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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
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第三章 5

 北原と金本の冷戦は、藤崎が間を取り持ち早期の決着を見た。それは金本たっての希望でもあった。北原ほど自分のポテンシャルを引き出せるトレーナーはいないと、彼自身が知っていたからだ。

 ボクサーが戦闘機なら、トレーナーは操縦士である。いくら高性能な戦闘機でも、パイロットが優秀でなければ宝の持ち腐れになる。それを金本は心得ているのだ。もう少しで世界ベルトに手が届く、そんな大事な時期に乗り替わられては困る、そう思った彼は心を改めた。

 千尋に精神を乱され堕落した毎日を送っていたが、いざ改心するとさすがは世界ランカー、本来のキレを取り戻すのに多くの時間は必要なかった。金本のスパーリングを見つめる北原も、納得の表情をしていた。

「見違えるようだな」

 隣で藤崎が唸る。

「私は約束を守る男ですから」

 北原は満足そうに呟いた。


「千尋さんって、豊君とどんな関係なの?」

 夕食時、梓はジムで初めて会った千尋のことを聞いた。

「一緒の施設にいた人だよ」

 カレーライスを頬張りながら、豊は答えた。

「それだけ?」

 梓は、千尋に良い初印象を持たなかった。豊への態度が馴れ馴れしかったからだ。だが、そんな感情に豊は気づかない。

「優しいお姉さんって感じかなあ」

「お姉さん?」

「うん。おかわりしてもいい?」

「いいけど体重は大丈夫なの?」

「うん」

 梓は空いた皿を受け取り、

「お姉さんってことは、きょうだいだから恋愛対象ではないのか…」

 と、ぶつぶつ言いながら、二杯目のカレーライスをよそった。

「恋愛?何のこと?」

「別に何でもない!早く食べちゃって!」

 豊がこの部屋に住みついて半年が過ぎようとしているが、梓は何か物足りなさを感じている。その想いは、千尋の存在によって今日はっきりと再認識した。

「ずっと豊君と一緒にいたい…」

 しかし、豊にそんな感情はあるのだろうか。もしなかったとしても、梓は一日でも長く一緒にいたいと願う。だが、そのささやかな望みさえ、千尋の登場によって奪われてしまうのではないか、そんな不安で梓の胸は張り裂けそうになっていた。

 食事を終えた豊は、楽しそうに拳都と戯れている。

「今のままでいい…」

 この現状を壊さないでと、梓は祈る思いで豊を見つめていた。


 北原は、突然訪れた小倉を喫茶店に誘った。

「米崎君の試合は来週じゃなかったかい?」

「そうですが、私は手を引きまして…」

「どういうことだ?」

「荒川ジムを辞めたんです。今は木下さんのところでお世話になってます」

「彼は一緒じゃないのか?」

「はい、私だけです」

「馬鹿な!何故そんな真似を!?」

 北原は大声に出した。二人の信頼関係は、(はがね)のように硬いと思っていただけに、驚くのは必然だった。

「何故と聞かれると困るのですが、方向性の違いとでも言いましょうか」

「いや、君は間違っている。彼ほどの逸材に巡り会うチャンスなど、滅多にあるものじゃない。それをわかっているのか?」

 北原は詰問口調になっている。それほど小倉の行動が不可解なのだ。

「もちろんです。素質だけなら、木下ジムのボクサーが束になっても、あいつには敵わないでしょう」

 木下ジムには、現役の日本王者や東洋太平洋ランカーも在籍している。それらを含め、豊の素質の方が優っていると、小倉は断言した。

「実は、うちの会長も米崎君の引き抜きを画策していたんだ。私が止めたけどね」

「そうですか…」

 小倉の心情は複雑である。木下ジムからの誘いだって、彼は豊のバーターだと思っている。言わばオマケのみが移籍する形となったのだ。だからこそ早めに成果を出して、単なるオマケじゃないことを証明したかった。


