第三章 3
豊と小倉を前に、荒川の口ぶりが重い。荒川運送が、大手物流会社に吸収されるという話だった。
「もうリストラでどうこうって次元の話じゃなくてな。幸いと言ってはなんだが、合併先が解雇者は出さんと言ってくれている」
そう荒川が説明すると、小倉はテーブルを蹴り上げるように立ち上がった。
「冗談じゃねえ!勝手に決められてたまるかよ!」
「伸一…?」
「ジムはどうすんだよ?豊は?ようやく、ここまで来たというのによ!」
荒川の顔に小倉の唾が飛んだ。しかし、気づかないのか、それとも気にならないのか、荒川は顔を拭いもせず、
「それもちゃんと考えている。ジムは続ける予定だ」
と言って、二人を驚かせた。
「続けるって、金は?」
「スポンサーがつく。それでどうにかメドが立ったんだ」
「スポンサー?誰だよ、その奇特な金持ちは?」
「大里商店街だよ」
ジム近くの商店街である。今までも、豊の試合のチケットを購入してくれたり、商店街会長である青果店の主人をはじめ、数人が会員として汗を流しているなど、荒川ジムとの関係は浅くない。
「有志で金を出し合って、ジムの存続をってな。豊が出世すりゃ商店街も盛り上がる。その先行投資だって、泣けてくる話じゃないか」
本当に、荒川は今にも泣き出しそうな顔をしている。荒川の話を聞いていた豊も胸が熱くなった。しかし、小倉は鼻で笑った。
「何がおかしい?」
荒川が小倉をにらんだ。
「そりゃあ笑っちまうよ。いや、逆に泣きそうになるな、貧乏臭くてよ。なあ?」
小倉は、同意を求めるように豊を見た。だが、豊は黙っている。小倉が何を言いたいのか、彼にはわからなかった。
冷めた表情で小倉は続ける。
「寂れた商店街が潰れかけの貧乏ジムを支援?共倒れが関の山よ。世界を目指すのに、どれくらい金がかかると思ってんだよ?」
「じゃあ、どうするつもりなんだ?」
「移籍しますよ」
「移籍?」
「ああ。黙っていたけど、実はそんな話が来てるんだ。豊と俺をセットでね」
「いつの間に…」
荒川の開いた口がふさがらない。豊も初耳だった。
小倉は得意げに詳細を話した。
「如月がいた木下ジム、あそこが豊を欲しがっててね。金の卵を潰した張本人を欲しがるとは節操のない話だが、俺たちには支度金が入るし、会長にも移籍金が支払われる。一石二鳥、いや三鳥だろ?」
荒川は何も言えなかった。豊富な資金力を誇る木下ジムが相手では、もはや抵抗のしようもない。
「オヤジだって、豊の将来を踏みにじる真似はしたくないだろ?いつか俺に言ってたよな?」
あまりの正論に、やはり荒川は言葉が出ない。そして、どうにかしてジムの存続をと考えていた自分が情けなく、膝に置く両手の震えが止まらなかった。豊がいなくなれば、当然商店街の支援もなくなるだろう。会社を失いジムまで失う。老いぼれた元ボクサーに、残されるものは何ひとつないのか。
「お前からも言ってやれ」
小倉は豊を促した。しかし、豊が発した言葉は、小倉が求めていたものとは真逆だった。
「俺は移籍なんてしませんよ」
「何だと?」
「小倉さんには申し訳ないけど、荒川ジムを出る気はありません」
「何をとち狂ったんだ?よく聞け、これはまたとないチャンスなんだぞ」
小倉は狼狽していた。豊が拒むとは想像だにしていなかったのだ。
「とち狂ってなんかいません。俺はここで強くなって、世界に挑戦したいだけなんです」
「豊、冷静に考えろ」
「俺は冷静です!」
豊は、強い口調で言い返した。
「いいか、今のボクシング界はな、強ければチャンピオンになれるってものじゃないんだ」
「そのゴタクは聞き飽きました。じゃあ聞きますが、お金があれば弱くてもチャンピオンになれるんですか?」
「それは…」
小倉は言葉を詰まらせた。
「何がどうあれ、まずは強くないと駄目なんじゃないですか?そのために厳しい練習をしてるんじゃないですか?それに、俺は会長がいたからこそプロになれたんです。商店街のみんなだってそうです。決して安くないチケットを買って、応援してくれてるんですよ。それなのに、よくも出て行くなんて話を…」
「だから、ジムにも金が入るように交渉したんじゃないか!俺だってな… 俺だって、お前以上にオヤジには世話になってんだよ!わかったような口聞くんじゃねえ!」
