第二章 9
豊が意識を取り戻したのは、寝かされていた控室のベンチだった。小倉たちの心配そうな顔が映る。
「よくやったぞ」
小倉の声に反応するように、豊は起き上がった。
「大丈夫か?まだ横になってた方が…」
荒川が豊の身体を支える。
「大丈夫です。それより如月は?」
「病院に運ばれたらしい」
小倉が短く答えた。
「そうですか…」
どっちが勝ってもノーサイド。そう約束していた如月に対し、友情らしきものが豊の中に芽生えていた。
「梓ったら、試合中ずっと泣いてたんだよ。豊君死んじゃうって」
そんな舞の言葉通り、梓の目は真っ赤に腫れていた。
「だって、あんなに殴られてたんだもん…」
「如月は、スパーリングの時よりも格段に強くなっていた。本当によく頑張った」
と言い、小倉は豊の顔を引き寄せた。
「今日の勝利は威張っていいぞ」
小倉の腕に抱かれた豊が照れる。これほど小倉に褒められるのは初めてだった。
「豊、記者さんが外で待ってるんだ」
荒川が嬉しそうな顔で言った。如月に与えられていた〝ボクシング界期待の新星〟の称号は、今日の結果で豊にスライドすると予想される。
「凄いね」
豊の存在が遠くなるような気がして、梓は複雑な心境だった。
「会長、明日ジムで話すから断ってくれ。豊、ゆっくり休むんだぞ」
「はい」
小倉に言われるまでもなく、豊もそうしたかった。頭の中に霞みがかっているようだ。いったい、どれほどパンチをもらったのだろうか。とにかく、今はひたすら眠りたかった。
荒川が奮発してタクシーを呼び、それに乗って豊は梓と帰宅した。
午後7時40分。リングではメインイベントが始まっていた。FSG所属ミニマム級の高嶋と、東洋太平洋ランカーの外国人選手との10回戦。豊と如月の試合では満員だった客席も、今は七割に満たない入りだった。
「あんな試合をされてしまったあとでは、どうにも盛り上がりに欠けますね」
そんな他人事のような北原の口ぶりが、藤崎を不機嫌にさせた。
「君は気楽でいいよ。ただ選手のコーチをしていればいいんだからな。私はそういうわけにはいかない。経営者としての立場がある。プロモーターとしてもFSGはトップにいなきゃならんのだ」
「そうですね…」
と、神妙な顔で頷いたが、心の中で北原は嘲笑っていた。彼は、如月は被害者だったと思っている。藤崎に仕組まれたマッチメイクの犠牲になったと言ってもいい。ある程度キャリアを積んだ上での対戦なら、どういう結末になっていただろうか。
「ともあれ、米崎のパンチ力は認めざるを得ないだろう。日本人には少ないタイプだ」
「また刺客を送りますか?」
北原の皮肉たっぷりの言葉に、藤崎はほくそ笑んだ。
「私はプロモーターだよ。利益にならんことはしない主義だ」
藤崎の魂胆は察しがつく。今度は豊の引き抜きを画策しているのだ。だが、北原は反対だった。彼は、FSGの利益追求より業界全体の底上げを望んでいる。金本を脅かす存在となってくれた方が、ボクシング界に活気が出て盛り上がりを見せてくれるに違いない。
翌日の午後、関東スポーツの渋谷が荒川ジムを訪れ、ストレッチをしている豊に声をかけた。
「もう傷は大丈夫なのかい?」
「大丈夫じゃないですよ。いいように殴られましたからね」
アザと絆創膏だらけの顔が、昨日の激戦を物語っている。
「でも、素晴らしい試合だったね」
「いえ…」
結果こそ良かったが、負ったダメージを考えると、豊は素直に喜べなかった。
「初めて、ボクシングの神髄に触れたような気がします」
「今までは、傷ひとつ負うことなく勝ち上がってきたからね」
「それは、たまたま運が良かっただけだと、昨日の試合で思い知らされました」
如月との試合を振り返りながら話す豊の顔は、会話をするだけでも激痛が走る。まさに満身創痍だった。
「自惚れていたわけじゃないけど、こんなに傷だらけになる自分を想像したことはなかったんです。如月君にもう少し重さがあったら、あっさりノックアウトされていたでしょう。俺は賭けに勝っただけで、試合に勝ったんじゃない。だから、もっと腕を磨いて、もう一度彼とグローブを交えたいと思っています」
そう言って、豊は拳を強く握りしめた。
「まるで敗者のような口ぶりだね」
「如月君だって負けたとは思ってないはずです」
「その如月君なんだが…」
渋谷の歯切れが悪い。
「どうしたんですか?」
「彼、引退したよ」
「えっ!?」
まだ18歳にもならない豊だが、これまでの人生でこの時ほど驚いたことはなかった。
「どういうことですか?」
「正式発表はまだなんだけど、昨夜病院から出てくるところを、うちの記者がつかまえたんだ」
「それで?」
「もうリングには上がらないと、きっぱり言ったそうだよ」
と言って、渋谷は新聞を渡した。その記事を、豊は食い入るように見る。「如月わずか一戦で引退」の見出しは、試合内容より大きく扱われていた。彼自身の談話と、それを否定する木下ジムのコメントも載っている。
「彼の担当じゃないから何とも言えないけど、感情に任せての発言でもないらしい」
「そんな…」
豊は新聞を開いたまま目をつぶった。
「嘘だろ…」
好敵手との出会いに、胸が躍るような喜びを感じていたのだ。それは束の間の喜びだったのか。
「渋谷さん、あいつ今どこにいるんですか?」
「ジムで話し合いをしてると思うけど」
「そんな簡単にやめられてたまるかよ!」
豊は、怒鳴りながらジムを飛び出した。
「簡単じゃないよ」
ジムの前に如月が立っていて、またも豊は驚かされる。
続いてジムから出てきた渋谷に、如月は二人にしてほしいと頼んだ。
「米崎君、少し歩こうよ」
包帯で大半は隠れてはいるが、如月の顔は意外なほど明るかった。
二人は、豊のランニングコースである、河原を沿う遊歩道へ向かった。早春の陽射しがまばゆいアスファルトの上を、二人は黙ったまま歩き続ける。すれ違う母娘が、二人を見て後退りした。喧嘩の直後とでも勘違いしたのだろう。それほど、二人の顔は腫れ上がっていた。
沈黙を破ったのは如月だった。
「傷だらけの男二人が並んでると、気持ち悪がられるかな?でも、俺より君の顔の方がひどいよな」
そう言って、如月は草むらに腰を下ろした。
「俺は一発しか入れてないからね」
豊も横に座る。
「でも、その一発で頬骨にヒビが入ったんだよ」
如月は、包帯が巻かれた顔を指差した。




