第二章 6
この日、豊は小倉が運転するトラックの助手席に乗っていた。時々こういったアルバイトが回ってくる。
「たまには気分転換になっていいだろう」
と、小倉は言うが、たまにどころか毎日でもしたいと豊は思っている。
「拳都は可愛いか?」
「可愛いですよ」
「だよなあ。うちもそろそろ子供が欲しくてね。カミさんも33だ。頑張っているんだが、こればっかりはコウノトリのご機嫌もあるからな」
「自分の子供にボクシングをやらせますか?」
そんな何気ない豊の問いを、小倉は何度となく考えたことがあった。
「多分やらせないだろう。ボクシングなんてキチガイのやるものだよ」
「キチガイはひどい」
豊が笑う。
「いや、マジでキチガイだよ。人を殴って金を稼ごうなんて、今時ヤクザでも考えないぞ」
「はあ…」
「豊にだって同じだ。弟のように可愛いお前を、キチガイが待ち構えるリングに送り出すなんて断腸の思いだよ。だが、お前には天性の才能がある。だからトレーナーをしているんだ。素質がなけりゃ最初からやらせてないさ」
豊は車窓からの景色を見つめていた。自分にどれほどの才能があるかわからない。わからないが、自分にはこの道しかないと信じている。挫折しようと路頭に迷おうと、頼れる者は誰もいない。生まれた時から彼は一人きりなのだ。
「少し遠回りするか…」
小倉は、思い出したように方向を変え、二十分ほどトラックを走らせた。
「着いたぞ」
「ここは?」
「木下ジム、如月が所属するジムだよ」
モダンな建物で、ちょっと見ではボクシングジムとわからない。
「まさかスパイですか?」
「まあ、そんなところだ。豊は車で待っててくれ。挨拶してくる」
そう言って、小倉は車を降りた。
「挨拶ならこの前したのに…」
と思いながら、カーラジオをつけると、尾崎豊の曲が流れてきた。
豊の名前は彼に由来する。中学生の時、それを施設長から聞かされた。
「豊の世話をしていた当時のスタッフが、尾崎豊の大ファンで拝借したそうだ。豊がコインロッカーで見つかった日が、偶然にも彼が亡くなった日だったんだよ。苗字の米という字だけは、将来君がどこに行っても米の飯に困らないようにと私がつけた。豊だけじゃなく、親のいない子みんなに、米か飯の字を入れるんだ」
そんな縁もあり、彼は尾崎豊の歌が好きだった。
豊は、ラジオから流れる曲を目を閉じて聴いていた。〝Forget‐me‐not〟という悲しげなラブソングである。
尾崎豊の歌には、メッセージ色の濃い反体制的なものも多いが、豊には社会に対する不満や怒りなどはなかった。自分が生きる意味など、哲学的なことも考えたりはしない。コインロッカーに捨てられながらも、辛うじて生きながらえてきた自分を、借り物の命だと信じていた。誰が貸してくれたかは知らないが、いつか返さなきゃならない時が来るに違いない。だから、それまでにひとつだけ願いを叶えたい、それ以外の物は何も望むまい、そう自分に言い聞かせて彼は今日まで生きてきた。
ドアが開いた音で豊は起きた。いつの間にか眠っていたらしい。
「すまん、遅くなったな」
「いえ… えっ、どうしたんですか!?」
小倉の顔が腫れ上がっている。
「たいしたことはない。ちょっとスパーリングをしてな」
「スパーリングって、如月とですか?」
「まあな」
小倉は、笑みを浮かべ車を走らせた。
「どうしてそんなことを…?」
「不思議か?」
不思議というより、ありえないと豊は思った。元ボクサーとは言え、現役を退いて十年以上も経っているのだ。あまりにも無謀な行為だ。
「オヤジを真似てみたんだよ」
「会長の?」
「そう。俺も現役の頃、今のお前みたいに恐怖に苦しんだ時があってな。それまで怖いもの知らずで突っ走っていたのに、初めて外国人との試合が決まった時、突然すべてが恐ろしくなったんだ。足が震えて立つことすらおぼつかない、そんな俺を見てオヤジは相手のジムに乗り込んだんだ。もちろん、俺には何も告げずに」
小倉の話を、豊は興味深く聞いている。彼が知る荒川のイメージに、そぐわないエピソードだった。
「で、顔をボコボコに腫らして帰ってきて、俺にこう言ったんだよ。伸一、お前が怯えるほどたいしたパンチじゃなかったと。むしろ、お前の方が上だって。そんなはずがないんだよ。そいつはハードパンチャーで鳴らしてたヤツなんだから。お前の方が上だって、そのたった一言を言いたいために、顔が変形するほど殴られてきたオヤジを見て、恐怖心なんかふっ飛んだね。逆に闘志が湧いてきたよ。そして、試合にも勝てた。だから俺も言おう。如月なんか、たいしたことないと」
「小倉さん…」
豊は笑った。
「いや、スピードとテクニックは向こうが上かもしれん。だが、お前にはそれを凌駕するほどのストレートがある。如月のパンチを百発もらっても、一撃で逆転することができるんだ。ただ、これまでの相手とレベルが違うのは間違いない。勝つためには、試合までに心技体すべてをマックスにしなきゃならんぞ」
「はい」
豊は力強く返事をした。そして、微かに残っていた如月への恐怖心は完全に消えていた。
試合当日。豊の控室に如月が現れ、
「大丈夫でしたか?」
と、腫れの残る小倉の顔を見て、申し訳なさそうに尋ねた。
「見た目ほどじゃない。けど、少しは遠慮して殴ってほしかったよ」
と答え、小倉は笑う。後に豊は知ったが、如月は小倉の申し出を断ったらしい。しかし、あまりの熱心さに折れてスパーリングをし、そして小倉の姿を見て感動したという。
小倉は逃げも防ぎもせず、ひたすら殴られ続けたが、一度もダウンすることなく、ゴングまで耐え抜いたのだ。
「米崎君、正々堂々といい試合をしようじゃないか」
相変わらず、如月は余裕の面構えだった。しかし、豊もあの日の彼ではない。
「どっちが勝ってもノーサイドでね」
と、以前如月が言った台詞を、豊はそのまま返した。すると、如月が更に問いかける。
「もうひとつ約束をしないか?」
「約束?」
「この試合に勝った方が、将来必ず世界チャンピオンになろう。どうだい?」
豊は無言で頷き、拳を如月に突き出した。応えるように如月は、ちょこんと拳を合わせた。




