第二章 1
関東スポーツに豊の記事が掲載されると、荒川ジムへの来客が増えた。見学者もそうだが、偵察らしき同業者の顔もちらほら見える。
「マスコミの力は凄いな…」
小倉は驚嘆していた。あまりの反響に荒川は舞い上がり、ジムを改築しようとまで言い出したが、それは資金の関係で断念した。本業である運送業の経営状況が芳しくなく、元社長の彼も自宅を抵当に入れ会社を支えている。
そんな騒ぎをよそに、豊は次の試合も完勝した。三試合連続となる1ラウンドKOでの圧勝で、関東スポーツに大袈裟に書かれた「デビュー以来無敗」を守り抜いた。
「こりゃ、ひょっとしてひょっとするんじゃないのか?」
荒川は興奮して、小倉の肩を叩いた。
「今更何を言ってやがる…」
心の中で小倉は笑っていたが、
「会長、新しいサンドバッグを買ってやってください。毎日修繕して使ってますが、さすがにもう…」
と、ここぞとばかりに無心した。
「そうだな。それくらいなら…」
サンドバッグも、決して安い買い物ではないが、改築に比べればなんとかなる金額である。
「よかったな、豊!」
つぎはぎだらけのサンドバッグは、外面を気にしない小倉でも恥ずかしさを感じていたのだ。
一ヶ月後、真新しいサンドバッグに拳を叩き込む豊に、次戦の相手が告げられた。
「向こうはデビュー戦だ」
小倉は、いつもよりテンションが高かった。B級ライセンスが手に届く距離に近づいているせいだろう。
豊の成長は著しく、デビュー前に懸念していた下半身の細さも、すっかりたくましくなっている。小倉は、腹筋をする豊の腹にメディシンボールを落としながら言った。
「やってやろうぜ、派手によ!4回戦卒業パーティーだ!」
苦痛に顔を歪めながら豊が頷いた。
その試合の一週間前、予期せぬ客が荒川ジムに現れた。FSGの北原である。
「こんな小汚い所に…」
小倉は恐縮した。北原はベンチに腰かけ、豊のトレーニングを見つめた。
「調子は?」
「まずまずですね」
小倉も隣に座って答えた。
「だいぶボクサーらしい顔つきになってきたじゃないか」
北原は、豊から目を離さずに言った。
「何をしに来たんだろうか…?」
小倉は疑問を抱いた。まさか、FSGのトレーナーあろう者が偵察に来たわけでもあるまい。自分の教え子と世界ランカーの対戦も迫っているのだ。
「次の相手の水野、ヤツには注意した方がいいぞ」
「強いんですか?」
小倉が調べたところ、今回がデビュー戦でアマチュアの実績もない選手だった。
「実績がないからと言って、人を殴ったことがないとは限らんさ。まあ、健闘を祈ってるよ」
意味深な笑みを残して北原は帰った。滞在時間はものの五分である。
「わざわざ、それを言うためだけに来たのか…?」
北原の言葉が気になった小倉は、改めて水野の情報を集めた。荒川ジムほどではないが、小さなジムに所属する新人ボクサーにすぎない。しかし、よくよく調べると北原が言っていた意味が理解できた。水野は元ムエタイの選手だった。本場のタイで三年ほどプロとして活動したあと、日本に戻りライセンスを取得した変わり種なのだ。
「なるほどね…」
ムエタイやキックボクシングのパンチは、ボクシングとは別物と言ってもいい。負けはしないだろうが、てこずる可能性は大いにありそうだ。
小倉の頬が緩む。未だ豊は試合で顔を腫らしたことがない。
「6回戦に上がる前に、鼻の奥で血の匂いを感じてもらうか…」
彼は、水野の情報を豊には伝えないことにした。
その日の夜に事件が起こった。
鍵を開ける音で豊は目が覚めた。時計を見ると1時を過ぎたばかりで、梓が帰ってくるには少し早い。玄関に行くと、長髪の男が靴を脱いでいるところだった。
「誰ですか?」
「うん?お前こそ誰だよ?」
男は、豊をにらみ聞き返した。
「いや…」
