間違えてヴァルハラ
僕に総次郎という名前をつけたのは新撰組ファンだった母で、たぶん沖田という名字の男と結婚して舞い上がっていたのだろう。
「総司さまそのまんまの名前じゃないからイジられたりしないわよ、大丈夫。幼名だから」
……と母は言っていたが、この名前は後にそれ以上の悲運を呼び込むことになる。
といっても、僕が二十五歳でばったり死んだのは名前のせいではない。ただの過労死だ。さらに言うなら、ろくな研修もしていない新入社員に営業回りをほとんど背負わせるようなブラック企業に入ってしまったことも名前のせいではない。僕の選択ミスだ。
死ぬ前兆はいくつもあった。
入社二年目の夏くらいから味覚障害を発症していたし、不眠症も続いていた。
それでも辞められなかった。クライアントとエンジニアの板挟みになって、自分がいま抜けたらみんな困るんだろうな……と思いながらずるずる働き続けた。
入社三年目の秋に、僕はあっさり死んだ。
朝、気づくと、アパートの廊下に仰向けに倒れた自分を、天井から見下ろしていた。
幽体離脱とかそういうなまやさしいものじゃないことは見てすぐにわかった。死んでる。顔は土気色だし、がりがりに痩せているし、手足は変な方向に曲がっているし。
三日くらい寝てなかったし、最後に食事をしたのがいつかもよく憶えてなかったし、そりゃまあこうなるよな。
死んでる。
ろくでもない人生だった……。
こんな終わり方をするなら、とっとと辞表を出して貯金全部下ろして遊び歩けばよかった。後悔しかない。彼女も一度もできたことがないまま、二十五歳で孤独死。泣けてきたけれど泣くための肉体がなかった。
しかし、死んだら霊魂が肉体から離れる、ってほんとうだったんだな。
これから僕、どうなるんだろう。天国か地獄? 天国に入れるような善行を積んだ憶えはないけれど、これで地獄行きってのはあんまりだな――なんてことを考えていると目の前がいきなり真っ白になった。
「お迎えにあがりました、沖田ソウジさま!」
涼やかな声が響いた。
あたりは光に包まれ、僕の住んでいた部屋も僕の死体も消え失せ、目の前に人影が立っていた。光輝をまとった金色の髪の、息を呑むほど美しい女性だった。
よかった、天使だ。行き先は天国。安心した僕は彼女をしげしげと観察する。
あれ?
天使……とちょっとちがう気がする。
その豊満なプロポーションを強調するかのような露出度の高い甲冑をつけているし、背中に翼がない。冑の左右に大げさな羽根飾りはあるけど。
「わたし、ヴァルキュリャのブリュンヒルデと申します。志半ばにして斃れたあなた様の魂を、これよりヴァルハラにお連れします。我らが主オーディンの戦士として、励み、鍛え、燃え尽きるまで戦ってくださることを願います!」
「……え、えっ?」
ブリュンヒルデと名乗ったその女性は、僕のそばに寄ってくると胴に腕を回して肩を貸すような形で担ぎ上げた。ものすごくいいにおいがした。女の子にこんなにも密着するなんて生涯ではじめてのことだった。
いや、僕の生涯もう終わってるんだった……。
* * *
ブリュンヒルデに抱えられ、連れてこられたのは古風な城の中の大広間だった。
光る靄の中を猛スピードでずっと飛び続けていたせいで頭がくらくらした。色々と訊きたいことがあったのにそんな余裕はまったくなかった。
床に下ろされ、疲労でへたりこんだ僕は、まわりを見回す。
ここが天国……?