小倉は立ち上がり、豊の胸ぐらをつかんだ。
「だったら、ここで頑張りましょう!ここで三人で!」
豊は泣いていた。十八年弱の人生で、初めて人前で流した涙だった。
小倉も泣いている。
「何でわかってくれないんだ!」
「わからないのは小倉さんの方じゃないですか…」
こうなると、感情と感情、意地と意地のぶつかり合いだった。どちらかが折れなければ、このまま喧嘩別れになる、豊も小倉もそれは承知の上なのだ。
「もういい、二人ともやめろ…」
荒川が間に入った。
「豊、伸一について行きなさい」
「俺はどこにも行きません!」
豊は反抗したが、荒川はなだめるように言葉を続ける。
「伸一の言う通りだろう。ここにいても、豊の才能を腐らせてしまうだけかもしれない。豊の気持ちは嬉しいし、本当にジムをやってて良かったと思う。ありがとな。だがな、ワシは移籍金なんて受け取らんからな」
そう言うと、荒川は小倉を強くにらんだ。それが、老兵に許された最後の抵抗だった。
「オヤジ…」
言葉を失った小倉の手を振り払い、豊は立ち上がる。
「嫌だ!俺はどこにも行かない!」
「意地になるな、オヤジもわかってくれたんだよ!」
「意地のない小倉さんの方が情けないよ!零細ジムで天下を取るって言ったのは誰だよ!俺は絶対にここを離れない!」
ジムに豊の叫び声が響き渡ると、その後沈黙が三人を包み込んだ。時間にして三分程度だろうか。その間、三者はそれぞれの決意を固めていた。静寂を切り裂いたのは小倉だった。
「わかった、豊は残れ。俺は一人で出て行く」
小倉は穏やかな表情になっていた。
「一人でって、豊はどうするんだ?」
荒川が小倉に聞いた。
「それは豊、お前自身で考えることだ。俺には、トレーナーの指示に従えないヤツを教えることはできない」
「小倉さん…」
「俺は別のヤツと世界を目指す。お前の未来は自分で探せばいい」
この場において、小倉は初めて笑顔を見せた。すべてが吹っ切れた、そんな顔をしている。そして、荒川に深く頭を下げた。
「オヤジ、いや会長… 長い間お世話になりました。こんなろくでなしが、なんとか生きてこられたのも会長のおかげです。本当に感謝してます。だけど、豊と出会ったのが運のツキでした。腹の底で眠っていたボクシングの虫が騒ぎ始めた。もう、どうすることもできないくらいに…」
豊は黙ったままうつむいている。もう何を言っても引き止めはできないと感じていた。
「豊、俺には何となくわかっていたんだ。お前の目標が世界チャンピオンじゃないってことがな」
「いえ、そんなことは…」
「いや、違うとは言わせない。前から薄々気づいていたんだよ。お前はそれほどベルトに興味がないとね。何か別の目的があるんだと。それが、俺とお前の温度差になっていたんだ。だから、こんな状況にならなくても、いつかは袂を分かつ時が来たと思う。ありがとうな。ボクシングに戻るきっかけを作ってくれてよ。だが、礼はここまでだ。次にお前と会う時があるなら、それはリングで敵としてだろうからな」
豊はうつむいたまま泣き続けた。どうあがいても涙が止まらなかった。
「強くなれよ」
小倉は、豊の背中を叩きジムを後にした。
残された二人に再び沈黙が訪れた。豊も荒川も、視線を床に落としたまま動かなかった。それは一時間近くが過ぎ、梓が現れるまで続いた。彼女は、その通夜のようなムードに、何かが起こったのだと察したが、とても尋ねられる空気ではなかった。
「同情はいらないんだぞ」
やっと荒川が口を開いた。そのか細い声に、豊も呟くように答える。
「同情なんかじゃないんです」
「じゃあ何だ?」
「うまく言えないけど… 親なし子の意地ですかね。それに、小倉さんが言ってたこと、あれ間違ってないんです。俺の目標は世界チャンピオンじゃない」
「どういうことなんだ?」
「結果的にそうなれるのが理想なんですが、俺にはもっと大事なものがあるんです。今はまだ言えませんが…」
荒川を残し、豊は梓とジムを出た。
「これで良かったのか…」
と、豊は思わなかった。後悔もしていない。彼も小倉同様、いつかこの日がやってくるかもしれないと、心のどこかで思っていたからである。




