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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
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第二章 8

「あんな厳しい顔、初めて見るぞ」

 立ち上がった豊の表情に荒川が驚いた。小倉も同感だった。

「本当のあいつが見れるかもしれません」

「本当の?」

「そうです。如月が、眠れる獅子を起こしたのかもしれない」

 小倉は、それを待ち望んでいた。はたして、「目覚めた米崎豊」はどのように覚醒するのか。

 ダウンに気を良くした如月は、一気呵成に攻め立てた。フットワークが(にぶ)っている豊は、誰の目から見ても劣勢だった。

「さすがアマチュアナンバーワンだ。見ろ、あの猛ラッシュを」

 藤崎は、散々こき下ろしていた如月を、手のひらを返すように褒めちぎっている。

「あれが本来の姿ですよ」

 北原が頷いた。

「そうだ。まぐれで勝ち上がってきたヤツとはモノが違うんだよ」

「いえ、米崎の方です。彼ほどのパンチ力があれば、あんな忙しないテクニックは不要なんです。自分のスタイルを思い出したんでしょう」

「君は何かにつけて楯突くな。誰がどう見ても如月が優勢じゃないか」

「それは否定しません」

「そうだろ?私の方が、この世界に長くいるんだ」

 3ラウンド終了のゴングに、無言で北原は目を閉じた。


 インターバルの間、如月は豊をにらみ続けていた。

「向こうは限界が近い。次で決めてやれ」

 トレーナーが景気よくハッパをかける。だが、如月は豊の動きの変化に疑問を感じていた。

「本当に限界なのか…?それとも何か企んでいるのか…?」

 4ラウンドも、如月の猛攻に豊が耐える展開になった。決定打こそないものの、学生チャンピオンの名に恥じぬテクニックを存分に披露した。

 北原が目を見張る。

「これにパンチの重さが加われば金本を凌ぐ…」

 防戦一方の豊は、左瞼が裂け出血で視界を奪われていた。

「どうした米崎、お前はこのクラスで終わってしまうボクサーなのか…」

 豊のポテンシャルを過大評価しすぎていたのかと、北原は唇を噛み首を捻った。


 荒川の額に、豊の血しぶきが飛んできた。

「伸一、タオルだ…」

 荒川の震える叫び声に、小倉はかぶりを横に振る。撃たれ続けてはいるが、豊の目が死んでいなかったからだ。

「何かを狙っている眼光だ…」

 小倉は、その目の輝きを信じた。

「豊、耐えろ… 必ずその瞬間は来る…」

 だが、次の第5ラウンドも豊の反撃はなかった。

「どうだ気分は?」

 最後のインターバル、小倉が豊の耳許で囁いた。

「最悪です」

「最悪だな」

 豊の返答に、つい小倉は笑ってしまった。

「最後までやるか?」

「もちろんです。絶対に止めないでください」

 唇も切れていたが、豊はハッキリと受け答えする。初めてのダウンで嗅いだマットの匂い、それは何千人ものボクサーの汗と血ヘドが染みついた怨念の匂いだった。その匂いに彼は、ボクシングの恐ろしさを知った気がした。しかし、臆病風が吹いたのではない。小倉が感じたように、彼の中で眠っていた何かが目を覚ました、そんな感覚だった。

「KOできなければ終わりだぞ」

「はい」

 それは豊も、百も承知だった。判定になれば大差で負けるだろう。

「必ずチャンスはある。一度しかないかもしれないが、それを待つんだ。一撃で決めろ」

 と言って、小倉は豊の頬を張った。


 最終6ラウンドも、序盤から如月は攻めた。

「ねえ、豊君大丈夫なの?またやられてるよ?」

 舞の悲痛な声にも、梓は顔を上げることを拒否している。3ラウンドあたりから、彼女はほとんど試合を見ていなかった。

「カウンターを狙っているんじゃないだろうか?」

 前に座る老人がポツリと言った。

「カウンター?」

 梓が顔を上げた。

「ああ。相手がダウン狙いでパンチを放った際に、相撃ち覚悟で攻撃するんだよ。それが決まれば大逆転の可能性もあるんだが、あの学生チャンピオンは大振りをしない。だから隙がないんだ」

 老人の解説を聞く限り、豊に勝機はなさそうだと梓は思った。

「勝たなくてもいい…」

 彼女が握る手のひらは、汗まみれになっている。

「だから、もう殴られないで…」

 祈ることしかできない自分が、ただただ悔しかった。


「そんな貝みたいに閉じこもってどうする気なんだい?判定になれば君に勝ち目はないんだぞ…」

 一方通行の会話を続けながら、如月は攻撃の手を緩めなかった。だが、彼は焦っていた。最初のテイクダウン以後、攻めあぐねている苛立ちが焦りを生んでいるのだ。

「そんなにわめくなよ…」

 如月の攻撃が一瞬止まった。豊の声が聞こえた気がしたのだ。

「判定なんてセコい勝ち方など考えてないよ。俺はアマチュアじゃないからね。プロボクシングは殴り倒すのが仕事なんだよ…」

 確かに豊の声だ。如月の脳髄に戦慄が走った。と同時に、心の会話が成立したことを嬉しく思った。彼には、そんな余裕があるのだ。

「じゃあ、何故撃ってこない?俺の動きが速すぎて手が出ないんじゃないのかな?」

 如月は、また質問を投げかけた。

「速すぎる?速けりゃいいってものでもないんだよ。それより、KOを狙わないとまずいんじゃないのかな?未来の総理大臣さん…」

 如月は戸惑う。豊の言う通りなのだ。6回戦ごときでKO勝ちできないヤツが、世界王座を口にするなどおこがましい。

「忠告ありがとう。けど、俺も判定でチマチマ勝とうなんて気はないぜ」

 ジャブとボディブロー中心のインファイトを演じてきた如月が、初めて豊との距離を開けた。

「そうこなくっちゃ…」

 豊は、応えるかのごとくガードを緩めた。それを待ち構えていたかのように如月の左フックが炸裂した。その衝撃に豊の視界が激しく揺れた。しかし、彼は踏ん張った。

「さあ来い… この一発を決めるために、ここまで耐え続けてきたんだ…」

 如月が渾身の右ストレートを放つ。豊は左ストレートで迎撃した。


 小倉は息を飲んだ。荒川も梓も舞も、そして北原も、その瞬間息を飲んだであろう。二人の拳は、ほぼ同時に相手の顔面に食い込んだ。

「豊君!」

 梓が立ち上がって絶叫した。

 豊は、ふらつきながらも踏みとどまっていた。一方、如月はコーナーポストまで弾き飛ばされていた。

「如月!立て!」

 木下ジムのセコンド陣が叫んだが、レフェリーはカウントを途中で止め、試合終了のゴングを要請した。豊の大逆転TKO勝ちである。レフェリーが右腕を挙げようとしたが、豊の身体は崩れるようにマットに倒れた。

 客席がどよめく中、KOされた如月が担架で運ばれた。下馬評を覆した試合結果よりも、壮絶な撃ち合いで幕を閉じた最終ラウンドの余韻が、会場全体に重くのしかかっているようだった。

 小倉と荒川に抱えられリングを下りる豊に、惜しみない拍手が贈られている。

「素晴らしい試合だった。こんな熱い戦いが観たくて、私は何十年もここに通い続けているんだよ」

 老人が、梓と舞に向かって言った。梓は老人と握手をして控室に急いだ。舞も慌てて後を追う。

「青春だな…」

 老人は目に涙を光らせ微笑んだ。


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