 北原の詰問は止まらない。

「米崎君はどうするんだ?まさか荒川さんが指導する気じゃ…?」

「とりあえずはそうなるでしょう」

「それで日本4位に勝てるほど甘くないぞ?」

「私もそう思います」

 他人事(ひとごと)のように答える小倉を見て、北原は眉間にシワを寄せた。小倉を除けば、豊の才能を最も早く見抜いた男だ。

「素質はもとより、彼には(はな)がある…」

 その華を埋もれさせるのは惜しい、北原はそう考える。華というものは、努力や鍛練で身につくものではない。ひとえに天分、持って生まれたものなのだ。

 「華」を「花」に置き換えると、豊はまだ五分咲き程度の状態だと、北原は思っている。完全に開花させるには、良質なコーチのもとで良質なトレーニングが必須となる。少しでも手間を怠ると、蕾のまま枯れ落ちてしまうことだってありえるのだ。

「悪いことは言わん、荒川ジムに戻った方がいい」

 北原には、それが最良の策に思えた。小倉にとっても、米崎豊にとっても、また日本ボクシング界にとっても。しかし、小倉は首を横に振る。

「それは無理です。もう後戻りはできません」

「そんなことはない。なんならFSGが間を取り持ってもいい。戻るんだ」

 北原の言葉は、もはや命令である。しかし、小倉は退()かなかった。

「北原さん、あなたのせいですよ」

「何?」

「あなたとの再会で、私は目覚めてしまったんです。豊がいなくても関係ない、あなたを倒すのが目的だからです。ボクサーをやめて消えたはずの執念の炎が、再び燃え始めてしまったんですよ」

 北原は何も言い返せなかった。小倉は、現役時代を彷彿させる狂犬のような目をしていた。執念とは、これほどまでに男の魂を(たぎ)らせるものなのか。

「豊ではあなたを倒せない。それを悟ったから、私は豊を捨てたんです。それで、今日はお願いがあってきました」

 そう言うと、小倉は不敵な笑みを浮かべた。

「お願い?」

「お願いというより、取引と言うべきかもしれません」

 小倉は再びニヤリと笑った。

 一時間後、小倉と北原は喫茶店を出た。別れ際に、

「会長と相談してみるが、君の望みは叶うと思う。うちでは、もう居場所がないからね。しかし、ボクシングは不思議なスポーツだな。人と人が殴り合い、遺恨が生まれる。だが、時に切っても切れない縁が生まれることもある。不思議だ…」

 と、北原はしみじみと言った。小倉も同感だった。豊と出会い、忘れていた北原への執念が甦り、その執念を追い求めるために豊と決別した。すべては、巡り巡る縁としか言いようがなかった。

「北原さん、金本は必ず世界を獲るでしょう。私が挑戦するまで防衛を続けてください。お願いします」

 小倉は頭を下げた。


 豊は、如月とスパーリング中心のメニューをこなしていた。小倉が去ったのは大きな痛手だが、如月という優秀なパートナーを得たのは大きかった。元学生チャンピオンの肩書は伊達(だて)ではなく、そのテクニックは豊を存分にてこずらせた。

「この男、やっぱりもったいない…」

 あらゆる面において進歩を遂げていると自負しているが、その自信を如月はいともたやすく打ち砕いてくれる。

「天才とは…」

 こいつみたいなヤツのことを言うのだと、豊は攻めあぐねながら感心していた。一方の如月も、改めて豊を評価している。

 的確にガードしているが、豊のパンチの重さには辟易するしかない。あの敗戦以来、毎晩のように豊の左ストレートが夢に現れうなされる。しかし、再び対峙した豊は、左ストレート一本槍のハードパンチャーではなかった。あの試合ではいいように叩き込めたのに、今ではつけ入る隙を見せなくなった。

「どこまで強くなるのかね…」

 結局、荒川が終了のゴングを鳴らすまで、如月は一発も決められなかった。

「遠慮しなくてもよかったのに」

 タオルで顔を拭いながら笑う豊に、

「試合前に怪我させちゃ悪いだろ」

 と、如月は強がるしかない。そして、翌日から彼はひそかにトレーニングを始めた。それは、豊の練習相手を務めるためだけのトレーニングだった。


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