サッカー場くらいある馬鹿でかい広間だ。壁際には長楯と矛を備えた全身鎧がびっしりと並んでいて、物々しい。天井も高く、いくつも吊り下げられた大型の燭台は鋼鉄製の無骨なやつで、優雅さのかけらもない。
なんかイメージとちがう。
「こちらがヴァルハラの訓練場です」
ブリュンヒルデは両腕を広げて誇らしげに言う。
「戦士のみなさまには毎日こちらで戦闘訓練をしていただきます。みなさまの肉体はすでに半神ですから怪我をしても死んでしまっても大丈夫、簡単に治せます! 心ゆくまで真剣で斬り合ってください!」
「……ちょ、ちょ、ちょっと待って」
ようやく口を挟めるタイミングをつかんだ僕は言った。
「な、なに? 戦闘訓練って。……あの、僕は死んだんだよね?」
「はい。ソウジさまの人間としての生はさきほど終わりました」
あらためて明言されるとちょっとショックではあるが、さておき。
「それで、ええと、ここは……天国? ってこと?」
ブリュンヒルデは首をかしげた。
「アースガルズは神々の住まう国ですから、天の国と呼べなくもないですけれど」
「それじゃあこれからゆっくり暮らせるんじゃないの? 戦闘訓練って」
僕の疑問にブリュンヒルデはきわめて心外そうに目を見張った。
「ソウジさまはエインヘリャルに選ばれたんですよ!」
「エイン……なに? それ」
「我らが偉大なる主オーディンの麾下で戦う誉れ高き戦士です、古今東西のとくに武勇に優れた死者たちの中から選び抜かれた精鋭中の精鋭なんです!」
うん、なんか聞いたことがあるぞ。北欧の神話じゃなかったか? 漫画とかゲームによく出てきたけど、実在してたのか。自分が死んで霊魂になってる時点でもうなにがあってもとくに驚かないが、しかし。
「武勇って、僕はべつに……ただの過労死した会社員で――」
そこで僕ははたと思い至る。
「――ひょっとして、選ばれたのって『沖田総司』っていう剣士じゃない?」
「はい! ですから、ソウジさまですよね」
「新撰組一番隊組長で剣の達人で三段突きとかいう必殺技を使える――」
「はい、ソウジさまのレジュメを拝見したとき、わたしも絶対にすばらしいエインヘリャルになられると確信いたしました、担当ヴァルキュリャになれて幸せです! わたし新任で経験も浅いですが精一杯お仕えいたします!」
こんな美人にこんなピュアな笑顔をさせておいてたいへん心苦しかったけれど(このまま沖田総司のふりをして彼女の歓待を受けてしまおうかなんて邪な考えもむくむくと湧いてきたけれど)、僕はおずおずと真実を告げた。
「……それ、僕じゃない。人違い……」
「……えええっ? ……でも、お名前が沖田ソウジさまで……」
ブリュンヒルデの顔が翳っていく。
「僕は総次郎だし、その剣豪の方は百五十年くらい前に死んでる。ていうか僕が剣の達人に見える?」
自分の貧相な身体をぱんぱんと両手で叩いて示す。
そこで自分でもあらためて気づいたのだけれど、風体は死んだときほぼそのままだった。よれよれのワイシャツにスラックス。薄っぺらい胴体に骨の浮いた腕。そういえば肉体感覚も生前のままな気がする。なんかこう、どうせ死んだんだから都合の良い感じに再設定してくれてもよかったのに。
「……言われてみれば……全然そうは見えませんね……」
青ざめたブリュンヒルデは僕を見つめて声を震わせる。
「ひょろひょろで逞しさのかけらもなくて目にも顔にも覇気がなくて声も話し方も頼りなくて自信も矜持もなさそうで――」
そこまで言わなくてもよくない? 涙が出てきた。
そのとき、広間の大扉が開き、一人の老人が入ってきた。
髪と豊かな口髭は真っ白で、黒いローブの下には鍛え抜かれた身体が見て取れる。僕よりゆうに頭一つぶんくらい上背だ。長い杖を手にし、左右の足下に一頭ずつ大きな灰色狼を付き従え、両肩にも鴉を一羽ずつとまらせ、全身から大魔導師の風格を醸し出していた。
「ブリュンヒルデ、そこの者が新しいエインヘリャルだな?」
老人は威厳たっぷりの声で言った。ブリュンヒルデは膝をついて頭を垂れる。
「オーディンさま、ただいま戻りました」
オーディン? と僕は老人をあらためて見る。
たしか一番えらい神さまじゃなかったっけ。無意識に後ずさってしまう。
そんな僕をちらと見てブリュンヒルデは言いにくそうに言う。
「……それで、こちらの沖田ソウジさま、どうやら人違いだったらしく……」
「人違い? 莫迦な」
オーディンは片目をすがめて言った。
「この儂が占術で選んだのだぞ。間違いなどあるはずがない」
そう言ってオーディンはいらだたしげな大股で寄ってきた。
狼と鴉とをあわせて十の眼が僕をにらみすえる。
「沖田総司だろう?」
「……あっ、はい、沖田です」
反射的にポケットの名刺入れを探ってしまった。立場の高そうな人物を前にすると出てくる営業マンの哀しい習性である。
「でも総司ではなく総次郎で……あの、たぶん、お求めの方は僕より百五十年も前に死んだ方ではないかと……お客様の方でご確認いただきたく……」
クレームをつけてきたクライアントへの対応みたいな言い方になってしまった。
「そなた、二十五歳だろう?」
「……はあ。そうです」
「童貞だろうッ?」
なんでこんなことを怒気たっぷりで訊かれなきゃいけないのかと思いつつ僕はうなずく。
「……まあ、ええと、はあ」
「名字が沖田で! 二十五歳で! 童貞のまま死亡! そんな例が日本の歴史上に二人もおるはずがないだろうがッ!」
「いや、いくらでもいるだろ」
思わず素に戻る僕。ていうかその三つの条件だけで探したのかよ?
