第一章 11
翌24日、クリスマスイヴ。豊にとって、デビュー以来初めての完全休養日となった。ゆっくり寝ると決めていたのだが、9時には目が覚めてしまった。
梓はまだ眠っている。昨夜の祝勝会で浴びるほど飲んでいたので、しばらくは起きないだろう。
今夜は二人で外食するため、昨日から拳都を舞の家に預けていた。
「夜までヒマだな…」
いつもならトレーニングを始めている時間だが、
「試合の翌日くらい、身体の緊張を解きほぐせ。好きなことでもしてろ」
と、小倉にすべての運動を禁じられていた。しかし、いざ時間が余ってもすることがなかった。拳都がいれば、公園に散歩でも行くのだが。
クリスマスイヴに職探しというのも芸がないので、豊はジムに向かった。練習ではなく遊びに行くつもりだった。
ロードワークの時は気にならないが、歩いていると師走の風は恐ろしく冷たい。プロボクサーの肩書があるとは言え、実質無職であるせいか、労働者の姿が豊の目に眩しく映る。ごみ収集車の作業員、道路工事の警備員、街頭でティッシュを配る女性などが、それぞれの生活のために冬空の下で汗水を流している。彼も二ヶ月前までは新聞販売店で働いていたので、労働の大変さはわかるつもりだ。だから、副業をせずにボクシングに打ち込める、今の環境を考えると申し訳ない気持ちになった。
商店街にある雑貨屋で、豊は荒川の孫へのプレゼントを買った。それを抱えてジムに着いた時、荒川は客と話している最中だった。
「おっ、ちょうどいいところに来た!」
荒川が豊を呼び寄せる。
「こちらは関東スポーツの渋谷さん。豊を取材したいそうだ」
「はじめまして」
渋谷が名刺を差し出した。
「取材ですか…」
豊は、あまりピンとこない。
「来年期待のアスリートの記事なんです」
野球、サッカー、格闘技など、様々なスポーツから、無名の若手選手を取り上げ特集を組むという。
「実は、昨日の試合を観させていただきまして。ボクシング界からは、君と対戦した広瀬君を取り上げる予定だったのですが…」
想定外の惨敗で、FSG側が辞退を申し出たという。
「で、豊に白羽の矢が立ったというわけだ」
荒川が口を挟んだ。
「代役ということで気を悪くしないでください。取材する立場から言わせてもらうと、広瀬君より君の方が記事にしがいがあるんですよ」
「はあ…」
やはり、豊にはピンとこない。
「大手ジムの有望株を1ラウンドKO、無敗のスター候補生誕生。どうです?」
「無敗って、まだ二試合しかしてないんですけど…」
豊は赤面する。おちょくられている気になったのだ。
「いえいえ、米崎君に注目してるのは私だけじゃありません。庄司さんも絶賛してたんですよ」
「庄司さんって、あの庄司さん?」
豊は驚いた。庄司は元世界王者で、現在は新聞や専門誌で辛辣な評論をしているボクシング界の重鎮だった。
「庄司さんはうちの専属なんですが、昨日はタイトルマッチの仕事で会場にいたんですよ」
「それで僕の試合を見てたんですか?」
「そうです。スケールの大きいボクサーだと絶賛していました」
「庄司さんの目に留まるなんて、すごいじゃないか!」
荒川は豊以上に興奮している。逆に豊は冷静になり、
「光栄な話ですが、トレーナーと相談してもよろしいですか?」
と、渋谷に尋ねた。
「何言ってるんだ!取材はトレーナーじゃなくて豊に来てるんだぞ。相談なんて必要ないだろう」
珍しく荒川が声を荒げた。
「いえ、僕の一存では決められません。それに、今日は僕も小倉さんも休みなので」
豊はこだわり通した。荒川は納得がいかない様子だったが、渋谷は理解してくれ、
「わかりました。では、明日の夜にでも改めてお伺いします」
と言って、この日は帰った。
その後しばらく、荒川はふて腐れていたが、孫へのクリスマスプレゼントに機嫌を直し、蕎麦屋で昼食となった。
「ウエートは大丈夫なのか?」
「おかげさまで、今のところは」
「伸一は現役の時、苦労してたからなあ…」
荒川は箸を止め、昔を思い出すように語る。
「あいつは昔から酒好きでね。計量の前日は必ずサウナに入り浸ってたよ」
「小倉さんらしいですね」
豊は笑ったが、彼はまだ成長期の真っ只中である。これ以上背が伸びると、当然減量はきつくなるだろう。