豊が躊躇していると、男はズカズカと部屋に上がり込んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください…」
豊が男の腕をつかむ。
「梓は?いねーのか?」
「梓の知り合いですか?」
豊は顔をしかめた。合鍵を持っている知人がいるとは聞いていない。男は豊の手を振りほどき、冷蔵庫からビールを出していた。
「梓は仕事か?あいつ、まだ夜職やってるのか?」
豊は返事をせず、追い出すべきか考えていた。梓の知り合いなのだろうが、その態度を見る限りロクな人間とは思えない。男はビールを飲みながら寝室へ移動した。
「子供が寝てるんで、そっちに行かないでもらえますか?」
「子供?」
男は豊の言葉を無視してベッドに座り、親指を咥え眠っていた拳都を無造作に抱き上げた。驚いたのか、拳都が激しく泣き出す。
「おい、触るなよ」
豊は拳都を奪い取り、背中をさすってなだめた。
「は?俺に命令するわけ?」
男が凄みを利かせるが、豊は構わずにあやし続ける。そして、泣き止んだ拳都をベッドに戻し、男に詰め寄った。
「何だよ?」
「あんたか?梓と子供を置いて逃げたって男は?」
身構える男を豊がにらんだ。17歳と言えどプロボクサーである。その目力は素人の比ではなかった。だが、怯みながらも男は虚勢を張った。
「だったら何なんだよ?」
「許せないだけだ」
豊は男を引きずり倒した。しかし、男も負けてはいない。すぐに立ち上がり、
「てめえ、殺すぞ!」
と怒鳴り、豊に殴りかかった。そして、豊が男の拳を難なく受け止めた時、玄関から物音が聞こえた。
梓はバッグを落としてしまうほど、その男の姿に驚いた。
「よお」
豊の推測通り、男は臨月間近の梓を置いて姿を消した竹内だった。
「久しぶりだな」
「今更何しに来たのよ!帰ってよ!」
怒りで梓の声は震えている。竹内は豊を顎で指し、
「こいつは誰だよ?もう新しい男か?さすがは梓だな」
と言って、ニヤリと笑った。
「関係ないでしょ、とっとと消え失せて!顔も見たくないから」
「よく言うぜ。あのガキは誰の子供だよ?俺のだろ?だったら、俺にも育てる権利はあるんだよな?」
「違う!」
黙って聞いていた豊が突然怒鳴った。
「お前なんかに親を名乗る資格などない。今すぐ出て行け。そして二度と顔を見せるな」
普段の温和な彼とは別人のような恐ろしい顔だった。
「てめえには関係ないんだよ!」
竹内は再度殴りかかったが、豊はその手首をつかみ捻り上げた。
「痛たっ!放せよ!」
竹内が悲鳴を上げる。
「ホントにバカな男だね。あんたが殴ろうとした相手、誰だかわかってるの?」
「あ…?」
当然知るはずもない。竹内は苦痛で顔をしかめ続けている。
「どうする?あと数センチで骨が折れると思うけど」
豊が梓に聞いた。
「どうする?」
彼女は、その返事を竹内に求めた。
「わ、わかった… 俺が悪かった…」
豊が手首を放すと、その反動で竹内の身体は床に叩きつけられた。
「プロボクサーに喧嘩売るなんて、たいした度胸してるじゃん。女を騙すだけしか取り柄のない、インチキミュージシャンかと思ってたけどね」
顔を歪ませている竹内に、梓は茶化すように言った。
「プロボクサー…?」
「今まで騙し取られたお金を返せとは言わない。けど、二度と私の前に姿を見せないで」
梓は、玄関にあった竹内の靴を窓から放り投げた。
「次は靴だけじゃ済まないから」
その言葉を背に、竹内は無言で出て行った。
「よく、あんな男を好きになったね」
「子供だったのよ…」
梓は豊に抱きついた。
「ちょっと…」
豊が困惑するが、梓は離れない。
「お願い、少しだけこのままでいて…」
豊は返事をせず、梓の長い髪をそっと撫でた。仕事帰りの彼女は、化粧と汗とアルコールが入り混じった不思議な香りがする。豊の生唾を飲む音が、真夜中の狭いアパートに響いた。




