孤独な蝶は、灯りと共に。
私は今、必死に逃げている。
屋敷の裏側がどんな感じなのか知らない。だからこそ、表から逃げるしかなかった。他にもたくさん選択肢があったのだろうが、この頭じゃ考えつかない。
結局私は、表にいた兵士が目を逸らした隙に屋敷の敷地外へ行くことに成功した。
まあ、考えつきはしたがこうも大勢の兵に追いかけられるとは。
私は大して速くもない足で、それでも全速力で走っていた。
追いかけている兵士は剣を持っていたりする。捕まったら最悪殺されるかもしれない。
しかし、私は燈火さんに会って手紙の真・相・を聞くまで死ねないと、殺されないように逃げていた。
もうすぐで、港につく。
屋敷、というかリュカ様のいる城のすぐそばの街は相当賑わっていた。ヨーロッパ風の街並みでおしゃれで。桜華国よりもこっちの方が異世界感があった。
だが、今はそんな街並みを楽しんでいる暇なんてない。街行く人も必死に逃げる着物を着た女と、それを追いかける大勢の兵士に怯え、道の片隅に寄っていた。
海が近づいてきた。私は限界を迎えそうな自分の体を鼓舞しながら走った。
そんな中、街の女性が港に美しい男性がいると騒いでいる。もしかしたら燈火さんかもしれない。
そう希望を持って、とにかく走った。リュカ様に追いつかれる前に。早く燈火さんの元へ。それだけを考えて。
しかし、それがいけなかった。それしか考えていなかった私は視野が狭くなっていたのだ。だから路地裏に人がいることすら、頭になかった。
私は路地裏にいた誰かに手を引かれ、薄暗くて狭い道へ来てしまった。
私は歯を食いしばりながら、私の手を掴んでいる誰かの手を反対の手で掴み、力を込めて引き剥がそうとした。
「あはは。痛いですね」
しかし、私の頭上から聞こえてきたのは意外な人の声だった。
「と、燈火さん……!」
「随分と楽しそうな鬼ごっこをしてましたね。お疲れ様です」
そう微笑む燈火さん。私は掴んでいた燈火さんの手を離した。その手からは爪が食い込んでいたのか、血が少し流れている。
「手、ごめんなさい……」
燈火さんは私の言葉を聞いて、自分の手を見る。少し驚いたような顔をしたが、ゆっくりと首を横に振った。
「いえ、このくらい大丈夫ですよ。それより、すごいことになってますが、何したんですか?」
「逃げただけです」
「裏から逃げてこんな数の兵が追いかけるのですか」
「……表から出ました」
燈火さんは微笑んでいたが、私のその言葉に目を丸くさせた後、何が面白いのかお腹を抱えて笑いだした。
多分、路地裏の外側にいる人に気づかれないように、と声を殺して笑っていた。
「馬鹿ですねぇ。表から出るなんて、子供でもしない……ふふっ」
「笑いすぎじゃないですか?」
「すみません、あまりにも面白くて。お互いに色々と聞きたいことはあるでしょうが、とりあえずは桜華国へ帰りましょう。あまり長居したくありませんしね」
燈火さんは困ったように眉を下げながら笑うと、私の手を握って路地裏から出て、大通りを全速力で走った。
あまりにも速くて、私は追いつくだけで精一杯だ。手を握られていなければ確実に置いていかれた。
普段引きこもりのような生活をしてるのに、どうしてこんな速いのか。
「……おや。もうお出ましですか」
燈火さんが振り返らずにそう呟いたので、私は恐る恐る後ろを見てみた。
「ひぃっ」
私たちの後ろから追いかけていたのは、白馬に乗ったリュカ様だった。
白髪に白目に白馬。白すぎでは。
私は心の中でツッコミを入れたが、そんなことを気にしてる暇ではない。燈火さんが速すぎて、私の足がもげそうだ。
というか、足で逃げてるのに対して馬で追いかけるのはいくら何でも反則ではないか。絶対追いつかれる。
そんなことを考えていたら、燈火さんが急に足を止めた。私は止まりきれず、燈火さんの体にぶつかる。が、燈火さんはその体で私の衝突を受け止めてくれた。
「お久しぶりですね。リュカ王子」
「うん。久しぶりだねぇ。そんなことより、星蘭をこっちに返してもらいたいんだけどぉ」
「星蘭は、あなたのものではないのですが」
