白い部屋
「ねえ、夜どうしようか?」
ふと片耳を打った少し高く通る声に、里菜は我知らず肩をびくつかせて、瞳をしばたたきながらそっと隣をむくと、一緒に部屋の白壁にもたれながら、片足を前に投げ出してもう一つの膝に片肘をつき、ひとり微かな寝息を立てていた彼の目が覚めたばかりとは見えないほど静かに冴えて、座って縮まってもなお残る身長差のため幾分自分を見下ろしているそのつり上がった瞳が、いつもより柔らかい。
「夜」
里菜はじっとその目を見上げるうちかかえた足もとへ視線を移しながら、訳もなくつぶやいてみて、その響きに俄に魅せられるまま、意味もなく繰り返しうなずいて口ずさみ、
「夜。夜」
「そうもう夜だよ。まだ夕方だけれど、でもじきだよ、ご飯の時間。どこか出ようか?」
と、普段から里菜の物言いには慣れているとみえて、その言葉を引き取り上手く語を継いでくれる彼へ再び瞳をかえして、
「きめてください。ついていきます」
緩やかで軽やかな声音が静かな二人の部屋にただようと、
「じゃあ、そうだね、まだ明るいし日も暮れてないし、その頃までにきめる。いい?」
「うん、いいよ。ねえ」
「ん」
「わたし髪切ってもいいかな?」
「それってどのくらい」
恋人同士の距離から覗かないと知られないほどわずかに顰められた彼の眉に、里菜はひりりとするまもなく、すぐと平常に復して眉間は和らぎ、それが里菜のお気に入りでもある小さなえくぼがひょっこり、こちらがわの口尻の先に浮かんだのを認めて、ほっと安堵の吐息をつきながら、
「これくらい」
と、里菜は胸を流れるなめらかな髪の毛の遥か上、細いあごのあたりで、手首を素早く動かし、いたずらっ子の面持ちを抑えきれぬままに首切りの真似事をしてみると、彼はたちまち決然とした語調になり、
「いけないよ」
厳しい顔つきできっぱり言い切るのに、こちらも負けじ半分ふざけ半分、
「いいでしょ、どうして」きっと仰ぐと、
「どうしてって」
「なんでよッ」
言って欲しい言葉が、ぷくぷく胸に膨らんで、ことばをひと刺し、するりと突き入れてくれたらポンと弾ける手前まで、早くも溢れた里菜の心を、彼はそれと知ってじらすかのごとく、
「いけないものはいけないんだよ」と、今度は優しくたしなめるように言う。
教えてよ。想いを込めてきっと口をとがらせると、こちらはもうにっこり、
「だってこれ、おれ好きだから」
平然と言ってくれながら、長い指が里菜の髪をやわらかにすいて毛先にながれたと思うと、みたび繰り返し、ついで頭をさすってくれたその手が、心地よくしみるまま里菜はこくりと、かかえた膝にあごをのせてふわり、何もかもぼやけた。
読んでいただきありがとうございました。