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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
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第二章 10

 頬に手をあてながら、如月は微笑んだ。

「最終ラウンドの君のカウンター、あれこそがプロのパンチなんだよ」

 並んで座る二人の視線の先で、老人が釣り糸を垂れていた。のどかな陽気の中、如月は穏やかに話し続ける。

「俺の最終的な目標は世界チャンピオンじゃない。政治家になって、この国の舵取りをすることなんだ」

「政治家…?」

「そう。ボクシングに人生を捧げる気は更々ないのさ。もちろん遊びでやってたわけじゃないけど、引退後は大学で政治を学び、30までには国会議員になるつもりだったんだ。引退の予定が、ちょっと早まったけどね」

 夢破れた敗者の言葉ではなかった。自分と同い年の若者が熱く語る未来が、豊には遠い別世界の話のように聞こえる。

「話が難しすぎるよ。政治なんて俺にはわからないし」

「そんなんじゃ駄目だよ。俺たちが未来の日本を背負ってゆくんだぜ。知らない、わからないは罪なんだ。成人すれば選挙権が与えられて、君だって政治に参加しなければならない」

 豊の口からため息が漏れた。引退を思い止まらせるつもりで来たのに、何故か逆に説教されている。

「だから、俺はパンチドランカーにはなれないんだ。この世界で頂点を目指す以上、君との再戦は避けて通れないだろう。そして再び、あの左ストレートを食らったらと思うと、空恐ろしくなるよ」

「もったいないよ」

「何が?」

「君の素質だよ。分けてもらいたいくらいだ」

 豊の正直な思いだった。スポーツには、努力だけでは破ることのできない壁が確実に存在する。そして、有り余る素質を持つ者だけが越えることを許される、高く厚い壁もある。如月には、その壁を乗り越える資格と権利があるように、豊には思えてならなかった。


「よく言うよ。俺には、君ほどの威力を秘めたストレートを撃つ能力はない。素質とはそのことを言うんだよ」

「並外れたスピードがあるじゃないか。それにテクニック…」

 と、必死に訴える豊を如月は遮る。

「いや、断念しなきゃならないんだ。木下ジムには現役の日本王者がいる。階級は俺より下なんだけど、君との試合の前にスパーリングをしたんだ。その時、俺はヘッドギアなし、試合用のグローブ着用を希望した。それがプライドに触れたんだろうね。ガチンコできたよ」

 豊は、相槌も打たずに聞き入っている。

「自惚れじゃないけど、スピードは互角以上だったと思う。向こうも相当焦ってたんじゃないかな。そして、チャンピオン自慢のストレートを受けてみたんだ。どの程度の威力か知りたくてね。結果はダウン、さすがだと思ったよ。けど… 君のパンチの方が上だった。食らった瞬間、絶望を覚えたくらいだからね」

「いくらなんでも、それは言いすぎだよ」

 豊は笑ったが、如月は真顔で続ける。

「疑うなら、強い相手と戦ってみるがいいさ。そうだな、国内ランカーあたりとね。いい勝負になると思うけど」

「俺は6回戦に上がったばっかりだよ」

 またも豊は笑うしかない。どうも如月は本気で言っているらしい。

「目標は世界だろ?だったら足踏みするなよ。人生は短いんだぜ」

「はあ…」

 豊には不思議な感覚だった。どうして、他人のことでこれほど熱くなれるのだろうか。

「友達だからさ」

「友達?」

「ああ。君はどう思ってるかわからないけど、俺にとって君はもう友達だよ。君と出会ったことだけでも、この世界に足を踏み入れて良かったと思ってるんだ」

「友達か…」

 豊は立ち上がって空を見上げた。友達というものに縁のなかった彼は、どう反応していいのかわからなかった。

 学生時代、豊にも同級生がいて、それなりの付き合いはあった。しかし、孤児(みなしご)という境遇を憐れむ視線に、彼は気づいていた。だが、それは仕方がないことと割り切ってもいた。だから、本当の友達なんて自分には一生できないと諦めていたのだ。

