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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
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第二章 5

 豊の如月に対する恐怖心は薄らいでいたが、完全に払拭できたとは言い難く、彼の練習を見つめる小倉は不安を抱えていた。そんな不安をよそに、周囲は盛り上がる一方だった。高校生チャンピオンのデビュー戦の相手ということで、専門誌やスポーツ新聞の取材も多かった。

 小倉はいつも思う。そういう星の下に、豊は生まれてきたのだと。広瀬しかり、如月しかり、願わずとも注目される相手が巡ってくるのだ。

「俺なんて取材されたことなんて、ほとんどなかったからな…」

 トレーナーとして記者の対応をしていると、嫉妬と羨望を感じる時さえあった。

 人見知りに加え、口下手(くちべた)を自認する豊は、記者が喜びそうな発言をしないので、金本とは別の意味で記者泣かせだった。それでも、関東スポーツの渋谷にだけは、少しずつ心を開いてる感があった。

「今日はロードワークに付き合ってもいいかな?」

 渋谷は、トレーニングウエアを持参していた。

「いいですけど、走れるんですか?」

 馬鹿にするつもりはないが、渋谷は三十手前ながら中年太り待ったなしという体型だった。

「だからダイエットしたくてね」

 会話も、以前より砕けた口調になっていた。

「じゃあ、行きますか」

 二人は川沿いの遊歩道を走った。だが、1キロも走らないうちに、渋谷の息は上がっていた。

「最初から無理したら心臓に悪いですよ」

 渋谷は喘息患者のように、ゼエゼエと息を吐いている。

「10キロ走ったら折り返してきますので、渋谷さんはウォーキングにしましょう」

「ご、ごめん…」

 息も絶え絶え、渋谷は謝った。

「俺も最初の頃は辛かったな…」

 ボクサーを志す前までの豊は、運動らしい運動をしたことがなかった。休憩なしで20キロを走れるようになるまで、何ヶ月かかったことか。ただ、彼は走るというシンプルな運動を好きになった。ランナーズハイという現象があるが、自分の限界を超えるまで走り続けていると、脳が痺れるような快感が襲ってくる時がある。一時期、その快感を求めて、マラソンランナーに転向しようとまで考えたこともあった。ボクシングをやめたら、いつかフルマラソンにチャレンジしてみたいとも思っている。

 折り返して戻ってくると、渋谷がフラフラになりながら歩いていた。

「歩くだけでも結構きついでしょ?」

「そ、そうだね…」

 汗の量も尋常ではなかった。だが、豊の計算では渋谷は3キロも歩いてない。

「本当に、少しずつでも運動した方がいいですね。長生きできませんよ」

 爽やかな顔で豊は忠告した。


 FSGの藤崎と、如月が所属する木下ジムのオーナーが、銀座(ぎんざ)のクラブで酒を酌み交わしていた。この二人は、日本のボクシング界を牽引する両巨頭であり、しのぎを削るライバルでもある。

