第三章 4
「小倉さんいなくて大丈夫なの?」
帰り道、豊から事情を聞かされた梓は不安を隠さなかった。
「なんとかするとしか言いようがないけど」
意地を貫いた以上、弱音を吐くわけにはいかない。
「あんなに豊君のこと可愛がってたのに。相当いいお金貰えるのかな?」
梓の言葉には、いくばくかの皮肉がこめられている。豊にもそれが伝わり、
「わからないけど、小倉さんにも生活があるんだし、荒川運送の仕事もなくなるわけだから」
と、小倉を擁護した。
「でも、なんか許せないんだよね…」
「許すも許さないもないよ。残るって言ったのは俺の方だからさ」
豊は、すでに気持ちを切り替えていた。だが、トレーナーを失った代償は小さくない。
「私なら、迷わず小倉さんについて行くけどね。その方が活躍の場が広がるんでしょ?」
「もしそうだとしても、お世話になった会長を捨ててまでボクシングを続けたくない」
そう言って、豊は自嘲気味に笑った。彼は自分の矛盾に気づいている。世話になったのは荒川だけでない、小倉にだって散々世話になったのだ。それに、やり方は強引だったかもしれないが、小倉は筋だけは通そうとした。第三者から見れば、わがままを言ってゴネているのは豊の方だろう。彼はそれも承知していた。その上で小倉との決別を選択したのだ。
「俺は、ただの世間知らずなんだよ」
「世間知らずでもいいんじゃない?それが豊君の魅力なんだし」
「そうかな?」
「うん。自分の信念にこだわり続けるって、そんなに簡単なものじゃないと思うしね」
「そうかな…」
豊は同じ言葉を繰り返した。
FSG総本部近くの喫茶店、そこは北原の憩いの場所である。しかし、今日に限っては安らぎとは無縁だった。彼の正面に、険しい表情の藤崎が座っているからだ。
「金本のトレーナーを降りたって話は本当なのか?」
「もう耳に届いてるんですか?」
北原は新聞を読みながら、呑気にコーヒーをすすっている。そんな態度に、
「どういうことなんだ!」
と、藤崎は声を荒げた。しかし、北原は平然としている。
「ヤツには、もう関わらないってことですよ。今日からフェザー級は広瀬を見ます」
「そんな勝手が許されると思ってるのか?」
怒りをこらえているのだろう、藤崎の声は震えていた。だが、北原はあくまでも冷静だった。
「金本を担当したいって人間は、他にいくらでもいますよ」
「駄目だ。金本は君にしか乗りこなせん」
「ほう…」
北原は笑みを浮かべて頷いた。
「何がおかしい?」
「なんだかんだ言いながら、選手をよく見てるんだなと感心しているんですよ。金本を手なずけられるトレーナーなど、そうそういませんからね」
北原は、新聞をテーブルに置き真顔になった。
「どうしても金本の面倒を見ろというのなら、ひとつ条件を出します」
「何だ?」
「今後、ヤツのマッチメイクに関しては、すべて私に任せていただく。それができますか?」
藤崎は、むっつりとした面で黙ってしまった。北原の提示した条件は、明らかにトレーナーの権限を超えている。
「承諾していただければ、ヤツにベルトを獲らせますよ。絶対にね」
北原の顔に再び笑みが戻った。
「絶対にか…」
藤崎が呟く。彼は、目の前にいる北原をあまり好きではなかった。ただし、トレーナーとしての腕は誰よりも認めている。
「よし、条件を飲もうじゃないか。だが、必ず約束は果たせ」
「もちろんです」
北原が右手を差し出した。藤崎も顔をしかめながら応える。さしずめ、契約成立といったところだろうか。
金本はジムの後輩を従え、堀之内の風俗店が並ぶ通りを歩いていた。
「金本さん、もう諦めた方が…」
「黙れ、何としても見つけ出す!」
金本は、いつかの風俗嬢を捜していた。「チヒロ」という名前だけはわかっているが、他に手がかりはない。
