第二章 2
試合を明日に控えた夜、豊は夢を見た。それは子供の頃から、たまに見る夢だった。
リビングに食卓テーブルがあり、幼い豊がご飯を食べている。正面では父親が新聞を広げていて、母親が豊におかわりのスープを運んでくる。いつも、このシーンが彼のスクリーンに映し出された。だが、両親の顔には影がかかっていた。どうにかして二人の顔を確かめようとするのだが、その前に目が覚めて現実に引き戻されるのだ。
この日もそうだった。うなされて目覚めると、そこに心配そうな梓の顔があった。
「大丈夫?唸ってたけど?」
「うん… ちょっと夢を見てた…」
豊は目を瞬いた。
「夢?」
「うん…」
身を起こした豊は、手の甲で額の汗を拭った。
「怖い夢とか?」
梓の不安は、まだ消えていなかった。それだけ豊の唸り声がショッキングだったのだろう。
「本当に大丈夫。顔洗ってくるよ」
もう窓から朝陽が射している。豊は冷たい水で顔を洗った。
「あの夢は俺の願望なのか…?」
タオルで顔を拭いながら彼は思った。
中学生の時、図書館で夢占いに関する本を読み漁ったことがあった。占いなどは信じない性分だが、夢を見る理由を解明したかったからだ。しかし、何もわからずじまいに終わった。毎晩見るわけでもなく、何日か経てば忘れてしまうのだが、この夢を見た朝は決まって目覚めが悪い。
「よりによって試合の日に…」
そう呟き、豊はまた布団に潜った。
「先日はありがとうございました!」
試合会場の廊下で、小倉は関東スポーツの渋谷に呼び止められた。
「彼の記事、反響が大きかったんですよ」
「そのようですね。ジムの見学者も増えました」
豊の記事が出てから、来客のない日はないほどである。当初は、今のうちだけだろうと思っていたが、一ヶ月が過ぎても減らないどころか、むしろ増えている感じさえあった。
「チケットもさばけて助かってます」
豊のファイトマネーは、現金ではなく興行のチケットで支払われている。つまり、そのチケットが売れないとジムの収入にならないのだ。
「米崎君は?」
「控室にいます。呼んできましょうか?」
「いえ、こちらから伺います。しかし、今日は少し厄介な相手じゃないですか?」
渋谷の問いかけに、小倉はいやらしい笑みを浮かべた。
「連勝が止まるかもしれませんよ」
「作戦は?」
「ありません。それどころか、豊は今日の対戦相手の情報を一切知りません」
「小倉さん…」
渋谷の顔が曇る。
「いえ、これも親心です。今まで楽をして勝ち続けてるので、ここらで一度つまずくのも薬かと思いまして」
「つまずきますか?」
「どうでしょうね。私も楽しみにしてるんですが…」
小倉にもわからなかった。試練を与えながらも、あっさり勝ってほしいという思いもある。どちらも彼の本心だった。
試合が始まった。
「やりにくい…」
開始早々、対戦相手の水野に豊は困惑していた。スピードもパンチの威力も、特別目を見張るものはない。だが、フットワークをはじめとして、何もかもが少しずつ変則的なのだ。そして、好んで接近戦を仕掛けてくる。ジャブとボディを多用し、少しでも劣勢になるとクリンチにもつれ込む戦法を続けていた。ダメージはないが、豊は心理的に揺さぶられている。そして、まだ一発もパンチを撃っていなかった。
「クリンチも技術のうちだぞ…」
リング下の小倉は、厳しい視線を送っていた。
二分過ぎ、ようやく豊が仕掛けた。右フックだ。それを水野はかわしボディを狙う。クリンチは勘弁とばかりに、豊が退いたその時だった。水野が右フックを放った。
「きた…!」
豊は心の中で叫んだ。彼が得意とする左ストレートを見舞う絶好のチャンスだった。だが、水野の右フックをかわした瞬間、豊の鼻に肘が炸裂した。鼻血が噴き出しロープにもたれかかった。
「レフェリー!肘だ!反則だ!」
小倉が叫ぶ。レフェリーが訴えを認め、豊に治療の時間が与えられた。
「大丈夫か?」
荒川が、豊の鼻に脱脂綿を詰めた。
「はい」
鼻腔いっぱいに不愉快な匂いが広がっているが、こんなことで棄権するわけにはいかない。
「よし、出血は止めたぞ」
小倉は豊の肩を叩いた。その振動で鼻っ柱に痛みが走った。
