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3745チャンピオン  作者: 異邦人マリコ
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第一章 1


 2009年10月。午前5時40分。新宿しんじゅく駅西口コンコース。

 ゆたかは、コインロッカーの前で膝を抱え座っていた。彼は「特別な日」にここに来る。とは言え、まだ17歳の彼に「特別な日」はそれほど多くはない。小学校を卒業した日が最初で、次が中学卒業の日、三度目は今年の4月に、あるテストに合格した時だった。そして半年後の今日、四度目の「特別な日」を迎えた。その「特別な日」に、彼は何故ここへ来るのか。

 豊は、ただ座っていた。まるで眠っているかのように、目を閉じて微動だにしない。そんな彼に気を留める通行人はいなかった。時折、ホームレスでも見るような、哀れみの眼差しを向ける人間がいるが、立ち止まったり話しかける者は皆無だ。コインロッカーの利用客の邪魔になる場所ではないので、駅員に注意されることもなかった。

 一時間ほど経った頃、豊は目を開いた。彼の「特別な日」の儀式はこれで終わる予定だった。しかし、今日は予定通りにはいかなかった。


 あずさは、そこに彼がいることに気づいていなかった。死角になっていたせいか、目が血走りすぎていたせいなのか、とにかく彼女の視界に彼は入らなかった。

 大きめの紙袋を脇に抱え、梓は周囲を何度も見回した。明らかに挙動不審なのだが、彼女も都会の住人の関心事にはならなかった。

 紙袋の中を覗き見て、梓は小さくため息をこぼすと、やはり周囲の様子を気にしながら、一番(はし)のロッカーをゆっくりと開け、そこで三度(みたび)辺りを見回した。そして素早く紙袋を入れ、音を立てぬように扉を閉じた時だった。

「やめとけよ」

 突然の声に、梓は呼吸を失った。

「やめとけよ」

 彼は同じ言葉を繰り返した。穏やかな口調だったが、その声は彼女の胸に鋭く突き刺さった。足をがくがくと震わせ、崩れるようにひざまずく。

「赤ちゃんが入ってるんだろ?」

 梓が声の方を見ると、グレーのウインドブレーカー上下の男が座っていた。年齢は同じくらいだろうか。男は立ち上がり、ロッカーから紙袋を取り出すと、強引に彼女の腕へ戻した。

「どうしても捨てたいなら、どこか他でやってくれ。ここ以外の場所で」

 有無を言わせぬ口調だが、相変わらず彼の声は穏やかだった。

「わ、私…」

 初めて梓が口を開く。それと同時に、紙袋の中から赤ん坊の泣き声がした。その弱々しい泣き声に触発されたのか、彼女までが泣き始めた。

「お、おい…」

 今度は、彼が周囲を気にしなければならない状況に陥った。出勤ラッシュの時間が近づき、行き交う人も多くなっている。彼が右往左往していると、人のさそうな年配の婦人に声をかけられた。

「どうされました?」

「あ、いえ…」

 彼は狼狽した。老婦人は泣きじゃくる梓を覗き込んだ。

「大丈夫です。ほら、もう泣かないで… 帰るよ」

 彼は梓を立たせ、抱き抱えるようにその場を離れた。


 人目を避けるため、豊は彼女を連れて駅ナカにあるスターバックスに入った。飲み物を注文して席に着く頃には、彼女も赤ん坊も泣き止んでいた。

「おっぱいあげてもいいかな?」

 彼女が申し訳なさそうに聞いた。

「えっ?」

「お腹すかしてると思うの…」

 豊の返事を待たず、彼女はコートを脱ぎトレーナーをまくり上げた。

「ちょ、ちょっと…」

 豊は赤面し目を逸らした。女性の下着を見るのは初めてだった。彼女は躊躇なく、ブラジャーの肩紐を片方だけ器用に外した。目のやり場に困った豊は、慌ててコーヒーを手に取り、窓の外を見ながら心の中で深呼吸をした。

