尋の登場によって奪われてしまうのではないか、そんな不安で梓の胸は張り裂けそうになっていた。
食事を終えた豊は、楽しそうに拳都と戯れている。
「今のままでいい…」
この現状を壊さないでと、梓は祈る思いで豊を見つめていた。
北原は、突然訪れた小倉を喫茶店に誘った。
「米崎君の試合は来週じゃなかったかい?」
「そうですが、私は手を引きまして…」
「どういうことだ?」
「荒川ジムを辞めたんです。今は木下さんのところでお世話になってます」
「彼は一緒じゃないのか?」
「はい、私だけです」
「馬鹿な!何故そんな真似を!?」
北原は大声に出した。二人の信頼関係は、鋼のように硬いと思っていただけに、驚くのは必然だった。
「何故と聞かれると困るのですが、方向性の違いとでも言いましょうか」
「いや、君は間違っている。彼ほどの逸材に巡り会うチャンスなど、滅多にあるものじゃない。それをわかっているのか?」
北原は詰問口調になっている。それほど小倉の行動が不可解なのだ。
「もちろんです。素質だけなら、木下ジムのボクサーが束になっても、あいつには敵わないでしょう」
木下ジムには、現役の日本王者や東洋太平洋ランカーも在籍している。それらを含め、豊の素質の方が優っていると、小倉は断言した。
「実は、うちの会長も米崎君の引き抜きを画策していたんだ。私が止めたけどね」
「そうですか…」
小倉の心情は複雑である。木下ジムからの誘いだって、彼は豊のバーターだと思っている。言わばオマケのみが移籍する形となったのだ。だからこそ早めに成果を出して、単なるオマケじゃないことを証明したかった。
北原の詰問は止まらない。
「米崎君はどうするんだ?まさか荒川さんが指導する気じゃ…?」
「とりあえずはそうなるでしょう」
「それで日本4位に勝てるほど甘くないぞ?」
「私もそう思います」
他人事のように答える小倉を見て、北原は眉間にシワを寄せた。小倉を除けば、豊の才能を最も早く見抜いた男だ。
「素質はもとより、彼には華がある…」
その華を埋もれさせるのは惜しい、北原はそう考える。華というものは、努力や鍛練で身につくものではない。ひとえに天分、持って生まれたものなのだ。
「華」を「花」に置き換えると、豊はまだ五分咲き程度の状態だと、北原は思っている。完全に開花させるには、良質なコーチのもとで良質なトレーニングが必須となる。少しでも手間を怠ると、蕾のまま枯れ落ちてしまうことだってありえるのだ。
「悪いことは言わん、荒川ジムに戻った方がいい」
北原には、それが最良の策に思えた。小倉にとっても、米崎豊にとっても、また日本ボクシング界にとっても。しかし、小倉は首を横に振る。
「それは無理です。もう後戻りはできません」
「そんなことはない。なんならFSGが間を取り持ってもいい。戻るんだ」
北原の言葉は、もはや命令である。しかし、小倉は退かなかった。
「北原さん、あなたのせいですよ」
「何?」
「あなたとの再会で、私は目覚めてしまったんです。豊がいなくても関係ない、あなたを倒すのが目的だからです。ボクサーをやめて消えたはずの執念の炎が、再び燃え始めてしまったんですよ」
北原は何も言い返せなかった。小倉は、現役時代を彷彿させる狂犬のような目をしていた。執念とは、これほどまでに男の魂を激らせるものなのか。
「豊ではあなたを倒せない。それを悟ったから、私は豊を捨てたんです。それで、今日はお願いがあってきました」
そう言うと、小倉は不敵な笑みを浮かべた。
「お願い?」
「お願いというより、取引と言うべきかもしれません」
小倉は再びニヤリと笑った。
一時間後、小倉と北原は喫茶店を出た。別れ際に、
「会長と相談してみるが、君の望みは叶うと思う。うちでは、もう居場所がないからね。しかし、ボクシングは不思議なスポーツだな。人と人が殴り合い、遺恨が生まれる。だが、時に切っても切れない縁が生まれることもある。不思議だ…」
と、北原はしみじみと言った。小倉も同感だった。豊と出会い、忘れていた北原への執念が甦り、その執念を追い求めるために豊と決別した。すべては、巡り巡る縁としか言いようがなかった。
「北原さん、金本は必ず世界を獲るでしょう。私が挑戦するまで防衛を続けてください。お願いします」
小倉は頭を下げた。
豊は、如月とスパーリング中心のメニューをこなしていた。小倉が去ったのは大きな痛手だが、如月という優秀なパートナーを得たのは大きかった。元学生チャンピオンの肩書は伊達ではなく、そのテクニックは豊を存分にてこずらせた。
「この男、やっぱりもったいない…」
あらゆる面において進歩を遂げていると自負しているが、その自信を如月はいともたやすく打ち砕いてくれる。
「天才とは…」
こいつみたいなヤツのことを言うのだと、豊は攻めあぐねながら感心していた。一方の如月も、改めて豊を評価している。
的確にガードしているが、豊のパンチの重さには辟易するしかない。あの敗戦以来、毎晩のように豊の左ストレートが夢に現れうなされる。しかし、再び対峙した豊は、左ストレート一本槍のハードパンチャーではなかった。あの試合ではいいように叩き込めたのに、今ではつけ入る隙を見せなくなった。
「どこまで強くなるのかね…」
結局、荒川が終了のゴングを鳴らすまで、如月は一発も決められなかった。
「遠慮しなくてもよかったのに」
タオルで顔を拭いながら笑う豊に、
「試合前に怪我させちゃ悪いだろ」
と、如月は強がるしかない。そして、翌日から彼は密かにトレーニングを始めた。それは、豊の練習相手を務めるためだけのトレーニングだった。




