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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
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第二章 7

 タイトル戦のない興行にもかかわらず、後楽園ホールは満員の観客で膨れあがった。大方のお目当ては、やはり高校生チャンピオンの如月である。〝ボクシング界の一番星〟などと大きく喧伝され、ボクシングファン以外の注目も高まっている。

 如月の入場に合わせ客席が沸いた。

「こりゃ、完全にアウエーだな」

 花道への扉の前で小倉が苦笑する。その横で、豊は深呼吸をした。6回戦に上がって最初の試合で、初めて彼は大観衆というものを経験することになる。

「お前のことだから緊張はしてないと思うが、雰囲気に飲まれず平常心を保て」

 そう小倉がアドバイスを送った。

「はい」

 豊は、もう一度深呼吸をする。小倉が言うように緊張はないが、自分でも不思議なほど興奮状態にあった。

 客席には、北原と藤崎がいる。

「たいした人気だな。ぜひともうちに欲しかったよ」

 会場を見回し、藤崎は感嘆の声を上げた。

「まさしく金の卵ですよ」

 北原も同調した。如月の獲得合戦に敗れた藤崎は、苦虫を噛み潰したような顔をしているが、北原の考えは違った。ボクシング界を盛り上げるためには、有力選手は分散した方がいいと思っている。FSGのフェザー級には、世界ランカーの金本がいる。仮に如月が来たとしても、宝の持ち腐れになる可能性があった。

 如月に続き、豊がリングに上がった。如月には及ばないまでも、大きな歓声が響いた。


 第1ラウンド。豊はフットワークを駆使し、如月のお株を奪う戦法に出た。

「そうだ、目には目を、スピードにはスピードだ…」

 セコンドの小倉が頷く。過去4試合は、すべて1ラウンドで勝負を決めてきた豊だが、今日の相手は役者が違う。

「インファイトを許すな…」

 (ふところ)に潜り込ませない、自分の得意な距離を守る。試合前、小倉はこの二点をくどいほど豊に伝えていた。

 一方、如月はペースをつかめずに戸惑っていた。二週間前にスパーリングで手合わせした時と、まるで別人と戦っている気分だった。

「あの日は手を抜いていたのか…」

 と思うほど、豊の動きがいい。しかし、ダメージを伴う攻撃は受けていなかった。豊のジャブ中心の攻撃を、抜群の運動能力で回避している。

 梓は、舞と客席にいた。何度か観戦しているうちに、二人とも目が肥えてきたようで、豊の動きがいつもと違うことを不思議がっていた。

「豊君、今日はずいぶん積極的に攻めてるね」

 舞が楽しそうに言った。

「今日の相手は元チャンピオンなんだって。だから、今までのようにはいかないって小倉さんが言ってたよ」

 豊の練習を見る機会が多い梓の方が、当然舞よりも知識は豊富である。

「相手の人、チャンピオンなの?じゃあ勝てるわけないじゃん!」

「チャンピオンって言っても高校のだよ」

 二人の前に座っていた男が振り向いて言った。いつかの老人だった。

「だけど、君たちの友達も日に日に強くなってるね。今日はどっちが勝ってもおかしくないよ」

 そんな老人の言葉に、梓は不満そうな顔をした。あんなに苛酷なトレーニングをしている豊が負けるはずがない、そんな顔だった。

 1ラウンド終了間際、豊のジャブが如月を捕らえた。豊が一気に攻め立てるが、如月は巧みなクリンチで逃げゴングが鳴った。豊が初めて経験する、ラウンド間のインターバルである。

「いいぞ、今のところは満点だ。絶対に距離だけは保てよ」

「はい」

 2ラウンド開始のゴングまで、あっという間だった。再び、豊は華麗な足捌きを見せ、如月に揺さぶりをかけた。

「インターハイ王者もたいしたことないな。むしろ()されているじゃないか」

 藤崎が辛口な発言をする隣で、北原は試合に見入っていた。確かに、豊が圧倒しているように見える。しかし、如月には余裕があると彼は感じていた。


 如月は待っていた。豊のスピードがわずかでも緩む時を。

「米崎君、僕はダラダラとボクシングを続けるつもりはない。せいぜい20歳までだ。その後は大学に行き政治を学ぶ。そして国会議員になり、この国の繁栄に全精力を(そそ)ぐ。それが僕の人生のシナリオなんだ。僕は単なるスポーツバカではない。カッコいいと思わないか?元世界チャンピオンの総理大臣なんてさ」

 攻めを防ぎながら、如月は豊との会話を楽しんでいた。当然、豊からの応答はないが、それで良かった。

「金のためじゃない。名誉でもない。ボクシングは、僕の青春を完全燃焼させる手段なのさ。そして、僕はオンリーワンを求めない。ナンバーワンじゃなきゃ駄目なんだよ」

 如月は反撃に出た。スピードが乗った右ストレートだが、豊は難なくかわし第2ラウンドが終了した。

「何をまごついている?倒せない相手じゃないだろう?」

 如月のトレーナーは、歯痒さを隠さなかった。

「倒せそうに見えましたか?」

 逆に如月が聞いた。

「当たり前じゃないか。お前はもっと強いヤツとスパーリングで勝ってるんだぞ。あんな6回戦に上がったばかりの…」

「甘いですよ」

「甘い?」

「見る目がないってことですよ。でも、結果オーライとしましょう。デビュー戦を華々しく飾るに、最高の相手になりましたからね」

 第3ラウンドのゴングに、如月は威勢よく飛び出した。


 ほとんどダメージは受けていないが、小倉は豊のスタミナを危惧していた。

 過去4戦すべてを1ラウンドで決めてきた豊が、3ラウンド目に突入しているのだ。しかも、巧みなフットワークで積極的に攻め続けている。

「わかっているんだ…」

 攻め続けることでしか、如月のテクニックを封じる(すべ)はない。それを本能が察しているから、豊は止まれないのだ。

「米崎君、攻撃パターンが見えてきたぜ」

 依然として如月は、心の中で豊に話しかけていた。

「スピードでテクニックを封じ込める胸算用なんだろうが、それは甘いよ」

 如月が放ったストレートが豊の頬を捕らえ、ロープ(ぎわ)まで吹っ飛ばした。

 豊は片膝をついた。彼がプロボクサーになって喫した初のダウンである。如月のセコンド陣が沸き上がり、レフェリーのカウントが進む。

 豊は立ち上がらない。しかし、マットを見つめる彼が、不気味に微笑んでいることに気づく者はいなかった。

 セコンドの小倉が叫ぶ中、カウント9でようやく豊は立ち上がり、ファイティングポーズを取った。そして、その顔からは先程までの笑みが消えていた。


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