第三章 1
4月に入り、梓は美容の専門学校に再入学した。時を同じくして、豊はポスティングの仕事を始めた。住宅やマンションにチラシなどを投函する業務で、新聞配達とは違い活動時間が自由なのがありがたい。
梓が学校に行っている時間は、舞の母親が拳都の面倒を見てくれることになり、とりあえず態勢は整った。
「しばらくキャバクラは続けることにしたんだ」
ただし、学業に支障が出ないよう、ウイークデーは早く上がることにすると梓は言う。
「お酒も飲まないようにしないと。未成年なんだし」
「わかってるよ。こう見えても本気なんだから」
「ならいいけど…」
豊の不安は消えないが、梓が真剣に自分を変えようとする気持ちだけは伝わっていた。
その日、豊がジムに行くと、先月川崎で再会した千尋が待っていた。
「やっと来れたよ」
と言って、興味深くジムの中を見回している。
「豊から聞いてた通りのイメージって感じかな」
「よそのジムは、もっと近代的でオシャレなんだけどね。今日はどうしたの?」
「近くに来たから、豊の取材でもしようかなって」
「俺みたいな駆け出しを取材しても、記事にならないと思うけど」
「そんなことないよ。将来有望だって新聞に出てたじゃない」
「いや、まだまだだよ」
豊は照れながら謙遜するが、千尋が自分の記事を読んでくれていたことが嬉しかった。
「もっとキャリアを重ねて、強くならないと」
「キャリアかあ…」
千尋の顔が曇った。
「どうしたの?」
「キャリアって、そんなに大事なのかなと思って。豊のボクシングも私の記事も、大事なのはセンスでしょ?何十年キャリアがあったって、才能のない人は駄目だと思うの。違う?」
「まあ…」
千尋の仕事についてはよくわからないが、ボクシングを含めたスポーツなら、その傾向は顕著だろうと豊は思った。
「どこの編集長も、二言目にはキャリア、実績って、どんなに魅力のあるプレゼンをしても相手にしてくれなくてさ」
「それは、ボクシングだって同じじゃないかな?実績を積まないと上には行けないんだから」
「でも、ボクシングは試合でそのセンスを披露できるじゃない。ライターは記事になることが試合なんだから。試合にすら出させてもらえないのよ?」
明らかに千尋は苛立っていた。豊が知る昔の彼女は、こんなに愚痴をこぼす人間ではなかった。
「何かあったの?」
「ごめん、興奮しちゃったね…」
千尋は両手で顔を覆った。
「気のせいかもしれないけど、今日の千尋さんちょっと変だから」
「気のせいよ」
「ならいいけど、なんか元気ないというか…」
「疲れてるのかな。そうだ、今晩ご飯食べに行かない?まだまだ話聞きたいし」
「いいよ。練習終わるの8時頃だから、そのあとだったら」
今日は梓が休みなので、帰りが遅くなっても問題ない。
千尋が帰って間もなく、荒川が顔を出した。
数日ぶりに会う荒川は、一気に老けた感じがした。それでも笑顔で豊に声をかける。
「しっかりやってるか?」
「はい。傷も治りましたし、次の試合に向けて順調です」
「そうか、それならいい。どんどん強くなって、景気のいい花火を打ち上げてくれよ」
そう言って、荒川は笑顔を作ったが、豊にはそれが切なく見えた。
「いろいろ大変なんだろうな…」
このジムがなくなれば豊も困る。早く銭の稼げるボクサーになって、荒川に楽をさせたいと心から思った。
トレーニングが終わり、豊と千尋は彼女が馴染みだという小料理屋に来た。カウンター席しかない落ち着いた雰囲気の店だ。
「好きなもの頼んで」
と、品書きを渡されるが、こういう店に豊は来たことがない。
「よくわからないから、千尋さんに任せるよ」
「そっか。お酒は?」
「飲まないよ。俺、未成年だし」
「真面目なこと言ってないで、一杯くらい付き合いなさい。お姐さん、ビールとグラス二つね」
千尋がお姐さんと呼んだ四十くらいの女将が、一人で切り盛りしている。
二人の前にグラスが置かれ、千尋が酌をした。
「俺、本当に飲めないから」
いつも梓に説教している手前、酒臭くなって帰るわけにもいかない。
「真面目ねえ。でもダメ!一杯は飲みなさい。それが大人の付き合い」
「はあ…」
豊は抵抗をやめた。
「いつもは一人で来るんだ。ねっ、お姐さん?」
「可愛い坊やだね。彼氏?」
「前に話した未来の世界チャンピオン」
「ああ、ボクシングの!」
「そう、私の弟分」
「施設で一緒だったんだって?」
「私はアル中の父親から逃げ出しての施設暮らしだけど、この子は本当に身寄りがなくてね。でも、すごくいい子なの。どうしてるかなって、いつも思ってたんだよ」
千尋は、すでにニ杯目のビールを口にしていた。
「施設には顔出してる?」
千尋の問いに、豊は首を横に振った。
「行かなきゃと思ってるんだけど… 千尋さんは?」
「私も。一人前になってからって」
「俺がいる間も来てくれなかったもんね」
千尋は、豊より前に施設を出ていた。
