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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
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第二章 4

 豊と小倉はJRで横浜に向かっていた。渋谷からもらった招待券で、世界タイトルマッチを観戦するためだ。

 電車を降り、二人は横浜文化体育館へと歩く。

 小倉は、如月とのスパーリング後の豊を心配していた。あれから一週間、練習に取り組む姿勢に変化はないが、精彩を欠いているように映るのだ。しかし、それを本人に確かめたりはしない。豊も自身も自覚しているに違いないからだ。

「壁にぶつかったかな…」

「えっ?」

「いや、独り言だ。それより世界戦を観れるなんて、渋谷さんに感謝だな」

 タイトルマッチの前には、金本の試合も組まれている。小倉の真の目的は、その金本にあった。意気消沈する豊に金本のファイトを見せ、闘志を奮い立たせようという魂胆だった。

 会場は満員に膨れ上がっていた。二人が客席に座ると同時に、第一試合が始まった。

「いい席だな」

 小倉が満足げに言った。リングから三列目、選手の表情まで手に取るようにわかる。豊の視線がリングに釘付けになった。以前、彼がマットに沈めた広瀬が立っていたのだ。

「雰囲気が変わったな」

「そうですね」

 豊は頷いた。例えるなら、手負いの肉食獣と言ったところか。FSGのエリートと言われた頃の面影が、今の広瀬からは感じられなかった。

 試合は一分足らずで、広瀬がTKO勝ちを決めた。

「強いな…」

 小倉が呟いた。FSGほどの大所帯ともなると、4回戦で土がつくような選手は出世コースから脱落となる。だが、広瀬は折れることなく努力を重ね、リベンジの機会を窺っているのだろう。そんな気概を持った選手を小倉は応援したくなる。

 花道を引き上げる広瀬が、客席の豊を見つけ立ち止まった。その目は鋭く、火花が散っているように見えた。豊も視線を逸らさず広瀬を見返す。トレーナーに促されるまで、広瀬は豊をにらみ続けた。

「小倉さん、俺帰ります」

 広瀬とのにらみ合いに胸が熱くなったのか、豊が立ち上がった。

「俺、ビビってました。けど、今の試合を見て目が覚めました。金本さんとは、いずれリングで対峙するでしょう。それより、今は試合に向けてトレーニングをしたい、しないと如月選手に勝てない、そう思うんです」

「なるほどな」

 小倉は笑った。金本より広瀬の存在が刺激となったのは、ちょっとした誤算だったが、闘志が甦ってくれたのなら、どちらでも構わない。彼が企てたショック療法は成功である。

「よし。なら、東京まで走って帰れ。俺は最後まで観ていくから」

「はい」

 豊の表情には、いつもの清々しさが戻っていた。


 会場を出た豊は、道路標識を頼りに東京へと走った。時刻は午後7時、三時間もあれば帰れるだろう。知らない街を走るのも面白いと楽しんでいたが、川崎に入った辺りで方向を見失い、風俗店が立ち並ぶ路地に迷い込んでしまった。