「あっそ。でも今はこっちが預かってあげてんだしさぁ。それに星蘭が、あのちっせぇ国を出たいって言ったんだよ。だからぁ、お前に何か言う資格はないってわけ」
「ああ、そうですか。そんなこと知りませんけど」
「そう強がってさぁ。恨むなら突き放した自分を恨めばぁ?」
そんな二人の言い争いを、私は燈火さんの腕の中で聞いている。
そろそろ苦しくなってきた。
「てか言ったよねぇ。屋敷から出るなって。なんで出たの?」
リュカ様の方を見ていなくても分かる。あの鋭い目線が私に向けられている。
それが分かっているだけで、私は全身が凍えそうな気持ちになった。冷や汗が背を伝う。
何か言わなきゃ。
そう思っても震えて言葉が出ない口。
それを察したのか、燈火さんは私の頭に手を回して自分の胸へと寄せる。その気遣いが嬉しくて、私は緊張で高鳴る鼓動を落ち着かせた。
「まあ、いいけどさ。想定内だし」
スタッ、と誰かが地に下りた音がする。リュカ様が馬から下りたのだろうか。
と思った瞬間、リュカ様が私たちの隣に来た。あまりにも速すぎて私は固唾を呑んだ。
「なぁ、お前も分かってんでしょ?この子がアレだって」
「……さあ」
「っはは。しらばっくれても無駄なのにねぇ」
燈火さんにそんなことを言うと、リュカ様は後ずさりして行く。一体、何がしたかったのだろうか。
「君たちの役目は実に厄介。壊して、創って、守って。その繰り返し。可哀想だねぇ。誰も、誰かを救うことができない」
「……」
リュカ様の言葉に対して、燈火さんは私の頭に添えてる手にぐっと力を込める。その手からは、強い怒りを感じた。
ますます苦しい。息が、しにくいから……。
「星蘭、そろそろ帰りましょう。こんな人間の話なんて、聞くだけ無駄です」
燈火さんは私を解放すると、手だけ握って踵を返した。
リュカ様は追いかけることなく、ただ私たちを睨むように見つめていた。
燈火さんは皇国に来た時に乗った、皇国の船よりも小さな木造の船に乗り込んだ。私もその船に乗ると、船は勢いよく進み始めた。
誰が運転してくれているのか、辺りをキョロキョロしていると、手を振っている一人の女性を見つけた。
鈴さんだった。鈴さん、船を操縦できるんだ……。
私は鈴さんに小さく手を振り返すと、手招きをする燈火さんの隣に座った。隣しか座れないくらい、狭いから。
「全く。どっちが厄介なんだか」
燈火さんは吐き捨てるように、そう呟く。
「怖かったでしょう?助けるのが遅くなって申し訳ありません」
「いや、燈火さんが謝ることじゃないですよ。私が、勝手に家を飛び出して、国を出ただけなので」
私はそうやって燈火さんに向けて頭を下げる。しかし、頭上から聞こえたのは燈火さんの笑い声だった。
「星蘭、やっと家って言ってくれましたね」
私はその燈火さんの言葉に目を丸くさせる。
そういえば、ずっとあそこのことを“研究所”と呼んでいた。家なんて、言ったこともなかったのに。なぜ急に家と呼んでしまったのだろう。
私は、恥ずかしくなって赤くなった顔を見せることをできるわけもなく、顔を上げられずにいた。
「出て行かれたことは結構悲しかったですけど、そう言ってくれてとても嬉しいです。あの場所が、星蘭の家になれて良かった」
燈火さんは嬉しそうにそう言う。私はいたたまれなくなって別の話題を探す。
「……そういえば、手紙に書いてあったこと。本当なんですか?」
私がそう尋ねると、燈火さんは笑うのをやめた。私は少し身構えてしまう。
「ええ。事実です。信じられないかもしれませんが。まあ、私にもそんな記憶ないんですけどね。でも、確かに事実なんですよ」
私は変に高鳴る心臓を押さえる。私の“魂”が、燈火さんに何かを訴えたいのだろうか。
「確かに、今でも信じられません。私が、私の魂が何度もこの世界に訪れては世界を壊していた“神様”だなんて。そして、あなたも、私と“同じ”で」
燈火さんが私の言葉を聞いて少し悲しそうに微笑んで、私の心は何かに締めつけられたように痛み出した。
私たちは、決して幸せになることができない存在──。




