第一章 2
駅を出た豊と梓は、秋風が吹き抜ける通りを北へ歩いていた。会話らしい会話がないのは、互いに気まずさを感じているせいだろう。そんな中、梓が尋ねる。
「家に帰るの?」
「住み込みの仕事を辞めちゃったから、今日から職探しと住むトコ探し」
「どうして辞めたの?」
「トレーニングの時間が取れなくて。待遇は悪くなかったし、いい人ばっかりだったんだけどね」
「あてはあるの?」
いざ話し始めると、梓の質問が止まらない。
「寝る所はどこでもいいんだよね。ネットカフェでもいいし、最悪野宿でも。けど、仕事がね。17歳で保証人もいないから。それに、働ければ何だっていいわけでもなくて。トレーニングを優先するために辞めたからさ」
と言って、豊はシャドウボクシングをした。それからもしばらく一緒に歩いていたが、いくつめかの交差点に差しかかった所で梓が立ち止まった。
「私の家はあっちなの」
「そっか。じゃあ、ここでお別れだね」
豊は微笑んだ。
「豊君は?」
「この先の公園に、日雇労働者の手配師がいるらしいんだ。そこで話を聞いてみようと思って」
「そういうのって良くないんじゃない?やめた方がいいと思うな」
「けど、選んでもいられないから」
「でも…」
梓は名残惜しそうな顔で、豊を見つめる。
「俺なら大丈夫。それより、子供が風邪ひいちゃうから早く家に帰らないと」
豊は笑顔を絶やさなかった。その笑顔に彼女の心は揺さぶられる。
「ねえ、うちに来ない?」
「えっ?」
「とりあえず、うちに来て!」
そう言うやいなや、梓は豊の腕をつかみ強引に歩き出した。
「ここよ。ここの二階」
お世話にも綺麗とは言えない集合住宅を梓は指差した。
「うん…」
言われるがままについてきたが、決して豊は乗り気ではなかった。梓が断る隙を与えなかったのだ。彼女を追うように階段を上る。錆びた鉄骨のきしむ音が、建物の築年数を感じさせた。
「そんなに広くはないけど、野宿よりはいいと思うんだよね」
「いや、やっぱりまずいよ」
「何が?」
「俺、女の人と付き合ったことがないんだ。それなのに、いきなり同棲なんて…」
「バカね」
梓は笑い出した。
「同棲じゃなくて同居!ルームシェアだと思えばいいのよ」
「なるほど、同居か…」
豊は、妙に納得した。
「ちゃんとした就職先が見つかるまでいなよ。もうすぐ冬なんだし、野宿なんて無理なんだから。さあ、どうぞ」
梓に促され、豊は部屋に入った。外見は古かったが、室内は意外と綺麗に見えた。カーテンやじゅうたんがオレンジ色で統一されていて、彼の目に眩しく映る。
「女子の部屋は初めて?」
「うん…」
生返事をしながら、豊は興味深く部屋中を見回す。梓は、赤ん坊を寝かせオムツを取り替えていた。ふと、干されているパンティが豊の視界に飛び込んだ。思春期の少年に、色とりどりのパンティは刺激が強すぎ、彼は息苦しさを感じた。
「ごめん、忘れてた…」
梓は、慌てて洗濯物を片づけた。豊は赤面しながら大きく深呼吸をする。
「とりあえず適当に座っててよ。飲み物持ってくるね」
豊は、赤ん坊が寝かされているベッドに腰かけた。
「この子のお父さんは?」
いないという前提で豊は尋ねた。もしいるのなら、捨てようと考えたりはしないだろう。
「聞きたい?」
「いや、言いたくないなら…」
と、豊は答えたが、梓は喋り始めた。
「この子が生まれる二ヶ月前に、突然いなくなったの。理由も言わずにね。子供が生まれたら籍入れようなんて話もしてたんだけど… そいつが消えた時には、もう中絶もできない時期だったし… その日からずっと悩んでたんだ。一人で育てる自信もないし、何で私だけがこんな辛い思いしなきゃって…」
目に涙をため、梓は更に続ける。
「家出してるから、親にも頼れなくて… 貯金も底を尽きたし、赤ちゃんいたら仕事もできないし…」
聞いている豊も、もらい泣きをしそうになっていた。聞かなければよかったと後悔もしている。そんな彼を見て、梓は涙を拭い笑顔を作った。
「でも、もう大丈夫!君のおかげで立ち直れそうだし!たがら、そんな顔しないでよね」
豊は恥ずかしくなった。慰めなきゃいけないのは自分の方ではないか。
「そうだ!」
突然、梓が大きな声を出し手を叩いた。
「私、夜の仕事してるんだ。ずっと休んでたんだけど、豊君が夜家にいてくれて、この子の面倒見てくれたら働きに出れるよね?」
「い、いや…」
豊は戸惑う。
「困るよ。赤ちゃんの世話なんかしたこともないし」
「大丈夫!私だって初めてだけど、どうにかなってるもん」
「いや、そういう問題じゃなく…」
豊は必死に抵抗した。だが、梓もしぶとい。
「その代わり、君の世話は私がしてあげるからさ!ご飯とか洗濯とか。ねっ、悪くない提案でしょ?」
「うーん…」
豊は腕組みをして考えた。と言うのも、彼はデビュー戦に向けて、自分を極限まで追い込もうとしていたからだ。
新聞販売店を辞めた理由もそこにある。主人の家族からも可愛がられ、居心地も悪くなかった。だが、その居心地の良さが、ボクサーにはマイナスになると豊は考えていた。そして、意志を貫いた。プロボクサーになろうと決意した13歳の時から、彼は徹底して自分への甘えを排除している。
中学卒業時、奨学金などを利用して高校に進学する選択肢もあったし、働きながら定時制に通うという方法もあった。だが、豊はすべての退路を断ち、独りで生きる道を選んだのだ。孤児の彼にはコンプレックスもあった。だからこそ、他人の庇護下で生きている現実が嫌で施設を出たのだ。だが、ここで彼は新たな選択を迫られている。梓の提案は、孤独の中で精神を研ぎ澄ましたい、そんな環境とは正反対の生活になるだろう。
「ダメかな?」
梓が悲しそうな顔で豊を見た。
「いや、そんなことないよ」
豊は断れなかった。ここで断るくらいなら、駅で放っておけばよかったし、この部屋に来なければよかったのだ。
「トレーニングに行ってもいい?」
「うん、晩御飯作って待ってるね」
梓に見送られ、豊は走り出した。彼が描く十七歳の地図に、これからどんな道が刻まれるのだろうか。