第二章 3
四連勝で6回戦に昇格した豊は、近頃急激に身体が大きくなっていた。
「そろそろ減量もきつくなりそうだな」
腹筋をする豊に小倉が言った。4月で18歳になる豊は、今が成長期真っ只中といった具合で身長の伸びが著しい。中学の時はクラスでも低い方だったのが、ここにきて170センチを超えようとしている。
「まだ大丈夫ですよ」
そう答える豊は、今のところ食事制限などはしていない。だが、現役時代に減量の辛さを嫌というほど味わっている小倉は不安でならなかった。
関東スポーツの渋谷がジムに来た。
「今日は取材じゃないんです。これを」
小倉が受け取ったのは、来週行われる世界タイトル戦のチケットだった。
「うちの社が協賛してまして。セミファイナルでは金本選手の試合もありますし」
「ありがたくいただきます」
ボクシングファンとして、世界戦を生観戦できるのは嬉しい。
「私には、ボクシング担当記者としての夢があるんですよ」
練習中の豊を眺め、渋谷は言う。
「日本人同士の世界タイトル戦、それも互いに無敗で。痺れるシチュエーションだと思いませんか?」
「そうですね。最近は日本人同士の世界戦もあまり見ませんし」
小倉も、渋谷の言葉に賛成である。
「堀口元気vs関拳児の再現です。まあ、漫画の話ですけど」
そう言って、渋谷が笑うと、
「私は、あの漫画を見てプロボクサーになったんです」
と、小倉も笑い、それからしばらく二人は〝がんばれ元気〟の話で盛り上がった。
「金本選手と米崎君には、その権利があるんですよ。お互い無敗、しかもすべてKOで勝ち上がってます。そんな二人の世界戦が実現すれば、業界も盛り上がると思いませんか?」
「うーん…」
小倉は唸った。さすがに、現時点で豊を金本と比較するのは酷である。金本はすでに完成されつつあるボクサーで、豊はまだ6回戦に上がったばかりなのだ。逆に考えれば、豊には伸びしろが多く残っているとも言えるのだが。
「米崎君には、ボクシング界の枠を飛び出す、スケールの大きい選手にと願っています。彼はその資格を備えている気がするんですよね」
渋谷の言葉には熱が帯びている。いつの間にか、豊のファンになってしまったようだ。
金本は、まさにボクサーになるために生まれてきたような男だった。規格外の身体能力だけではない、野心の塊のような性格も、またボクサーにうってつけのものだ。
「右脇が甘い!」
練習生三人と同時にスパーリングをする金本に、北原の檄が飛ぶ。練習生とは言え、彼よりウエートのある三人を1ラウンド以内にダウンさせなければならない。相手の三人は、金本にパンチを一発決める毎に一万円がもらえるシステムなので必死になる。
「残り一分!」
北原は叫んだ。全員ダウンさせないと、金本にはペナルティとして罰金が発生する。北原が発案するトレーニングは、このような〝アメとムチ〟的なものが多かった。
「十五秒!」
金本は最後の一人にてこずっていた。
「10、9、8…」
北原のカウントダウンに金本は吠え、強烈なストレートを放つ。しかし、惜しくもかわされ時間切れとなった。金本は悔しそうにリングを下りた。
「調子悪いのか?昨日と今日でマイナス三万円だ」
「こんなもんですよ」
いつものことだが、金本はぶっきらぼうに答える。
「世界ランカーが相手で緊張してるのか?」
「よしてくださいよ。ランカーと言っても、たかが14位じゃないですか」
そう言って、金本はシャワー室に向かった。北原は、藤崎との会話を思い出し苦笑した。
「マスコミ受けをよくしろなんて、あいつには無理な相談だ…」
金本の無愛想ぶりに、北原はとっくにサジを投げていた。
拳都も六ヶ月なり、首が座るようになった。豊が、その丸い頬を人差し指で突く。そうすると拳都が笑うので、飽きもせず何度も繰り返す。それが豊にとって、激しい練習後に訪れる憩いの一時になっていた。
「お前はどんな人生を歩むんだろうね?」
豊は問いかけた。
「俺は、人を殴ったり殴られたりする人生を選んでしまった。痛いんだぞ、殴られるって」
拳都の頬に拳を当て、豊は微笑む。
「次の相手は元高校チャンピオンなんだって。だから、たくさん殴られて人相が変わっちゃうかもしれないけど、怖がらないでくれよな」
