第二章 8
「あんな厳しい顔、初めて見るぞ」
立ち上がった豊の表情に荒川が驚いた。小倉も同感だった。
「本当のあいつが見れるかもしれません」
「本当の?」
「そうです。如月が、眠れる獅子を起こしたのかもしれない」
小倉は、それを待ち望んでいた。はたして、「目覚めた米崎豊」はどのように覚醒するのか。
ダウンに気を良くした如月は、一気呵成に攻め立てた。フットワークが鈍っている豊は、誰の目から見ても劣勢だった。
「さすがアマチュアナンバーワンだ。見ろ、あの猛ラッシュを」
藤崎は、散々こき下ろしていた如月を、手のひらを返すように褒めちぎっている。
「あれが本来の姿ですよ」
北原が頷いた。
「そうだ。まぐれで勝ち上がってきたヤツとはモノが違うんだよ」
「いえ、米崎の方です。彼ほどのパンチ力があれば、あんな忙しないテクニックは不要なんです。自分のスタイルを思い出したんでしょう」
「君は何かにつけて楯突くな。誰がどう見ても如月が優勢じゃないか」
「それは否定しません」
「そうだろ?私の方が、この世界に長くいるんだ」
3ラウンド終了のゴングに、無言で北原は目を閉じた。
インターバルの間、如月は豊をにらみ続けていた。
「向こうは限界が近い。次で決めてやれ」
トレーナーが景気よくハッパをかける。だが、如月は豊の動きの変化に疑問を感じていた。
「本当に限界なのか…?それとも何か企んでいるのか…?」
4ラウンドも、如月の猛攻に豊が耐える展開になった。決定打こそないものの、学生チャンピオンの名に恥じぬテクニックを存分に披露した。
北原が目を見張る。
「これにパンチの重さが加われば金本を凌ぐ…」
防戦一方の豊は、左瞼が裂け出血で視界を奪われていた。
「どうした米崎、お前はこのクラスで終わってしまうボクサーなのか…」
豊のポテンシャルを過大評価しすぎていたのかと、北原は唇を噛み首を捻った。
荒川の額に、豊の血しぶきが飛んできた。
「伸一、タオルだ…」
荒川の震える叫び声に、小倉は頭を横に振る。撃たれ続けてはいるが、豊の目が死んでいなかったからだ。
「何かを狙っている眼光だ…」
小倉は、その目の輝きを信じた。
「豊、耐えろ… 必ずその瞬間は来る…」
だが、次の第5ラウンドも豊の反撃はなかった。
「どうだ気分は?」
最後のインターバル、小倉が豊の耳許で囁いた。
「最悪です」
「最悪だな」
豊の返答に、つい小倉は笑ってしまった。
「最後までやるか?」
「もちろんです。絶対に止めないでください」
唇も切れていたが、豊はハッキリと受け答えする。初めてのダウンで嗅いだマットの匂い、それは何千人ものボクサーの汗と血ヘドが染みついた怨念の匂いだった。その匂いに彼は、ボクシングの恐ろしさを知った気がした。しかし、臆病風が吹いたのではない。小倉が感じたように、彼の中で眠っていた何かが目を覚ました、そんな感覚だった。
「KOできなければ終わりだぞ」
「はい」
それは豊も、百も承知だった。判定になれば大差で負けるだろう。
「必ずチャンスはある。一度しかないかもしれないが、それを待つんだ。一撃で決めろ」
と言って、小倉は豊の頬を張った。
最終6ラウンドも、序盤から如月は攻めた。
「ねえ、豊君大丈夫なの?またやられてるよ?」
舞の悲痛な声にも、梓は顔を上げることを拒否している。3ラウンドあたりから、彼女はほとんど試合を見ていなかった。
「カウンターを狙っているんじゃないだろうか?」
前に座る老人がポツリと言った。
「カウンター?」
梓が顔を上げた。
「ああ。相手がダウン狙いでパンチを放った際に、相撃ち覚悟で攻撃するんだよ。それが決まれば大逆転の可能性もあるんだが、あの学生チャンピオンは大振りをしない。だから隙がないんだ」
老人の解説を聞く限り、豊に勝機はなさそうだと梓は思った。
「勝たなくてもいい…」
彼女が握る手のひらは、汗まみれになっている。
「だから、もう殴られないで…」
祈ることしかできない自分が、ただただ悔しかった。
「そんな貝みたいに閉じこもってどうする気なんだい?判定になれば君に勝ち目はないんだぞ…」
一方通行の会話を続けながら、如月は攻撃の手を緩めなかった。だが、彼は焦っていた。最初のテイクダウン以後、攻めあぐねている苛立ちが焦りを生んでいるのだ。
「そんなにわめくなよ…」
如月の攻撃が一瞬止まった。豊の声が聞こえた気がしたのだ。
「判定なんてセコい勝ち方など考えてないよ。俺はアマチュアじゃないからね。プロボクシングは殴り倒すのが仕事なんだよ…」
確かに豊の声だ。如月の脳髄に戦慄が走った。と同時に、心の会話が成立したことを嬉しく思った。彼には、そんな余裕があるのだ。
「じゃあ、何故撃ってこない?俺の動きが速すぎて手が出ないんじゃないのかな?」
如月は、また質問を投げかけた。
「速すぎる?速けりゃいいってものでもないんだよ。それより、KOを狙わないとまずいんじゃないのかな?未来の総理大臣さん…」
如月は戸惑う。豊の言う通りなのだ。6回戦ごときでKO勝ちできないヤツが、世界王座を口にするなどおこがましい。
「忠告ありがとう。けど、俺も判定でチマチマ勝とうなんて気はないぜ」
ジャブとボディブロー中心のインファイトを演じてきた如月が、初めて豊との距離を開けた。
「そうこなくっちゃ…」
豊は、応えるかのごとくガードを緩めた。それを待ち構えていたかのように如月の左フックが炸裂した。その衝撃に豊の視界が激しく揺れた。しかし、彼は踏ん張った。
「さあ来い… この一発を決めるために、ここまで耐え続けてきたんだ…」
如月が渾身の右ストレートを放つ。豊は左ストレートで迎撃した。
小倉は息を飲んだ。荒川も梓も舞も、そして北原も、その瞬間息を飲んだであろう。二人の拳は、ほぼ同時に相手の顔面に食い込んだ。
「豊君!」
梓が立ち上がって絶叫した。
豊は、ふらつきながらも踏みとどまっていた。一方、如月はコーナーポストまで弾き飛ばされていた。
「如月!立て!」
木下ジムのセコンド陣が叫んだが、レフェリーはカウントを途中で止め、試合終了のゴングを要請した。豊の大逆転TKO勝ちである。レフェリーが右腕を挙げようとしたが、豊の身体は崩れるようにマットに倒れた。
客席がどよめく中、KOされた如月が担架で運ばれた。下馬評を覆した試合結果よりも、壮絶な撃ち合いで幕を閉じた最終ラウンドの余韻が、会場全体に重くのしかかっているようだった。
小倉と荒川に抱えられリングを下りる豊に、惜しみない拍手が贈られている。
「素晴らしい試合だった。こんな熱い戦いが観たくて、私は何十年もここに通い続けているんだよ」
老人が、梓と舞に向かって言った。梓は老人と握手をして控室に急いだ。舞も慌てて後を追う。
「青春だな…」
老人は目に涙を光らせ微笑んだ。




