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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
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第二章 6

 この日、豊は小倉が運転するトラックの助手席に乗っていた。時々こういったアルバイトが回ってくる。

「たまには気分転換になっていいだろう」

 と、小倉は言うが、たまにどころか毎日でもしたいと豊は思っている。

「拳都は可愛いか?」

「可愛いですよ」

「だよなあ。うちもそろそろ子供が欲しくてね。カミさんも33だ。頑張っているんだが、こればっかりはコウノトリのご機嫌もあるからな」

「自分の子供にボクシングをやらせますか?」

 そんな何気ない豊の問いを、小倉は何度となく考えたことがあった。

「多分やらせないだろう。ボクシングなんてキチガイのやるものだよ」

「キチガイはひどい」

 豊が笑う。

「いや、マジでキチガイだよ。人を殴って金を稼ごうなんて、今時ヤクザでも考えないぞ」

「はあ…」

「豊にだって同じだ。弟のように可愛いお前を、キチガイが待ち構えるリングに送り出すなんて断腸の思いだよ。だが、お前には天性の才能がある。だからトレーナーをしているんだ。素質がなけりゃ最初からやらせてないさ」

 豊は車窓からの景色を見つめていた。自分にどれほどの才能があるかわからない。わからないが、自分にはこの道しかないと信じている。挫折しようと路頭に迷おうと、頼れる者は誰もいない。生まれた時から彼は一人きりなのだ。


「少し遠回りするか…」

 小倉は、思い出したように方向を変え、二十分ほどトラックを走らせた。

「着いたぞ」

「ここは?」

木下(きのした)ジム、如月が所属するジムだよ」

 モダンな建物で、ちょっと見ではボクシングジムとわからない。

「まさかスパイですか?」

「まあ、そんなところだ。豊は車で待っててくれ。挨拶してくる」

 そう言って、小倉は車を降りた。

「挨拶ならこの前したのに…」

 と思いながら、カーラジオをつけると、尾崎(おざき)(ゆたか)の曲が流れてきた。

 豊の名前は彼に由来する。中学生の時、それを施設長から聞かされた。

「豊の世話をしていた当時のスタッフが、尾崎豊の大ファンで拝借したそうだ。豊がコインロッカーで見つかった日が、偶然にも彼が亡くなった日だったんだよ。苗字の(こめ)という字だけは、将来君がどこに行っても米の飯に困らないようにと私がつけた。豊だけじゃなく、親のいない子みんなに、米か飯の字を入れるんだ」

 そんな縁もあり、彼は尾崎豊の歌が好きだった。

 豊は、ラジオから流れる曲を目を閉じて聴いていた。〝Forget‐me‐not〟という悲しげなラブソングである。

 尾崎豊の歌には、メッセージ色の濃い反体制的なものも多いが、豊には社会に対する不満や怒りなどはなかった。自分が生きる意味など、哲学的なことも考えたりはしない。コインロッカーに捨てられながらも、辛うじて生きながらえてきた自分を、借り物の命だと信じていた。誰が貸してくれたかは知らないが、いつか返さなきゃならない時が来るに違いない。だから、それまでにひとつだけ願いを叶えたい、それ以外の物は何も望むまい、そう自分に言い聞かせて彼は今日まで生きてきた。


 ドアが開いた音で豊は起きた。いつの間にか眠っていたらしい。

「すまん、遅くなったな」

「いえ… えっ、どうしたんですか!?」

 小倉の顔が腫れ上がっている。

「たいしたことはない。ちょっとスパーリングをしてな」

「スパーリングって、如月とですか?」

「まあな」

 小倉は、笑みを浮かべ車を走らせた。

「どうしてそんなことを…?」

「不思議か?」

 不思議というより、ありえないと豊は思った。元ボクサーとは言え、現役を退いて十年以上も経っているのだ。あまりにも無謀な行為だ。

「オヤジを真似てみたんだよ」

「会長の?」

「そう。俺も現役の頃、今のお前みたいに恐怖に苦しんだ時があってな。それまで怖いもの知らずで突っ走っていたのに、初めて外国人との試合が決まった時、突然すべてが恐ろしくなったんだ。足が震えて立つことすらおぼつかない、そんな俺を見てオヤジは相手のジムに乗り込んだんだ。もちろん、俺には何も告げずに」

 小倉の話を、豊は興味深く聞いている。彼が知る荒川のイメージに、そぐわないエピソードだった。

「で、顔をボコボコに腫らして帰ってきて、俺にこう言ったんだよ。伸一、お前が怯えるほどたいしたパンチじゃなかったと。むしろ、お前の方が上だって。そんなはずがないんだよ。そいつはハードパンチャーで鳴らしてたヤツなんだから。お前の方が上だって、そのたった一言を言いたいために、顔が変形するほど殴られてきたオヤジを見て、恐怖心なんかふっ飛んだね。逆に闘志が湧いてきたよ。そして、試合にも勝てた。だから俺も言おう。如月なんか、たいしたことないと」

「小倉さん…」

 豊は笑った。

「いや、スピードとテクニックは向こうが上かもしれん。だが、お前にはそれを凌駕りょうがするほどのストレートがある。如月のパンチを百発もらっても、一撃で逆転することができるんだ。ただ、これまでの相手とレベルが違うのは間違いない。勝つためには、試合までに心技体すべてをマックスにしなきゃならんぞ」

「はい」

 豊は力強く返事をした。そして、微かに残っていた如月への恐怖心は完全に消えていた。


 試合当日。豊の控室に如月が現れ、

「大丈夫でしたか?」

 と、腫れの残る小倉の顔を見て、申し訳なさそうに尋ねた。

「見た目ほどじゃない。けど、少しは遠慮して殴ってほしかったよ」

 と答え、小倉は笑う。(のち)に豊は知ったが、如月は小倉の申し出を断ったらしい。しかし、あまりの熱心さに折れてスパーリングをし、そして小倉の姿を見て感動したという。

 小倉は逃げも防ぎもせず、ひたすら殴られ続けたが、一度もダウンすることなく、ゴングまで耐え抜いたのだ。

「米崎君、正々堂々といい試合をしようじゃないか」

 相変わらず、如月は余裕の面構えだった。しかし、豊もあの日の彼ではない。

「どっちが勝ってもノーサイドでね」

 と、以前如月が言った台詞を、豊はそのまま返した。すると、如月が更に問いかける。

「もうひとつ約束をしないか?」

「約束?」

「この試合に勝った方が、将来必ず世界チャンピオンになろう。どうだい?」

 豊は無言で頷き、拳を如月に突き出した。応えるように如月は、ちょこんと拳を合わせた。


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