「もう一度、あのクソ女にぶち込むまでは絶対に気が収まらねえ…」
千尋を抱いた翌日、金本は再びその店を訪れて彼女を指名した。ところが、彼女は金本を拒否したのだ。
怒り狂った金本は、勤務を終え店から出てくる千尋を待ち伏せした。
「金ならいくらでもやる!やらせろ!」
金本は欲望をむき出しにした。しかし千尋は、
「だったら一億円持ってきな。それでも断るけどね」
と言って、せせら笑った。
「何だと、クソ女が!」
人を食った態度にキレて、金本は千尋に殴りかかった。間一髪、彼の後輩が制止しなければ警察沙汰になっていただろう。最悪の場合、ライセンスを剥奪されていたかもしれない。
その日以来、金本は千尋を求めて夜な夜な風俗街をさまよっていた。
「絶対にどこかで、金のために股を開いているはずだ!風俗なんてもんはな、そう簡単に抜け出せるものじゃねえんだよ!」
しかし、見つかるはずがなかった。千尋は、金本に啖呵を切った翌日、すっぱりと足を洗っていたからだ。
荒川ジムに顔を出した千尋は、小倉が去った話を聞いて驚いていた。
「トレーナーがいないと試合に出れないんだよね?どうするのよ?」
千尋のボクシングに関する知識は、小倉から仕入れたものが多かった。小倉は嫌な顔ひとつせず、しかもわかりやすく彼女にレクチャーしてくれていたのだ。
「会長もライセンスは持ってるから、試合には出れるんだよ」
しかし、出場できればいいという問題ではない。大事なのは試合に出て勝つことだが、
「俺は勝つよ。勝ち続ける」
と、豊は言い切った。荒川ジムのためにも、今まで指導してくれた小倉のためにも、そうするしかないと思っている。しかし、高齢の荒川にスパーリングの相手を望むのは酷な話だった。ミットを持ってもらうことさえ心許ないだろう。そういった実戦形式の練習ができないのは、測り知れないマイナスだった。当然、それは豊にもよくわかっていた。
「ちはー」
如月が惚けた声を出してジムに現れた。時々、差し入れを持ってふらっと来るのだが、小倉の件を聞き腰を抜かした。
「移籍!?嘘でしょ?」
小倉のトレーナーとしての技量を、如月は高く評価していた。同時に、小倉の豊へ対する愛情の深さも感じていた。だからこそ驚かざるを得ない。
「いろいろあるんだよ」
豊は、他人事のように言う。
「呑気だなあ。試合はどうするんだよ?」
「なんとかするよ」
豊は面倒臭そうに答えた。実際、いろんな人から同じ質問をされ面倒臭くなっていた。
「解決策があるよ!」
突然、千尋が大きな声を出し、豊と如月はキョトンとした顔で彼女を見た。
「スパーリングパートナーよ!ここにいるじゃないの!」
千尋の視線が如月に向けられていた。
「俺…?」
「そうよ。如月君に練習を手伝ってもらえばいいのよ」
「手伝うって…」
如月は困惑した。彼は、豊のパンチに恐れをなして引退したのだ。スパーリングとは言え、豊と殴り合うのだけは遠慮したい。
「友達なんでしょ?困ってる時に手を差し伸べるのが、本当の友達なんじゃないの?」
躊躇する如月に、千尋は言葉を畳みかけたが、
「無理言っちゃ悪いよ。如月だって忙しいんだから」
と、如月の気持ちを慮った豊が、興奮する彼女をなだめた。しかし、千尋は譲らない。
「ダメ!如月君は、物語の重要人物になりそうなんだから。ここは親友のために一肌脱いでもらわないと」
「物語…?」
何のことだかさっぱりわからない如月だったが、千尋の説明を受け態度を一変させた。
「俺、毎日ジムに来るよ。今は浪人の身だし時間は腐るほどある。それに身体が鈍ってて、ちょっと動かしたいと思ってたんだ」
元来、彼は目立ちたがりの性分だった。いつの日にか出版されるかもしれない本の話を聞き、俄然やる気になった。チャンピオンを陰で支えた元ライバル、そんな役回りも悪くないと思えたようだ。