次の対戦相手の如月は、インターハイを制し、鳴り物入りでプロボクシング界に現れた新星だった。
「デビュー戦から強い選手とやりたい」
という本人の希望もあり、無敗の豊に白羽の矢が立ったのだ。翌日、その如月が一人で荒川ジムを訪れた。
「突然お邪魔して申し訳ありません」
と、丁寧な挨拶をする如月に小倉は好感を持った。
「ビックリしたかい?こんなオンボロジムで。偵察に来たのかな?」
「いえ、同じ齢の選手なので、どんな人なのかなと思いまして」
「それにしても、よくプロに入ったね。大学のスカウトも相当あったんじゃないの?」
「まあ、それなりには…」
それなりどころの話ではない。次期五輪での金メダルを嘱望されており、大学や企業からの誘いは三桁を下らなかった。
「でも、周囲が騒いでいるだけで、自分は最初からそんな気はありません。大学にはボクシングを辞めてから行くつもりです。こっちは若いうちにしかできませんから」
「なるほどね…」
クールな青年だと小倉は思った。豊にもそんな雰囲気があるが、今の若者はこういうタイプが多いのだろうか。
「高校チャンピオンと言っても、所詮はアマチュアですし」
実際に試合を見たことがないので、小倉には如月の資質を評価できない。ただ、淡々と話す彼の表情に、満ちあふれる自信が感じ取れた。
「スパーリングしてみるかい?」
「今からですか?」
突然の小倉の申し出に如月は驚いた。
「君の技術を見せたくてね。うちのは4回戦を卒業したばかりだから、うまい相手と戦ったことがないんだ」
如月は少し迷ったが、
「そうですね。では、やりましょうか」
と受け入れた。
「豊!スパーリングだ!」
小倉は、リングでスクワットをしていた豊を呼び寄せた。
「こちらが次の対戦相手の如月さんだ」
豊は、来客の存在に気づいていなかった。
「えっ?あの学生チャンピオンの?」
「そうだ」
「はじめまして。よろしくお願いします」
如月は、豊にも丁寧に挨拶をした。
「グローブは10オンス、ヘッドギア着用での1ラウンド。いいな?」
早速、二人が支度を始める。
この時、豊はプロになって初めて背筋に冷たいものを感じていた。
「緊張じゃない… 俺は今ビビってる…」
相手がエリートで、学生チャンピオンだからなのか。原因までは自己分析できなかったが、こんな気持ちになったことは今まで試合前にもなかった。
「大丈夫か?」
豊の異変を察した小倉が声をかけた。
「はい…」
すでに如月はリングに上がり、ウォーミングアップを始めている。豊とは対照的に、このスパーリングを楽しもうという表情をしていた。
「こんなに不安そうな豊を見るのは初めてだ…」
小倉は、豊がリングに上がるのを待ちゴングを鳴らした。
「よろしく!」
と言いながら、如月が速攻でパンチを繰り出す。
「速い…」
小倉は唸った。豊も必死に防御するが、如月のスピードに面食らっている。
「さすがは学生チャンピオンだ…」
またも小倉が唸る。アマチュアはプロとは違い、破壊力より技術を重視されるが、如月はその技術も一級品だった。
防戦一方の豊は、堅実なディフェンスを見せているものの、ここまで手が出せないと焦りが生まれる。
「よし…」
豊は反撃に出るため、左サイドのガードを捨てた。必然的に、如月はその左を攻めてくる。
「威力はどうなんだ…?」
豊の左頬にジャブがヒットする。続けざまに右フックが飛んでくる。そこで豊はカウンターを仕掛けた。彼が得意とする左ストレートだ。しかし、豊の拳が如月に届く前に、彼の身体が崩れ落ちた。そしてゴングが鳴らされた。
豊は呆然としていた。ヘッドギアをしているしグローブも練習用、衝撃はさほどでもないはずだ。
「なのに、何故…?」
三週間後に対戦する相手に、まさかのダウンを奪われた事実に、豊は屈辱を感じずにはいられなかった。
如月は帰り際、豊にこう告げて去った。
「どっちが勝ってもノーサイドでいきましょう。それがスポーツマンシップですから」
相変わらず丁寧な言葉遣いだが、その口調には自信がみなぎっていた。
「どうだ、感想は?」
と、小倉に聞かれても、ショックが抜け切らない豊は、しばらく何も答えられず、ただ呆然と無人のリングを見つめていた。




