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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
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第三章 3

 豊と小倉を前に、荒川の口ぶりが重い。荒川運送が、大手物流会社に吸収されるという話だった。

「もうリストラでどうこうって次元の話じゃなくてな。幸いと言ってはなんだが、合併先が解雇者は出さんと言ってくれている」

 そう荒川が説明すると、小倉はテーブルを蹴り上げるように立ち上がった。

「冗談じゃねえ!勝手に決められてたまるかよ!」

「伸一…?」

「ジムはどうすんだよ?豊は?ようやく、ここまで来たというのによ!」

 荒川の顔に小倉の唾が飛んだ。しかし、気づかないのか、それとも気にならないのか、荒川は顔を拭いもせず、

「それもちゃんと考えている。ジムは続ける予定だ」

 と言って、二人を驚かせた。

「続けるって、金は?」

「スポンサーがつく。それでどうにかメドが立ったんだ」

「スポンサー?誰だよ、その奇特な金持ちは?」

大里(おおさと)商店街だよ」

 ジム近くの商店街である。今までも、豊の試合のチケットを購入してくれたり、商店街会長である青果店の主人をはじめ、数人が会員として汗を流しているなど、荒川ジムとの関係は浅くない。

「有志で金を出し合って、ジムの存続をってな。豊が出世すりゃ商店街も盛り上がる。その先行投資だって、泣けてくる話じゃないか」

 本当に、荒川は今にも泣き出しそうな顔をしている。荒川の話を聞いていた豊も胸が熱くなった。しかし、小倉は鼻で笑った。


「何がおかしい?」

 荒川が小倉をにらんだ。

「そりゃあ笑っちまうよ。いや、逆に泣きそうになるな、貧乏臭くてよ。なあ?」

 小倉は、同意を求めるように豊を見た。だが、豊は黙っている。小倉が何を言いたいのか、彼にはわからなかった。

 冷めた表情で小倉は続ける。

「寂れた商店街が潰れかけの貧乏ジムを支援?共倒れが関の山よ。世界を目指すのに、どれくらい金がかかると思ってんだよ?」

「じゃあ、どうするつもりなんだ?」

「移籍しますよ」

「移籍?」

「ああ。黙っていたけど、実はそんな話が来てるんだ。豊と俺をセットでね」

「いつの間に…」

 荒川の開いた口がふさがらない。豊も初耳だった。

 小倉は得意げに詳細を話した。

「如月がいた木下ジム、あそこが豊を欲しがっててね。金の卵を潰した張本人を欲しがるとは節操のない話だが、俺たちには支度金が入るし、会長にも移籍金が支払われる。一石二鳥、いや三鳥だろ?」

 荒川は何も言えなかった。豊富な資金力を誇る木下ジムが相手では、もはや抵抗のしようもない。

「オヤジだって、豊の将来を踏みにじる真似はしたくないだろ?いつか俺に言ってたよな?」

 あまりの正論に、やはり荒川は言葉が出ない。そして、どうにかしてジムの存続をと考えていた自分が情けなく、膝に置く両手の震えが止まらなかった。豊がいなくなれば、当然商店街の支援もなくなるだろう。会社を失いジムまで失う。老いぼれた元ボクサーに、残されるものは何ひとつないのか。


「お前からも言ってやれ」

 小倉は豊を促した。しかし、豊が発した言葉は、小倉が求めていたものとは真逆だった。

「俺は移籍なんてしませんよ」

「何だと?」

「小倉さんには申し訳ないけど、荒川ジムを出る気はありません」

「何をとち狂ったんだ?よく聞け、これはまたとないチャンスなんだぞ」

 小倉は狼狽していた。豊が拒むとは想像だにしていなかったのだ。

「とち狂ってなんかいません。俺はここで強くなって、世界に挑戦したいだけなんです」

「豊、冷静に考えろ」

「俺は冷静です!」

 豊は、強い口調で言い返した。

「いいか、今のボクシング界はな、強ければチャンピオンになれるってものじゃないんだ」

「そのゴタクは聞き飽きました。じゃあ聞きますが、お金があれば弱くてもチャンピオンになれるんですか?」

「それは…」

 小倉は言葉を詰まらせた。

「何がどうあれ、まずは強くないと駄目なんじゃないですか?そのために厳しい練習をしてるんじゃないですか?それに、俺は会長がいたからこそプロになれたんです。商店街のみんなだってそうです。決して安くないチケットを買って、応援してくれてるんですよ。それなのに、よくも出て行くなんて話を…」