 ランニング中の豊に声をかける商売熱心な客引きもいる。

「気まずい…」

 と思い、早く路地から抜け出そうとスピードを上げた時、出会い頭に女とぶつかった。

「大丈夫ですか?」

 豊はよろける程度で済んだが、女の方は派手に転んでいた。脱げ落ちたパンプスを拾い、彼は女のもとへ近づいた。

「あっ…」

 女は出血している膝を押さえていた。

「血が出てますね。病院に行きましょう」

 と言う豊に、

「ほっといてよ!」

 と、女は甲高い声を発した。

「えっ!?」

 豊は女の顔を見て驚いた。彼の知る人物だったからだ。女も豊を見て、足の痛みも忘れるほど驚いている。

 二人は近くのファミレスに入った。彼女の名は千尋(ちひろ)、かつて豊と同じ施設に入所していた女だった。

「元気だった?」

「元気だよ。豊も元気そうだね」

 千尋は豊より五歳年上で、六年近く同じ時を過ごした仲である。

「俺、プロボクサーになったんだよ!」

 旧友との再会に、豊のテンションが高い。

「ホントに!?夢叶えたんだ!」

「まだ夢の入口だけどね。千尋さんは?」

「私?」

 一瞬、千尋の表情が曇ったが豊は気づかない。

「ルポライターになりたいって言ってたじゃない」

「うん。まだペーペーだけど、一応フリーライターとしてね」

「やっぱり千尋さんは凄いな」

 施設にいた頃、豊は頭の良い千尋を尊敬していた。そして、正義感が強く面倒見のいいお姉さんだった。理不尽なイジメに遭っていた彼を、救ってくれたこともあった。

 なるべく他人と関わらないようにしていた豊が、唯一心を開いたのが千尋だったのだ。

「凄くなんかないよ」

 端正の取れた顔立ちも昔と変わらず、ちょっと突き放した喋り方も当時のままで、それが豊には嬉しかった。


「で、どうなの?こっちの方は?」

 千尋は、ボクシングのゼスチャーをした。

「今のところ4戦4勝、来月また試合があるんだ」

「全勝!?豊こそ凄いじゃん!」

「いや、俺クラスなら全勝なんていっぱいいるし、今度の対戦相手はすごい強敵なんだよね」

 と答えた時、豊の脳裏に如月の顔が浮かび上がった。そして、忘れかけていた恐怖が再び頭をもたげた。

「豊なら絶対にやり遂げるよ。やっぱり、気持ちはあの時のまま?」

「あの時?」

「忘れたの?ボクサーになりたいって私に打ち明けた時、目的があるって言ってたじゃない」

「うん。もちろん、そのために頑張ってるよ」

「一途だね。そういうのカッコいいよ」

「いや…」

 豊は照れた。尊敬する人間に褒められて悪い気はしない。そして、彼がボクシングを始めた動機を知る、ただ唯一の人間がこの千尋だった。

「でも、何であんなトコにいたの?」

 千尋は、店から飛び出してきて豊と衝突した。世間にうとい豊でも、風俗店がどういうことをする場所くらいかは知っている。

「取材だったの。週刊誌の依頼で、風俗で働く女性の記事を書くためにね。何故、女は身体を売るのかみたいな」

「そうなんだ」

「でも、内容が内容だから取材に協力してくれる店って少ないのよ。あの時も、塩まかれて追い出されたとこだったの」

「なるほど…」

「ところで施設は出たの?」

 千尋は話題を変えた。

「うん」

「家はこの近く?」

「いや、東京。ロードワークの途中だったんだ」

「東京まで?」

「うん」

「それは大変だ」

 豊は笑顔で頷いたが、重大なことに気づいた。

「ごめん。俺、お金一円も持ってなかったんだ」

「いいのよ。私が払うつもりだったもん」

「ごめん、今度会った時に返すから。千尋さんは川崎に住んでるの?」

「私も東京だよ。下北沢(しもきたざわ)

「じゃあ今度ジムに寄ってよ!荒川ジムってところだから」

「わかった、絶対行く」

「来月の試合も観に来てほしいな。かなり手強い相手だけど、千尋さんが来てくれたら心強いから」

「うん、必ず行くよ」

 食事をしてしまったので、豊は電車賃を借りて東京へ戻った。


「おかえり。試合どうだった?」

 梓は起きて待っていた。

「それが観てないんだよね。テレビ借りるよ」

 豊はチャンネルをニュースに変えた。しばらくしてスポーツニュースになったが、世界戦の結果しか報じなかった。

「調べてあげるよ」

 梓は携帯を開いた。

「金本だよね?ええと、3ラウンドKOで勝ってるわ」

「やっぱり。さすがだな」

 これで、金本の世界ランキング入りは確実になった。

「焦っちゃうな…」

 キャリアが違うとはいえ、豊は4回戦を卒業したばかり。追いつく前に金本は頂点に達しそうな勢いだ。

「横浜まで行って、何で試合観てないの?会場に行かなかったの?」

 当然の疑問を梓は口にした。

「いや。行ったことは行ったんだけど…」

 豊は状況説明が苦手なタイプである。一生懸命説明したが、梓を理解させるには至らなかった。

 その夜、豊はなかなか眠りにつけなかった。千尋と五年ぶりに再会した喜びと如月戦へのプレッシャーが、代わる代わる彼の思考に押し寄せて来るのだ。そしてついに眠ることを諦め、物音を立てぬようにアパートを出て、真夜中の街を一心不乱に走り続けた。


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