第一章 10
12月23日。この日も梓は、舞を連れて豊の応援に来ていた。
「この前より混んでるね」
舞が会場を見回して言った。メインイベントで、日本バンダム級のタイトルマッチがあるからだろう。
デビュー戦の時ほどではないが、やはり梓は気が気ではなかった。豊の話では、今日の相手は前回よりかなり強いらしい。
「勝たなくてもいいから…」
怪我だけはしないでと、祈る思いで豊の登場を待っていた。
その豊がリングに上がる。客席の最前列に北原の顔があった。
「こっちを見ている…」
目が合って、思わず豊は微笑んでしまった。北原の方は、予期せぬ笑顔に動揺したのか視線を逸らした。
続いて広瀬が入場し、4回戦とは思えないほどの大歓声が起こる。
「凄いですね」
豊は驚いた。彼がリングに立った時は、まばらな拍手しか起こらなかったからだ。
「FSGのエリートだからな。誰一人お前が勝つとは思ってない。あっと言わせてやろう」
そう言って、小倉は豊の口にマウスピースをはめた。
丸刈りの頭に、剃り上げた眉毛の広瀬は、一昔前の不良学生を想像させた。そして、その鋭い眼光は常に豊をとらえている。だが、豊は動じない。この強心臓が彼の強みだ。
開始ゴング直後、豊はいきなり左ストレートを放った。彼にしてみれば、ほんの挨拶程度のつもりだったが、油断していた広瀬の右頬にヒットした。ただし、豊の手応えはそれほどでもなかった。
その後は小倉の思惑に反し、なかなか広瀬は踏み込んでこない。得意の右を撃たせるべく、左サイドのガードを甘くしているのだが、広瀬は誘い水に乗ってこなかった。
「さすがだな… こっちの意図を読んでるな…」
そう小倉は思っていたが、客席から見ている北原は別の見方をしている。
「踏み込まないのではく、踏み込めないのだ…」
ゴング直後に放った豊のストレートに、恐れ慄いてしまったのではないか。
互いに牽制し合う形が一分近く続いた。
「何をビビってんだ!攻めていかんか!」
セコンドの声に反応したのか、広瀬が一歩踏み込んだ。しかし、それでも積極的には攻めてはこない。そこでようやく、小倉も北原同様の考え方を持った。
「なるほど、ビビってるのか…」
小倉はほくそ笑み、
「作戦変更だ!行け!」
と、豊に向かって叫んだ。
序盤から攻めさせて、カウンターでしとめるプランだったが、これだけ警戒されては話にならない。
「はい、行きますよ…」
豊は、まずフットワークで撹乱した。デビュー戦後から磨きをかけてきたスピードボクシングである。ただし、撹乱するだけで攻撃量は多くない。
「そうだ、それでいい… スピードでかき乱し、そして撃たせるんだ…」
その時を小倉、そして豊は待っていた。
1ラウンド終了間際、翻弄され続け焦りが出たのか、ついに広瀬が動いた。右フックを放つが、豊はしっかりガードする。そして、予想通り左アッパーがくる。広瀬の得意なコンビネーションなのだ。そこに豊は右フックを仕掛けた。
「よし!」
小倉が吠えた。広瀬のアッパーは宙を切り、豊の右フックがヒット、そして左ストレートがドンピシャのタイミングで決まった。
レフェリーがカウントを取る間もなく、豊の勝利が確定した。デビュー戦と同じく、右フックと左ストレート二発でのKO勝ちだった。
デビュー戦と違ったのは、客席の反応だった。番狂わせの結果に、場内は騒然としていた。FSGのセコンド陣も呆気にとられている。レフェリーに促され、慌てて失神している広瀬の介抱を始めたほどだ。
リングに上がった小倉は、豊の肩にタオルをかけた。
「出来すぎだな…」
してやったりといった顔の小倉に、豊は肩をすくめた。快勝にも、どこか拍子抜けの気分である。