「だから、ジムにも金が入るように交渉したんじゃないか!俺だってな… 俺だって、お前以上にオヤジには世話になってんだよ!わかったような口聞くんじゃねえ!」

 小倉は立ち上がり、豊の胸ぐらをつかんだ。

「だったら、ここで頑張りましょう!ここで三人で!」

 豊は泣いていた。十八年弱の人生で、初めて人前で流した涙だった。


 小倉も泣いている。

「何でわかってくれないんだ!」

「わからないのは小倉さんの方じゃないですか…」

 こうなると、感情と感情、意地と意地のぶつかり合いだった。どちらかが折れなければ、このまま喧嘩別れになる、豊も小倉もそれは承知の上なのだ。

「もういい、二人ともやめろ…」

 荒川が間に入った。

「豊、伸一について行きなさい」

「俺はどこにも行きません!」

 豊は反抗したが、荒川はなだめるように言葉を続ける。

「伸一の言う通りだろう。ここにいても、豊の才能を腐らせてしまうだけかもしれない。豊の気持ちは嬉しいし、本当にジムをやってて良かったと思う。ありがとな。だがな、ワシは移籍金なんて受け取らんからな」

 そう言うと、荒川は小倉を強くにらんだ。それが、老兵に許された最後の抵抗だった。

「オヤジ…」

 言葉を失った小倉の手を振り払い、豊は立ち上がる。

「嫌だ!俺はどこにも行かない!」

「意地になるな、オヤジもわかってくれたんだよ!」

「意地のない小倉さんの方が情けないよ!零細ジムで天下を取るって言ったのは誰だよ!俺は絶対にここを離れない!」

 ジムに豊の叫び声が響き渡ると、その後沈黙が三人を包み込んだ。時間にして三分程度だろうか。その間、三者はそれぞれの決意を固めていた。静寂を切り裂いたのは小倉だった。

「わかった、豊は残れ。俺は一人で出て行く」

 小倉は穏やかな表情になっていた。

「一人でって、豊はどうするんだ?」

 荒川が小倉に聞いた。

「それは豊、お前自身で考えることだ。俺には、トレーナーの指示に従えないヤツを教えることはできない」

「小倉さん…」

「俺は別のヤツと世界を目指す。お前の未来は自分で探せばいい」

 この場において、小倉は初めて笑顔を見せた。すべてが吹っ切れた、そんな顔をしている。そして、荒川に深く頭を下げた。

「オヤジ、いや会長… 長い間お世話になりました。こんなろくでなしが、なんとか生きてこられたのも会長のおかげです。本当に感謝してます。だけど、豊と出会ったのが運のツキでした。腹の底で眠っていたボクシングの虫が騒ぎ始めた。もう、どうすることもできないくらいに…」

 豊は黙ったままうつむいている。もう何を言っても引き止めはできないと感じていた。

「豊、俺には何となくわかっていたんだ。お前の目標が世界チャンピオンじゃないってことがな」

「いえ、そんなことは…」

「いや、違うとは言わせない。前から薄々気づいていたんだよ。お前はそれほどベルトに興味がないとね。何か別の目的があるんだと。それが、俺とお前の温度差になっていたんだ。だから、こんな状況にならなくても、いつかは(たもと)を分かつ時が来たと思う。ありがとうな。ボクシングに戻るきっかけを作ってくれてよ。だが、礼はここまでだ。次にお前と会う時があるなら、それはリングで敵としてだろうからな」

 豊はうつむいたまま泣き続けた。どうあがいても涙が止まらなかった。

「強くなれよ」

 小倉は、豊の背中を叩きジムを後にした。

 残された二人に再び沈黙が訪れた。豊も荒川も、視線を床に落としたまま動かなかった。それは一時間近くが過ぎ、梓が現れるまで続いた。彼女は、その通夜(つや)のようなムードに、何かが起こったのだと察したが、とても尋ねられる空気ではなかった。

「同情はいらないんだぞ」

 やっと荒川が口を開いた。そのか細い声に、豊も呟くように答える。

「同情なんかじゃないんです」

「じゃあ何だ?」

「うまく言えないけど… 親なし子の意地ですかね。それに、小倉さんが言ってたこと、あれ間違ってないんです。俺の目標は世界チャンピオンじゃない」

「どういうことなんだ?」

「結果的にそうなれるのが理想なんですが、俺にはもっと大事なものがあるんです。今はまだ言えませんが…」

 荒川を残し、豊は梓とジムを出た。

「これで良かったのか…」

 と、豊は思わなかった。後悔もしていない。彼も小倉同様、いつかこの日がやってくるかもしれないと、心のどこかで思っていたからである。

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