「ごめんね…」

 誰に向けての言葉なのか、赤ん坊に母乳を与える彼女が呟いた。豊は、それとなく彼女の顔を見た。さっきまでとは別人のように、優しげな表情をしている。

「悪魔がいてたみたい…」

 彼女は言葉を続けた。豊は、再び窓の外に視線を送り黙って聞いていた。駅前は、いつの間にか人の波であふれている。もうそんな時間なのだ。

「あなたがいなければ、ホントに悪魔になってたね… ありがとう」

 授乳を終えた彼女は、ブラジャーをつけ直し礼を言った。

「生まれてからどれくらい?」

「今日で二週間かな」

「二週間か…」

「うん、二週間迷い続けてたってこと。ずっと悪魔が囁いてた…」

 彼女は自虐的な笑みを浮かべた。

「そんなに悪い人には見えないよ」

 豊がそう言うと、彼女は照れ臭そうに頷いた。

 落ち着いた様子を見て、安心した豊は、

「何か食べる?」

 と、彼女に尋ねた。

「ありがとう、ここ何日かご飯が喉を通らなくて… 私おごっちゃうから一緒に食べよ?」

 そう答えると、彼女は初めて笑顔を見せた。

「俺は大丈夫」

「お腹すいてないの?」

「減量中なんだ」

「減量?そんなに痩せてるのに?」

 彼女が驚くのも無理はない。豊は痩せていた。むしろ痩せすぎと言ってもいいほどなのだ。

「十日後に試合があるんだ」

「試合?」

「そう、これのね」

 豊は、拳を彼女に向けた。

「ボクシング?」

「うん」

「へえ、あなたボクサーなの?」

「そう、デビュー戦なんだ。本当はもっと早くデビューしたかったんだけど、プロテストに合格したあとに怪我をしちゃってね」

「すごい!プロのボクサーなんだ!」

「まあ、一応…」

 豊は、照れ臭そうに頭をかいた。そんな彼に彼女はより興味を持った。

「ボクシングってよく知らないけど、やっぱりチャンピオンとか目指してるわけ?」

 つい一時間前に、我が子を捨てようとしていたとは思えないほど、彼女は好奇心で目を輝かせている。

「もちろん、やる以上は世界チャンピオンに挑戦したい」

 根がシャイなのだろう。そう言ったあと、はにかみながら、また豊は頭をかいた。そんな彼に、彼女は少しずつ好意を抱いていた。


「その子の名前は?」

 彼女の胸で眠る赤ん坊を見て、豊が尋ねた。

「まだつけてない…」

「駄目だよ、早くつけてあげないと」

「ごめん、いい名前考える。君の名前は?」

米崎豊よねざきゆたか

「何歳?」

「17」

「なんだ、私より年下じゃん。同じくらいかと思ってた」

「君はいくつ?」

「19歳。名前は角田梓つのだあずさ。豊君はどこに住んでるの?東京の人?」

「昨日まで、荻窪おぎくぼの新聞販売店に住み込みで働いてた」

「でも出身は地方でしょ?私も田舎から出てきてるから、そういうのわかるんだよね」

 梓は自信ありげだが、豊は首を横に振った。

「生まれは、さっきのコインロッカー。だから新宿生まれってことになるのかな」

「さっきのって…?」

 豊はサラリと言ったが、梓には驚きの一言である。

「あのコインロッカーだよ。俺はあそこに捨てられてたんだ」

「冗談でしょ…?」

「冗談なんかじゃない。だから、あそこにいたんだよ」

「そんな…」

 梓は言葉を失った。

「肉親がいないから、特別な日はあのコインロッカーに行くんだ。今日はデビュー戦の報告。馬鹿だよね、自分でも思うけど」

「そんなことないけど…」

 と答えたものの、彼女はまだショックから立ち直れない。

「偉そうなこと言うつもりはないけど、親のいない子供の気持ちは誰よりもわかるんだ。だから、その子にそんな辛い思いをさせないでほしい」

 豊がそう言うと、梓はうつむいてしまった。

「でも、君なら大丈夫。そんなに悪い人じゃないってわかったしね」

 と言って、豊は赤ん坊の頭を撫でた。


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