水野がファールの謝罪をし、試合が再開された。先程と似たような展開になり、水野は豊の懐に入り込む。傷めている鼻をジャブで攻める気だろうと推理した豊は、正面のガードを固める。ところが、意に反し水野はフックを放ってきた。多少慌てたものの、余裕を持って回避したが、その時またも水野の肘が豊を襲った。だが、今度は間一髪、左のグローブでその肘を受け止めた。
「故意なのか…?」
豊の頭に疑惑が芽生えた。1ラウンドも残り三十秒、水野はまたも同じ戦法できた。
「そうはさせるか…」
豊は上半身を沈めた。そして、左フックを狙った水野の腹に、強烈なボディを叩き込み、続けざまに右フック、左ストレートを決め、KOで勝利を収めた。
勝ち名乗りを上げる豊に、小倉がタオルをかけた。
「ムエタイとの異種格闘技戦はどうだった?」
「ムエタイ?あの人、ムエタイの選手だったんですか?」
「元な。やりにくかっただろう?」
と言って、小倉はニヤニヤしている。
「そういうことは、前もって教えてくださいよ」
豊は呆れながらも、歓声に応えるべく四方に礼をした。勝者に手向けられる拍手の音量も、勝ち続ける度に大きくなっている気がする。それは、嬉しくもあり、くすぐったくもある、勝利者だけが浴びることが許される祝福のシャワーだった。
「ムエタイは肘も認められている。今日がデビュー戦だし、本能で思わず出てしまったのかもしれないな。痛むか?」
控室に戻る途中、小倉が聞いた。
「はい、かなり痛いです」
豊は、皮肉混じりに答えた。彼の鼻に詰められた脱脂綿は、血が滴るほど真っ赤に染まっていた。
客席には、豊の試合に注目していた二人の男がいた。FSG会長の藤崎とトレーナーの北原である。試合後も、二人は豊の話題を続けていた。
「広瀬をKOしたのは、フロックじゃないということか」
「私の見立てでは、広瀬は8回戦クラスの実力はありましたよ」
「と言うことは…?」
「米崎も同等、あるいはそれ以上かと」
「うむ…」
藤崎は、北原の眼力を信頼している。金本をスカウトしてきたのも彼なのだ。
「信じられん。あんなバラック小屋みたいなジムから…」
「うちのような大手に勝つボクサーが出たことでしょうか?」
北原は藤崎の言葉を遮り、そして代弁した。
藤崎は口をつぐんだ。北原はオーナーの彼に対し、いつも斜に構えた態度を取る。それが気に入らないが、北原ほど有能なトレーナーはいないため、たいていの場合は藤崎が折れざるを得なかった。
「人気もあるそうじゃないか」
「結構なことじゃないですか。ミーハーが増えると業界全体が活性化しますから」
「ふん…」
藤崎はますます面白くない。本来なら、新聞で特集されるのはFSGの広瀬だったのだ。
「広瀬じゃここまで騒がれませんよ。彼の方が華がありますからね。何と言ってもルックスがいい」
北原は、豊のスター性を高く買っている。だからこそ、よその選手ながらアドバイスをしているのだ。
「金本にも、もっとインタビューの練習をさせるんだな。マスコミへの愛想も教えてやらないと、銭の取れる選手にならん」
藤崎は真顔で言った。FSGが売り出し中の金本は、マスコミ受けが良くなかった。
「はい、これ!」
控室に来た梓が、豊に封筒を渡した。
「何?」
「えっ、どうしたの?その鼻?」
鼻に絆創膏を貼った豊の顔に、梓は吹き出しそうになった。
「笑うなよ」
「いいから!早く、それ開けてよ!」
豊が封を切る。中身はファンレターだった。
「凄いな。俺なんか一度ももらったことないぞ。女の子か?」
小倉が冷やかし気味に聞いた。
「それが、高校生くらいの男の子なんです」
「男かよ」
そう言って、小倉は大笑いした。
「何て書いてあるんだよ?」
「駄目です。家に帰ってから、こっそり読みます」
豊は、大切そうに手紙をバッグにしまった。初めてもらったファンレターは、彼にとって想像以上に嬉しいものだった。
今日の勝利で、豊は4回戦を卒業となった。それも全試合1ラウンド以内でのKO勝ちである。彼は、この日確信した。
「俺はこのまま目標に向かって突き進める…」
と。