オーディンは薄笑いを浮かべてやれやれと首を振った。二羽の鴉と二頭の狼もみんなそろって同じ表情で同じしぐさをした。腹立つなこいつら……。
「そなたの父親は童貞か?」
「……いや、ちがいますけど」
だって僕が生まれてるんだし。
「では父親の父親は? そのまた父親は? 童貞か?」
「え……いや……童貞じゃないですよ、そんなの当たり前――」
「そう。当たり前なのだ。沖田の家の血脈に連なり、そなたに至るまでのすべての男は何十代何百代にもわたって一人の例外もなく経験済み! 歴史の末端で女を知らずに死んだそなただけが童貞なのだッ!」
落雷のようなショックが襲ってきて僕はくずおれた。
先祖代々の、沖田の非童貞の男たちがつないできた命のおかげで――今の僕が……でも僕だけが童貞で……あああ……歴史の重みに圧し潰されそう……
「というわけでそなたのような二十五歳童貞死亡沖田がいくらでもいるわけがない。人違いなどあり得ぬ」
「それはそれ、これはこれでしょ!」
我に返った僕は必死に反駁した。
「沖田総司は幕末の人です、僕を見てください、どこからどう見ても二十一世紀のサラリーマンでしょうが!」
「知らん知らん、日本のことなどさっぱり詳しくないし日本人なぞだいたい同じに見える」
こ、こいつ……。
「だいたいなんで日本人を連れてくるんですか、北欧の神さまでしょっ?」
髭もじゃもじゃ筋肉むきむきの適材が地元でいくらでも見つかるだろうに。
オーディンはため息をついて答える。
「ついこないだ史上最強との誉れも高い剣の達人をエインヘリャルとして呼び寄せたのだが、そやつが日本人で、しかも童貞でな。ヴァルハラは基本的にビール飲んでアザラシ食って戦争して殺して殺されてウェイウェーイのヴァイキング文化だから、奥手なそやつはなじめんようで、ふさぎこんでしまっておるのだ。しかたなく話し相手として日本人で童貞の剣豪をもう一人呼んだわけだ」
「えええ……そんな役目期待されても……」
その達人というのがだれだか知らないが、同情する。
「そんなわけでそなたもこのヴァルハラで大いに励み、仲間たちと研鑽し、来たるべきラグナロクの日には我らのために戦場でその命を燃やし尽くしてもらう」
「そんな勝手なっ、僕だって来たくて来たわけじゃ――」
「もちろんただ働きではないぞ?」
オーディンはにまりと笑った。
「肉でも魚でも食い放題、酒も飲み放題だ」
「いや、あんまり惹かれないです……」
なにせ味覚障害を患って久しい。いや、死んで霊体になったからもう関係ないのかな。でも酒もべつに好きじゃなかったし。
「あと夜は担当ヴァルキュリャとやり放題だぞ」
僕はぎょっとしてブリュンヒルデを見やった。彼女は顔を赤くして口をぱくぱくさせ、僕とオーディンを何度も見比べた。
「え、ちょ、ちょっと待ってくださいオーディンさま」
ブリュンヒルデの声が上ずる。
「そんなお役目は、き、聞いていませんけれどっ?」
「ブリュンヒルデ、そなたも抜けておるのう。ヴァルキュリャの任務に戦士への性的サービスが含まれておることなぞ常識ではないか。なぜにヴァルキュリャがそのような防御効果皆無の水着みたいな鎧を着けているのか理由を考えたこともなかったのか?」
「そ、それはっ」
そういうのって言わないでおくものじゃ……。
意識してしまったからか、ブリュンヒルデは鎧の隙間から見える肌を手で隠そうとする。
オーディンはさらに畳みかける。
「脳みそが筋肉でできておるヴァイキングどもが、大喜びで戦地に赴いて死んでいったのも、武勲を立ててエインヘリャルに選ばれればいい女とやれるからだ。他の理由で男が命を捨てるわけがなかろうが」
そ、そうでしょうか? 言い切っていいんですか?
