泉見宮さんちは壊されたい
泉見宮千鶴は笑っていた。
目の前には美香。美香は千鶴をにらみつけて言った。
「いつも仲良くしてやってる礼に、わかってるでしょ。」
洋上美香は千鶴の新品のきれいなローファーを踏みにじる。あっという間に泥と傷がつく。
「あはは」
千鶴は財布を出した。
「6千円でいい?」
「待て!」
横の男、泉見宮佐利が言った。
「あんたは黙ってなさい」
美香はそいつに近づく。佐利は顔をすこし背けた。
「……すまん、お前も大変なんだよな。千鶴、お前のせいだぞ」
「わかってるわよ、兄さん」
あははは、と千鶴は微笑みかえした。
「ああ、つまらないな。」
千鶴は梅雨明けとはいえ濁った曇り空の下、頭上に電線の張り巡らされた道を歩いた。
「なんかこう、どかーんと、空から果物とかいっぱい落ちてきたりとか、すればいいのに」
「こう?」
そのとき、千鶴の頭上からカレーが降り注いだ。
千鶴の真横の二階の窓から、美香が笑っていた。
「佐利が作ったカレー、まずかったからあげるわ。はやく上がりなさいよ」
「おい、俺の家だぞ」
「そうだっけ?」
美香は窓枠近くの家具に腰をおろし、窓から足を出して組んでいた。青ざめた佐利の持つ鍋からカレーをお玉ですくい、笑いながら道路にぶちまけている。
千鶴はうっかり吹き出しかけたが、ばれないようすぐさまうつむき、逃げるように通りすぎた。
「そ、そうじゃない……っくく」
美香はそれを、透明なビー玉のように冷えて澄んだ目で見下ろしながら言った。
「あいつ、あんなにうつむいて、自殺でもするのかしら。かわいそうね」
「お前って優しいな、美香」
鍋を持ったまま、佐利。
「うん……見に行ってやりましょ、一つ年上だから、心配よ」
美香は足を戻して振り返りながら言った。
小さな河川敷。草と水なら草のほうが多めのそこに千鶴は座った。
「うわ、虫……場所変えようかな」
「虫食べたいって言ったわね」
美香は大きな虫を片手に言った。佐利が息を切らせつつ漕いできた自転車のうしろで。
「はあ、やりすぎ、美香……」
「おい、これでも美香は心配してくれてたんだぞ」
美香は大きな黒い虫を千鶴に突きつけて怒鳴った。
「そうよ、あんたがいないと、いじめる相手がいなくてつまんないじゃない!生きてわたしにずっといじめられてれば、あんたならせいぜい本望でしょ!」
「うわ」
千鶴は逃げ出した。美香の笑い声。
佐利はそれを見てため息ついた。
「お前ら、仲良くしろよ」
「佐利、千鶴がまた私を避けるわ。かなしい」
「そうだな……仲直りしないとな。つかまれ、千鶴を追うぞ」
千鶴がすこし先を走る中、自転車はぐいぐい迫った。
「さあさあさあ、隣近所はみんなわたしの理解者だし、あんたに逃げ場ないわよ。こら、逃げるな!話なら、わたしが聞いてあげる。」
「こんな優しい美香に、いつのまにそんなに何したんだよ、千鶴!お前が数年ぶりにばあちゃん家から帰ってきたとたん、美香の様子がおかしいんだ。こうなったのはお前のせいだろ!?」
「なんでそうなるのよ!それまで連絡も取ってないし知らないから!美香ちゃんが死んだ母さんの代わりに……って聞いてたのに、なんか兄さんがこき使われてて、びっくりしたんだけど?」
河川敷を走り抜ける3人はそのまま叫んだ。
叫ぶ風のような3人に、驚いたような、咎めるような目で中年女性が振り返りざまににらんだ。
「わ、あのおばさんににらまれちゃった、佐利、わたしこわい……」
「美香、大丈夫か?」
自転車が止まる。美香は泣いているように見える。
千鶴はそのすきに走って逃げた。
夕方、千鶴は家で夕食を作っていた。
玄関でばたばたと物音。
「美香、ちょっと待て!さっきの男は誰だよ、こら、入って話してくれ!またこんなことがあるなんて、もう……」
「待って!私にも事情が……あ、拓志くんだ、出なきゃ」
家の前に大きな車が止まる音。千鶴は吹き出した。