「あれから、いろいろあったから…」
「家には帰らなかったの?」
「うん。あんなヤツ、親でも何でもないしね」
千尋は腕をまくった。二の腕に丸いアザがいくつもある。
「これ何の跡かわかる?」
「いや」
「火のついたタバコを押しつけられるの。腕だけじゃなく身体中にあるんだ。こんなこと豊には言いたくないけど、私は親なんかいない方がいいって、幼い頃からずっと思ってた。母親は1歳の時に出て行ったから顔も知らないし。だから、親のいない豊がうらやましいと思ってたんだ。ごめんね」
千尋は泣いていた。その涙の意味は、悲しさなのか、それとも悔しさなのか、豊にはわからなかった。そして、突然の告白に彼の箸が止まる。
「この前、川崎の風俗街で会った時、取材って言ったけど、あれ半分嘘なんだよ。週刊誌の企画で、風俗体験レポートって仕事をしてたの。実際に風俗嬢になって男の人にサービスして、その実体験を記事にするの。軽蔑でしょ?」
千尋は、涙を流しながらも笑顔を作った。
「いや…」
「豊は優しいね。けど、屈辱だったよ。死にたいほど屈辱だった。でもね… 自分の書いた原稿が活字になって書店に並んで。三流週刊誌だったけど、本当に嬉しかったんだ…」
豊は、おしぼりで千尋の涙を拭った。何を言っていいのかわからず、動揺の中で無意識の行動だった。
「でね… あの日豊と会っていろいろ喋って、ひたむきに自分の道を歩んでる姿を見て、自分が恥ずかしくなったの。私がしたかったのは、こんなことじゃないんだって」
「千尋さん…」
「この前の試合観に行ったんだ。豊の戦う姿カッコよかった。いっぱい殴られてたけど、すごくカッコよかった。それに比べて私ときたら…」
千尋は言葉に詰まり、テーブルに顔を伏せた。女将が横に来て千尋の肩を抱く。その姿を見て、豊は黙っていられなくなった。
「俺の知っている千尋さんは、優しくて頭も良くて、そしてクールだった。俺、そんな千尋さんに憧れてたんだ。それは今だって変わらない、ずっと憧れのままだよ。だから、千尋さんにはこれからもクールでいてほしいと思ってる」
豊が喋り終えると千尋は顔を上げ、
「お世辞を言わないの」
と、涙顔の中で笑みを作った。
「お世辞じゃない。俺だって、いつも自問自答してるよ。ボクシングを始めた動機も不純だし、一生懸命に取り組んでいる人たちに失礼かなって。だけど、俺一人の力だけでやっているわけじゃないから。ジムの会長やトレーナー、他にも応援してくれる人がいるんだって、自分に言い聞かせてる。だから、千尋さんも自分を責めてばかりいないで、もっと自分を許してあげないと」
そう言って、再び豊は千尋の顔をおしぼりで拭った。彼女の目許は、マスカラが落ち黒く染まっていた。
「豊君の言う通りだよ。女が独りで生きてくって、綺麗事ばっかりじゃいかないの」
女将が千尋のグラスにビールを注ぐ。
「そりゃあ、反省したり後悔したり、そんなことは誰にだってあるんだし。たまには自分に逃げ道も作ってあげなきゃさ」
「うん…」
千尋は何度も頷いた。
「でもね、このコがこんな姿見せたの初めてなんだよ。いつもは絶対に弱みなんか見せない女なんだから」
女将は、笑いながら豊に言った。
「君がいるからよね。君が千尋ちゃんの心の鍵を開けたのよ」
「よくわからないけど、まずかったでしょうか?」
豊は困惑した。
「いいえ、良かったのよ。ねっ、千尋ちゃん?」
「うん… でも、もうクールじゃなくなっちゃったね」
「クールじゃなくてもいいじゃない。千尋ちゃんは千尋ちゃんなんだから」
女将は微笑んだ。
「よし、飲みます!」
豊は、ぬるくなったビールを一気に飲み干した。そして、
「まず…」
と呟き、咳き込んだ。
「初体験?」
女将が聞いた。
「はい…」
人生初のアルコールは、ほろ苦いというよりただ苦々しく、口の中を不快にさせただけだった。
「私、豊の物語を書くわ!」
突然、千尋が大きな声を発した。
「豊が目標を達成した時、それを一冊の本にするの。子供の頃からのサクセスストーリーを!」
「じゃあ、何としても達成しないとね」
「豊ならできるよ!それに、私以上に豊のことを書ける人はいないしさ」
「でも、俺の本が売れるとは思えないけど」
「売れる!絶対にベストセラーよ!そうだな、タイトルはどうしようか…」
千尋は、潤んだ瞳を輝かせ悩んでいる。豊は口直しに水を飲んだが、まだ舌に違和感が残っていた。
「ミナシゴチャンピオンなんてどう?」
千尋は手帳を出して、そのまま書き込んだ。
「ミナシゴチャンピオン…?」
「どう?なかなかでしょ?」
千尋は得意げな顔を決めているが、
「ダサいよ。そんなんじゃ絶対に誰も読まない」
と、豊は鼻で笑った。
「そうかなあ?インパクトあると思うんだけどな…」
千尋は名残惜しそうに、もう一度、
「ミナシゴチャンピオン…」
と呟きながら、ビールを口に含んだ。