「どうです、期待の如月君は?」

 藤崎が木下(きのした)に尋ねた。

「大きな投資をしてますからね。それなりに活躍してもらわんと困ります」

「しかし、この前の世界戦は惜しかったですね」

 豊が見損ねた試合である。

工藤(くどう)か。あいつは限界だろう。齢も齢だし引退を勧めているところだよ」

「でも、金本君という新しい世界候補が出てきたじゃないですか。藤崎さんのところは本当に選手層が厚い」

「こっちも金本には金を使ってるからね。ヤツには稼いでもらわんといかん。もう一戦世界ランカーとぶつけ、年内にはタイトルを取らせたい」

「うらやましい話ですな」

「ハハハ、こっちこそうらやましい。スター性抜群の学生チャンピオンを、すんなり一本釣りしちゃうんだから。ここの差かな?」

 藤崎は二の腕をポンと叩いた。

 アマチュア選手の発掘は、木下ジムのお家芸であった。反対に、FSGの方はアマとのパイプは弱いが、ゼロからの育成に長けており、何人もの世界チャンプを輩出している。

「藤崎さんが推薦してくれた如月の相手は、どんなもんでしょうね?」

「うちの有望株を倒したくらいだから、如月君ともそこそこ戦えるとは思うがね。北原君は8回戦でも通用すると言っとったが、それは買い被りすぎだな」

「では、如月が負けることはありませんね?」

 木下はニヤリと笑った。

「万にひとつもないでしょうな。かと言って、まったくのかませ犬でもない。デビュー戦で華々しく叩きのめすには、もってこいの相手でしょう」

 と言って、藤崎も笑う。広瀬戦の憂さ晴らしを、木下と如月にやらせる魂胆なのだ。


 先の世界ランカー戦に勝利した金本は、ジムの後輩を引き連れて夜の街に繰り出していた。居酒屋を出た彼は、

「ソープ行くか?」

 と、後輩を誘った。

 金本には習慣があった。試合後の数日は、立て続けに女遊びをして、心身ともにリフレッシュするのだ。

「有名になれば、モデル級の女が尻尾を振って寄ってくる。所詮、女なんて金と名声になびく生き物だからな。それまでは風俗で我慢よ」

 金本は、とても二十代前半とは思えない台詞を吐く。二人は川崎のソープランドに入った。

 金本についた女は、どこか知性的な顔をしていた。自分に(がく)がないせいか、彼はこういうタイプの女を好んだ。

「学生さんか?」

「いえ…」

 愛想のない女である。金本も人のことは言えないが、無愛想な女を平伏させるのも悪くないと思った。

 女が金本の服を脱がす。たいがいの女は、彼の身体を見て目を見張った。

「どうだ、惚れ惚れするだろう…」

 この瞬間が、金本はたまらなく好きだった。目が細い上に、頬骨が極端に大きく岩のような顔をしているが、肉体美には誰にも負けない自信があった。

「何かスポーツやってるんですか?」

 女が尋ねた。必ず聞かれる質問だ。

「プロボクサーだよ」

「強いんですか?」

 これまた、お決まりの質問である。

「まあね。今まで誰にも負けたことないよ」

 女に促され、金本は湯船に浸かった。そして、得意げに武勇伝を語る彼の身体を、女は表情を変えず丁寧に洗う。

 普段無口な男にしては珍しく、金本は世界ランカーになったこと、いずれ世界ベルトに挑戦することなど、積極的に自己アピールをしたが、女の反応は薄かった。

「しかし、いい女だ…」

 表情が暗いのが気になるものの、これほどの上玉に巡り会うことは少ない。

 不意に女が尋ねる。

「米崎豊っていう選手を知ってますか?」

「米崎?プロボクサー?」

「はい」

「聞いたことないな。まあ、ボクサーなんて腐るほどいるからな。知り合い?」

「いいえ」

 女は短く答えた。

「マットプレイはいい。早く()れさせろ」

 そう言って、金本が湯船を出た時、女の目から涙が滲んでいた。


 欲望を放出し終えた金本は、先程女が口にしたプロボクサーの話題を持ち出した。

「さっき言ってたボクサーの階級は?」

「フェザー級です」

「俺と同じだな」

 と言いながら、金本は女を抱き寄せキスをしようとした。

「いやっ!」

 女は逃げるように身を逸らした。

「おいおい、俺は客だぞ?」

 金本は、女の髪をつかみ頭を揺さぶった。

「ちょっといい女だからって、お高くとまるんじゃねえぞ。所詮、お前は風俗嬢なんだからよ」

 金本は、手を離し立ち上がる。

「私はこんな所で身をやつしている人間じゃない、もっとグレードの高い人間とでも思ってんのか?」

 と言って、嘲笑うかのように財布から一万円札を出し床に放り投げた。

「チップだ、拾えよ」

 だが、女は見向きもしなかった。

「プライドが邪魔してるのかね?金のために股を開いてるんだろ?」

 女を見下ろし、金本は高笑いをした。


 待合室で、後輩が火照った顔で待っていた。

「いい女に当たったか?」

 金本は下司な質問をした。

「はい、ありがとうございました」

「そうか、良かったな」

 店を出てすぐ、金本は後輩に聞く。

「米崎ってボクサー知ってるか?フェザー級らしいんだが」

「米崎?米崎豊ですか?」

「ああ、確かそんな名前だったな」

「知ってるも何も、広瀬を1ラウンドでKOしたヤツですよ」

「広瀬?ああ…」

 と言っても、顔までは知らない。オーナーの藤崎が大騒ぎしていたので、何となく記憶にある程度だ。

「荒川ジムっていう、一人しかプロがいないところの選手みたいですよ」

「荒川ジム?」

 金本は、その名前にも微かに記憶があった。だが、そんなことはどうでもいい。自分は世界ランカーになるのだ。4回戦ボーイなどにかまっている暇はない。

「所詮、広瀬も三流ボクサーよ」

 金本は、さっさと話題を切り上げた。先程抱いた女の余韻が全身を悩ましく巡り、どうしても口許が緩んでしまう。

「明日もあの女にしよう…」

 金本は舌舐めずりをしながら、女の身体を回想していた。

「マグロだったが、次はヒイヒイ言わせてやる…」

 英雄色を好む、彼の大好きな言葉だった。


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