食後、豊は数時間かけてジムの大掃除をした。二年間の感謝をこめた、会長へのささやかなクリスマスプレゼントだった。
夕方、豊がアパートに帰ると、梓はドレッサーに向かって化粧をしていた。
「どこ行ってたの?」
「ジムだよ」
「練習休みなのに?」
「暇だったからさ。他に行くトコもないし」
「それは何?」
梓は、豊が脇に抱える大きな紙袋に気づいた。
「ジャーン!」
得意げな顔をして、豊は袋の中身を取り出した。熊のぬいぐるみである。
「えっ!?それ拳都に?」
「うん」
「えー、男の子にぬいぐるみ?」
梓は笑った。
「変かな?」
「ちょっとね」
「そうなの?」
豊は困惑した。荒川の孫も男の子で、プレゼントも同じ物なのだ。
「明日取り替えてもらうよ。何がいいのかな?」
「笑ってごめん。取り替えなくても大丈夫。拳都喜ぶよ!」
「本当に?」
「ホントだって!」
半信半疑ながら、豊はぬいぐるみをベッドに置いた。はたして、荒川の孫は喜んでくれているだろうか。
陽が落ちて、二人は新宿に出る。派手にめかした梓と上下ウインドブレーカーの豊は、決してお似合いとは言い難く、どことなく浮いた雰囲気だった。
「やっぱり今日はアベックばっかりだね」
そう言って、梓はさりげなく豊と手を繋いだ。
普段は多種多様な人間が行き交うこの街も、今夜はカップルの比率が高い。人の群れを眺めながら、豊は施設にいた頃を思い出していた。クリスマスには特別にケーキが出て、そのケーキがまるで宝物のように思えたものだ。
「ホントに何でもいいの?」
梓が聞いた。
「うん。好き嫌いもないし、食べ物の味がよくわからないんだよね」
育った環境のせいなのか、豊は何を食べても美味しく感じる舌を持っている。
梓が選んだのは中華料理店だった。キャバクラの客に、何度か連れてきてもらった店だった。
「大丈夫かな…?」
高そうな店で豊は不安になる。奢ると言った手前、財布の中身が心配になった。そんな彼の緊張をほぐすように、
「硬くならなくていいよ。そんな高級な店じゃないから」
と言って、梓は笑った。確かに、横の席には学生らしき男女が座っている。
「拳都のプレゼント、ありがとうね」
「いや、よくよく考えてみると、ぬいぐるみは変だよね。俺、プレゼントなんてしたことないから」
「だから、そんなことないって!それよりこれ、私からのクリスマスプレゼント」
そう言って、梓はリボンのついた袋を豊に渡した。
「開けてもいい?」
「うん」
中身はウインドブレーカーだった。
「豊君は着たきり雀だから。気に入るかわからないけど」
「ありがとう。すごく気に入ったよ。でも、梓には何も買ってないんだよね…」
豊はバツの悪そうな顔をした。
「いいの、ご馳走になるんだから」
梓のチョイスによる料理が、テーブルいっぱいに運ばれた。
「こんなご馳走、生まれて初めてだよ」
豊の表情が和んだ。
「施設の食事ってどんなの?」
「そうだなあ、あんまり変わった料理は出なかったかな。土曜の夜はカレーライスで日曜日はオムライスとか、パターンが決まってた」
ただし、いつもお腹は満たされていたという。
「だから、ハングリー精神が足りないのかもしれないね」
「豊君は遊びたいとか思わないの?」
かねてからの疑問だった。トレーニングに明け暮れる毎日で、家にいても拳都の世話以外、ほとんど何もしていないのだ。
「うん。俺には目標があるから。それを達成するまでは、すべての欲を封印するって決めてるんだ」
その言葉を聞いて、梓は自分が恥ずかしくなった。
「私、やり直せるかな…」
「うん?」
「私は豊君みたく真面目じゃないし、夢も目標もない。でも、豊君を見てると、一生懸命って素敵に思えるんだよね」
「梓のおかげだよ」
「えっ?」
「梓と拳都がいるから頑張れてる部分もある。だから二人には感謝してるよ」
「豊君…」
「家族ってこんな感じなのかな?あのアパートに帰ると、すごく安らげるんだよね。今更独りで生きてくなんて、できるかなと思ったりもするよ」
「ず、ずっと一緒にいようよ!」
声を上擦らせながら梓が言った。ずいぶん大胆な台詞だが、料理に夢中になっている豊の心には届かなかったようだ。
「早く食べなよ。冷めちゃうよ」
と言いいながら、豊は麻婆豆腐に舌鼓を打っていた。