「兄さん、いいからカレー食べよ」
家の中はすっかりピンク色だった。
泉見宮兄妹の隣の幼馴染、美香の好きなもので部屋は散らかり、埋め尽くされている。
千鶴はそれらを棚へ並べ直し、片付けながら微笑んでいた。それを見て、佐利は聞いた。
「こんなどぎついピンクが好きなのか?」
「……ううん、目が痛いよ」
「そっか」
佐利は中学まで部活では野球部でがんばっていたが、美香が家に入り浸るようになってから部活を辞め、高校からはバイト一筋になっていた。別居のため実家に帰った父について行っていた千鶴は、先月母が死んだと聞いて、ようやく家に戻り、家の状況を知ったのだった。となりには美香の実家である洋上家があったが、美香を厄介払い出来たと言わんばかりに一切触れては来なかった。
「母さんが入院したころ、美香が家事はなんでも任せろ、って上がりこんできたはいいけど、それからいつの間にか、こんなんなっちゃったんだよなあ」
「へんなの……」
千鶴と佐利は黙々とカレーを食べながらぽつりぽつりと話していた。
「美香ちゃん、今夜はカレー食べるかな」
「たぶん……ラップしといてくれ」
美香は帰ってこなかった。
代わりに佐利に電話があった。
「あ、わたしの友達の男の子たちが泊まることになったから、ちょっと部屋空けて?あと、なにか困ってたら、買い出しとか行ってあげてくれると助かるな、佐利ならやってくれるでしょ?優しいもんね、信じてるから、じゃ」
「しょうがないな……」
佐利は電話を切ると、千鶴に言った。
「千鶴、友達の家とか、泊まりに行ってくれるか?ちょっと家が空かなくなるから」
「え……」
千鶴は友達といっても、転校して一ヶ月で泊めてくれる仲までは見つけてはいなかった。
千鶴は財布を開き、美香から死守している父からのお小遣いを出した。千鶴は笑っていた。
「あはは、……馬鹿みたい」
千鶴は涙をぬぐった。
次の日。
ビジネスホテルから帰った千鶴が見たのは、全焼した自宅だった。
その前で、佐利が泣きながらひとりの男にしがみついている。
「待てって!美香はどこ行った?お前らの名前くらい言えよ!」
「離せっつってんだろ!早く行かなきゃ置いてかれるだろ?」
佐利によって伸びに伸びたジャージを心配しながら、男はさけんだ。
しばらくの言い合い。その様子からして、家は美香の友達の男子たちがだれか手違いをおこし、寝タバコあたりによって、家に引火させてしまったらしい。築25年の木造住宅はあっけなく燃えたようだ。佐利がつかんでいるジャージの男以外は全員逃げたらしい。
「美香ならたぶん、二丁目の拓志くんちだ。みんなで遊んでたら、俺たちは追い出されて寝るとこなくなって、お前んち借りたけど……まあ、たしかに、すまんかったな、こんなんなっちまって……でもな、もう行かないと……もう離せ!」
「うわあああ!待てー!拓志くんってどこの誰だよー!」
ジャージを脱皮するように脱ぎ捨てて、男は逃げ去る。佐利はそれを泣きながら追った。
「兄さん……」
千鶴は横目でそれを見て、ため息ついた。
美香はそれから姿を見せなくなった。
学校にも来なくなり、泉見宮家への連絡は絶えた。
「美香ちゃん……」
千鶴は祖母宅へ戻り、ある日庭でふとため息をついてひとりごちた。
「でも、ありがとう。」
澄んだ秋空の下、千鶴は山並みを見つめた。
「あの家はいつも狂った人たちばかりが元気になって、まともな人は病む。母さんも浮気がばれて別居されてから、おとなしくしてたら入院しちゃったし」
「あんな家があったから、か……」
うしろの和室で、投げ出された毛布のようにくったりと机に伏した佐利がつぶやいた。
「わたしたちはまた、頑張ればいいんだよ。」
と、千鶴。
佐利は机に顔を伏せた。
さびしい秋風が、すすけてかわいた地面を吹き渡った。冷たい秋空へつながるように、とおくまで枯れ草がなびく。
千鶴は無表情で、まっすぐ空を見上げていた。