「とにかく勝ったんだ。声援に応えろ」
そう言われて、豊は左手を高々と挙げた。
試合前、広瀬に向けられていた声援が、今は豊のものとなっている。これこそがボクシングの醍醐味であり、また恐ろしさでもあった。
豊の勝利に、梓と舞は抱き合って喜びを表現していた。
「よかったね、梓!」
「うん!」
「早く控室に行こ!」
二人は、駆けるように控室へ急いだ。
その控室では、荒川が関係者からの握手攻めにあっていた。
「いやいや、まぐれですよ、まぐれ!」
荒川は顔を紅潮させ、握手を求めるすべての人間に頭を下げていた。
「オヤジ、FSGの選手に勝てるなんて思ってもいなかったんだろうな」
小倉は、荒川のうろたえた姿を見て笑っていた。
グローブを外した頃に、豊にも勝利の実感が湧いていた。そして、荒川の嬉しそうな顔を見ながら、喜んでくれる人がいることの幸せを噛み締めていた。
「お見事だったよ」
北原の声だ。小倉は深く頭を下げた。
「北原さんの助けがあったからです。こいつはまだまだ…」
「いや、彼もたいしたものだが、君の腕がだよ」
北原は言葉を遮り、小倉を褒めた。
「金本ほどではないにしろ、広瀬だって将来を嘱望されていたんだ。それを1ラウンドでKOとは… 広瀬は明らかに萎縮していた。試合前は見下していたのに、ゴング直後のストレートで完全にブルってしまった。見事な作戦勝ちだよ」
「北原さん…」
「俺たちのライバル関係は、まだ終わっていないということだな」
北原は初めて笑顔を見せた。そして豊を見た。
「米崎君、君はまだまだ強くなれるぞ。たゆまぬ努力を怠るな」
北原は笑顔ながら、やはり目だけは真剣だった。
「フィニッシュの左ストレートだが、コンマ3秒タイミングが遅かった。あれでは上じゃ通用しない。せいぜい8回戦止まりだろう。もっともっと鍛えてもらうんだな」
「はい、ありがとうございます」
緊張に包まれていた豊も、初めて笑顔を見せた。
北原が去ると、豊は首を傾げた。
「北原さんって、何を考えてるんですかね?」
「うん?」
「敵なのに情報をくれたり、俺を褒めたりけなしたり…」
「わからん。わからんが、豊を意識してるのは間違いないだろうな」
「俺じゃなく、小倉さんを意識してるんじゃないですか?ライバルだって言ってたし」
「ライバル?」
小倉は笑った。
「よしてくれよ。対戦成績は3戦3敗、ライバルなんて恐れ多いよ」
それは彼の本音だった。
「だが、今度こそ本当のライバルになれるのかもしれない」
すでに、小倉の頭の中は次の試合に向けられている。彼は、〝米崎豊〟という列車の運転士の気分だった。その列車が徐々に加速している。今はまだ各駅停車だが、いずれは特急列車のこどく、果てしなく続く線路を駆け抜けてもらいたい。そのためなら、どんな苦労も受け入れよう、そんな心境になっていた。
「おめでとう!」
梓と舞が控室に来た。
「ありがとう」
豊は二人と握手を交わす。梓がニコニコ顔で言う。
「一発も殴られなかったね」
「うん、ラッキーだった」
正直な感想である。作戦の段階では、少なからずダメージを覚悟していたのだ。
「やあ、今日も来てたんだね」
荒川が、梓たちを見て顔をほころばせた。
「今日も祝勝会あるんですか?」
「もちろん、この前ほど盛大じゃないけどね」
「私も行きたい!」
舞が手を挙げた。
「どうぞどうぞ。賑やかな方がいいからね」
若い女に囲まれ、荒川の目尻が下がった。
「会長、俺と豊は残って試合を見ていきますから」
「わかった。この娘たちと先に帰って準備しとくよ」
控室を出ようとする豊を梓が呼び止める。
「カッコよかったよ!」
聞こえなかったふりをしたが、豊の頬は真っ赤に染まっていた。