「友達か…」

 豊は同じ言葉を呟いた。

「おかしいか?」

 如月は眉をひそめた。

「おかしくはないけど、何だかくすぐったいね」

 友情とは、いつの時代も照れ臭いものらしい。


 ジムへ戻る道すがら、二人は互いの身の上話をした。

 如月の父親が大学の教授をしていること、両親共に彼のプロ入りに反対していたこと、そして豊に身寄りのないことなど。

「失礼かもしれないけど、孤児(みなしご)なんて昭和(しょうわ)のボクシング漫画に出てくる主人公だよな」

「ははは…」

「でも、そんな風に見えないよ。顔だけ見たら、いいとこの御曹司だよ」

「痛てて… あまり笑わせないでくれ…」

 笑うと顔の傷が痛み、豊は頬を押さえた。

「ところで、君のジムは大丈夫なのか?」

「大丈夫とは?」

「お世辞にも立派なジムとは言えないからさ。強い相手と戦うには、資金とプロモーション能力が必要と言うから」

 小倉も、酔うとそんな話を豊にする。だが、彼は強くなることだけしか興味がなかった。強くなればのし上がることができる、そう思い日々のトレーニングに励んでいるのだ。

「帰ったら面倒臭いことが山積みなんだ。引退の手続きやら、契約金の返金だとか」

 如月は苦笑いをした。

「契約金なんてあるの?」

「スカウトされてこの世界に入ったからね。返さなくてもいいらしいんだけど、たった一戦で引退だからさ。ケジメとしてね」

「契約金かあ。やっぱり君は凄いんだよ。なのに、やめちゃうとは…」

「もうその話はいいよ。君のおかげと言っちゃなんだけど、未練なくすっぱりとやめれるんだ」

 完全に吹っ切れているのか、如月の表情は晴れやかさに満ちていた。

 荒川ジムの近くまで戻り二人は別れた。記者の姿が見えたからだ。別れ際、

「俺にできることがあったら何でも言ってくれ。なるべく協力するから」

 と、如月は言った。

「ありがとう。君も頑張れよ」

 二人は固い握手を交わした。そして後日、本当に如月は最高の協力者となり、豊をバックアップすることになる。


 ジムには、渋谷の他にも数人の記者が集まっていた。如月引退の報が広まっているのだろう。顔見知りの記者が、豊の姿を見つけ声をかけてきた。

「如月君が引退するって話なんだけど、何か聞いてる?」

「いえ…」

 豊はシラを切った。つい先ほどまで二人が一緒にいたことを、渋谷以外の記者は知らないはずである。

「今夜会見があるんだけど、一言もらってもいいかな?」

 他の記者も寄ってきた。

「引退が本当なら残念です。そして、彼の最初で最後の相手として対戦できたことは、とても幸運だったと思います」

 豊は、言葉を選びながら慎重に返答した。

「天才と騒がれていたけど、やっぱりプロとアマの差だったのかな?アマチュアで頂点を極めて自信過剰だったとか?」

「いえ、間違いなく彼は天才でした。その彼に辛勝ながら勝つことができ、大きな自信になりました」

「如月君の分も頑張らないといけなくなったね」

「その通りです。あの試合で負けていれば、僕が引退していたかもしれないので」

 自分に言い聞かせるように、豊は語った。言葉だけではなく、そういう覚悟はデビューした時から胸に秘めていた。

 記者たちとすれ違うように小倉が現れた。

「今日は早いですね」

 まだ午後3時前である。

「最近、荷物の量が極端に減っててな」

 と言って、小倉は渋い顔をした。

 荒川運送は、関東一円に展開するホームセンターの仕事を請け負っており、それが売上の七割を占める、言わばお得意様である。近頃、そのホームセンターの業績が悪化しているとの噂が、豊の耳にも届いていた。その件で荒川も毎日奔走しており、ジムに顔を出すことが少なくなっていた。

「今、渋谷さんから聞いたんだが、如月が引退するってのは本当なのか?」

「本人も言ってたので、そうだと思います」

「もったいない。あれほど素質を秘めたボクサーは滅多にいないのに」

「はい」

「だが、これがボクシング。勝者と敗者は同じ道を歩けない、シビアで残酷な世界なんだ」

「はい」

 豊も同感だった。その残酷な道のりを、どれだけ走り続ければ彼のゴールは見えるのだろうか。


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