ブリュンヒルデは今や耳まで真っ赤になっている。
「神々の住まう聖なる城で、性的サービスなんて、そ、そんなっ、不潔ですっ」
「なにが不潔かッ!」
オーディンは杖でどんと床を鳴らした。
「そなたこそ不見識! ヴァルハラは日本三大風俗街のひとつ!
東の吉原・西の福原・北のヴァル原と並び称されておることも知らぬのか!」
「日本には詳しくなかったんじゃないのかよ」
僕の当然のつっこみをオーディンは完全に無視して続けた。
「ヴァルキュリャの選考基準も当然、顔とおっぱいだ」
「セクハラですっ」
「セクハラではない。ヴァルハラだ」
ヴァルキュリャ・ハラスメントですね……。色々と最低ですね……。
「では、今夜さっそく沖田の叙任式を執り行うから、それまでに童貞を卒業させてやれ」
ほんとうに最低なことを言い残してオーディンは広間を出ていった。
後に残された僕とブリュンヒルデの間には、当然ながら気まずい空気が充満する。
もじもじしていた彼女は、やがて思い詰めた顔で僕に近づいてきて言った。
「……オーディンさまのご命令ですので、……その……ふつつか者ですが、よろしく――」
「ちょ、ま、待って!」
僕は泡を食ってブリュンヒルデの肩を押し戻した。
「あんなパワハラ爺の言うことなんて無視していいってば!」
「でも神の命令は絶対ですし……わたしではご不満でしょうか。もっと、その……ソウジさまのお好みのタイプの、胸が大きくて積極的なヴァルキュリャに担当を変更しましょうか」
「不満なんてないって! 全然! なんで僕の好みなんてリサーチしてんのっ?」
「でしたらどうぞご遠慮なさらず。手違いで連れてきてしまった上に、なんのお役にも立てないとなると、ソウジさまに申し訳なくて」
「い、いや、そんな気遣いは要らないから!」
「そんなだからそなたは二十五年間も童貞なのだ」
扉の隙間から盗み聞きしていたオーディンが言った。
「とっとと出てけ!」
僕は怒鳴る。扉が閉まり、老人の笑い声が遠ざかっていった。
「わたしも経験がないのでソウジさまのお気に召すかわかりませんが……」
ブリュンヒルデの声は消え入りそうだ。こっちも心臓が痛くなってきた。死んでるのに。
「あ、あのさ、こういうの、無理してやるもんじゃないと思うよっ? その、きみに魅力が無いとかそういうんじゃなくて、つまり、もっと自分を大事にしなきゃっていうか、こういうのは良いと思った相手とするべきだと思うんだよなっ?」
思わず声が裏返る。
ブリュンヒルデは上目遣いでつぶやいた。
「ソウジさまなら……良い、と……思っておりますけれど……」
うわあああああああ。やめろ。童貞には破壊力ありすぎる。その『良い』は『あなたでも良い』であって『あなたが良い』じゃないでしょそうでしょ義務的っていうかなんていうかとにかく僕はそういう痛い誤解はしないからね? ほんとうは誤解だろうがなんだろうがいただいちゃいたいところだけどそんな度胸もないしやり方もよくわからなくてびびっているだけなんだけどね?
「それに、あの、ソウジさまはこれからヴァルハラで過ごされるわけですけれど、殿方は、そういった……悶々としたあれこれを、処理なさらないと、おつらいわけですよね……?」
「そんな心配しなくていいから! ひとりでなんとかするから!」
「でもソウジさまがいつもご使用になられていたおかずがここにはありませんし……。ソウジさまのお部屋からPCを持ってきましょうか」
「そういう心遣いもほんとにしなくていいから! みじめになるから!」
でもPCは持ってきてほしいかも。遺族に見られて困るデータは――そんなにはないと思うけれど……
「あ、でも、ソウジさまはFANZAの漫画も動画もストリーミングで楽しまれていましたよね。ヴァルハラにはネットがつながっていないのでPCだけあっても観られませんね……」
「なんでそこまで詳しいのに僕を沖田総司と間違えるんだよッ?」