海月選集1
『冴え返る』
すきとおるそらの端っこを
ふらいぱんでたたいて割って
そしたらつくりかけのめだまやきが落っこちたけど
どうせへたなので気にしないで
きらきら降ってきたかけらのなかで
慎重に さんかくの
それは三辺が鋭角にリンとひかる
とびきりのさんかくでなければなりません
ひろって だいじに
あのひとの背なかに
コートのえりに すべらせる
つるつるしたアクアスキュータムに
ばかげたらくがきのような
あかいかたちがにじめばいいのに
そうじゃなければ
なんどもあみなおしてほうりだしたモヘヤのベストみたいに
いちにちじゅうちくちく刺して
こんなにそばにいるのに
けさ
気泡のはいったできそこないのビー玉みたような目で
あたしをみたから
『夜の片隅』
夜の片隅で
もがいている
苦しくて
眠れない
起き上がり
窓辺に立てば
滑らかなゼリーの
静寂が
町を覆っている
差し入れられた
スプーンのよう
街灯が立っている
何も動いていない
喧しい昼間の鳥も
たっぷりと空気を貯えた羽に
嘴を埋めているにちがいない
私はひとり
答えのない世界に向かって
咳をする
咳をする
思う存分
からだの内と外が
入れかわるくらい
うっ血したのどを食い破り
太った幼虫が這い出て
艶やかなサナギになって
ビロードの羽を広げて
やさしい風を残して
やがて
るり色に病んだ
朝の月が上るまで
『あおいそら』
せかいじゅうの
だあれのこころのうえにも
あたしがうつっていない
すきまのじかん
ほほえんで
うでをのばして
つるんとでていくの
すいそのようにかるい
かぜがしずかに
はいをみたしていく
あたしははんぶん
ほどけたひるのつき
しかいのはじで
ゆらぐひかりのつぶ
にじいろのじぇーりーびーん
それはねむりうおのうろこ
だれでもない
なんでもない
たましいが
すきとおる
あおいそら
『不安』
不安は鉱物の結晶のように
次々に増殖していった
ピシピシと甲高い音を立て
せわしない日常の奥で
こわばった微笑の端で
『こなゆき』
水素の星から来た人に
地球の大気は
水のように
重くまといついた
水底を勢いよく這い回る
鈍色の甲殻類
躍るように行く
色とりどりの魚の群れ
とがった口から
吐き出される小さなあぶくは
何かの呪詛のよう
ほっそりと伸びた触手が
ひらひらと揺れるのも
異様に怪しげに見え
水素の星から来た人は
怯え 立ちすくむばかり
半透明の皮膜が覆う目で
煙のようにくずれる指で
世界に触れることなどできはしない
まして
誰かに顧みられることなど
呆然と膝を折る人に
暗い水面の高みから
たえまなく降りそそぐ
降りそそぐ
銀の砂粒
『a prison』
誰にも呼んでもらえない名前は
いつの間にか意味を失い
笑いかける人もない今日は
いつまでも続く昨日と同じ
目を閉じればすぐに消え失せ
耳を塞げば高く隔たる
あなたのいない世界は
一葉のまぼろしのよう
思いのままにできるのに
首輪はとうに外れたのに
何もかもがあやふやで
自分すら溶けかかって
ほんとうなのは
ただ飢えと痛みだけの気がして
それだけの気がして
廃屋の小さな庭で
犬がぐるぐる回っていた
自分の尻尾を噛んだまま
血のしずくを撒き散らし
低く唸りながら
ああ自由なたましいの
そのどうしようもない円環
『星空はクッキーのにおい』
帰らない人のいる家は
あちこちが余っているので
時は
見えない渦を巻き
細く 細く
流れるのです
床に落ちているのは
幸せだった
たわいない日常の破片
拾おうとすれば
きっと深く傷つけるから
近づくことはしないで
そうだ
お菓子を作りましょう
バニラよりシナモン
星の形に抜いて
銀のアラザンたっぷり散らして
少し硬めに焼いたのが好き
窓を開ければ
凍てつく夜いっぱいに
星々がさんざめき
終わりのない物語を始めようとするのだけれど
心が揺れたら
思いがこぼれてしまうから
そっと耳を塞いで
ただじっと
息を凝らし
そして
ああ そろそろ
星空はクッキーのにおい
『過去について』
あんなに美しく色を塗り
月夜の川に流したのに
記憶よ
おまえは
いつの間にか帰ってきて
そこらの物陰で背を丸め
毛むくじゃらの尾をのぞかせて
いぢわるなこどものように
くすくすと笑いながら
私が気づくのを待っている
うかつな連想のかけらでもあれば
爪をかけ
たぐりよせ
ぢりぢりと恐ろしげな音を立てる
鉄火のくつで
桃色のかさぶたを
間違いなく踏み破ろうと
そのとき
おまえはうれしそうに
声を張り上げ叫ぶだろう
はずかしい はずかしい はずかしい
はずかしい私の名を
『白い冬の月』
見つめれば見つめるほど、
ゆるんでいく視界。
すべてのものは
はりつめた輪郭を失い、
そのままでいいんだというように
私を抱いて揺れている。
世界が盛り上がり、
私が沈むかのよう。
手足がじわりと裂けて、
広く広く漂い行くかのよう。
笑い声は回転し、
いくつもの玉になってふるえる。
私は小さな地球をくわえ
そして、のみ込む。
のどを鳴らして
ねえ
あのときの私は嘘よ
あなたを傷つけた
あれは影よ
あなたを見つめた
あれは月よ
本当の私はここよ
宙の深く
光を失うそのきわの
濃い青色に いま
羽を広げている




