狂う舞台(前編)
部屋から出ずに過ごして二日目になる。昨日はあれからなんともなかった。
あの夢を見ると、心が掻き乱されるのだ。気楽な気持ちで黒龍様を好いている、あの感覚が妙に残ってしまうような…今の私には、あまりいいこととは言えない。見ないならばそれに越したことはないと、安堵していたのに。
「……蓮花…」
あの、ヒロインというものの、名前。知ってしまった。思い出すように、唐突に、ふわりと沸いてきてしまった。確証がないのに、確信がある。
なにかもっと大切なものが、この先にーーーー、
「ーーーか、蝶花!」
「はいぃ!!」
お母様の声に、びくりと背筋を伸ばす。ぼんやりと先ほどまで浸っていた何かが霧散してしまって、あわあわと狼狽える。大切な気がしたのに、解らなくなってしまった。
「黒龍様がいらっしゃってるわ、早く着替えて!」
「え!?」
「桂は蝶花の準備を整えたら部屋に案内なさい。急いで」
「承りました」
え?な、何で急に?急いでチャイナ服のような軽装の部屋着を脱ぐと、咲の手伝いを受けながら、よそ行きの服に袖を通す。髪を結ってくれるのは、お母様についていた世話役の桂さんだ。60才くらいの、優秀で、姿勢のいい女性。私が生まれる前からこの家に居て、馴染みあるうちの一人である。
着替えが終わると、叩かれた頬の腫れが引いていなかったため、化粧で誤魔化しがされる。あれからアザになり、今は治りかけだ。消せはしないが、いくぶんかマシにはなる。
こちらです、と黒龍様の待つ部屋に案内された。桂が小さくノックをして、部屋の扉をあけると、私は進み出る。
「お待たせいたしました」
「いや、こちらも急に来たので…」
言葉が止まる黒龍様に首をかしげる。どうかされたのだろうか、と考えていると、黒龍様の後ろにいた護衛らしき二人は驚いた顔をしていた。
「どうした」
「え?」
顔をじっと見てくる。やはりどこか不快そうだ。となれば、今は治りかけでやや見苦しい、叩かれた頬だろう。読み取れる表情が心配ではないことに、胸が苦しくなる。何故?おかしい、これは自分の感情なのだろうか。戸惑いを胸の奥に押し込めると、平然を装う。
「あぁ…儀を中断して黒龍様に恥をかかせた罰です」
「……」
理解できないと言う風に、眉間を押さえてため息をつかれた。そんな頭が痛い、みたいな顔しないで欲しい。部屋の人払いを指示してくれるところは優しいのかもしれない。私への気遣いだろうか。
やっぱりあの夢の影響だろうか。激しく好意的に受け取ってしまう。こほん。今はそれはおいておこう。二人になれるならば、話したいことがある。好都合とばかりに、彼より先に口を開いた。
「黒龍様。蓮花、という者をご存知ですか?レンゲと書いて、レンカと読むようです」
「いや、知らないな」
「そうですか…」
やはり夢だったのだろうか。わからない、自信がない。でも、危ない橋は渡りたくない。これだけは確か。
「何を考えている」
「黒龍様は、私との婚約をしない方がいいかもしれません」
黒龍様の警戒した声に応えるべく、自分の気持ちを無視をした結論だけを述べると、私を見ていた目が軽く見開かれる。驚くのも当たり前だ。彼に結婚を迫ったのは、私を含めたこの家だったのだから。大人になってから、ということで婚約に留まったに過ぎない。
婚約者は四方の家の長ならば、誰でもよかった。一番静かで強そうなタイプだった彼を選んだのはお父様だし、お父様の指示で恋文を送っていたのは私だし、最終的に家の力を使って引きずり出したのも…ええ、上手くいっていたの。白昼夢をみるまでは。
「理由を述べよ」
「…えぇと…」
説明に困る。私が押し黙っていると、腕組をして私を見下ろす黒龍様が痺れを切らして問いかけてくる。
「白昼夢か?」
「…はい」
「内容は」
「黒龍様に、私ではない相手が出て参りました」
「それが蓮花か?」
「恐らく」
「…それは予知ではないのか?」
「解りません。姿は成長してましたが、動いていなかったもので…」
「動いていない?」
「まるで一枚の絵のような、写真だったのです」
「ほう」
考え込む顔はもう私を見ていない。鼻筋がしゅっとしていて美形だわ…。今更ながら見惚れてしまう。
「取り止めになるのは構わない。元よりあまりの強引さに気乗りしていなかったからな。ただ…お前に家のものを説得できるだけの立場があるのか?」
「…いいえ」
どうしようもない気持ちに視線をそらすと、だろうな、と真剣な声が帰ってきた。じん、と、もう収まりつつあった頬の痛みが疼いた気がした。
「…再び会うまでは腹立たしかったが、原因でいえば、お前よりこの家に問題があるみたいだな」
「そのようなことは…。白昼夢をみるまでは、私とお父様の利害は一致してましたから…」
「となると結婚に利があるのだな。顔合わせに呼ばれた面々をみるに、長の立場のものが狙いか」
理解のお早いことで。
「婚約を急ぐ理由は何だ?まだ互いに都に通う年でもないだろう。早すぎる」
都とは、簡単に言えば学びの場だ。また、四方の長が一生を捧げさせる、主従相手を選抜する舞台でもある。上がれる年の下限は13歳からで、選抜期間は3年間。選抜されたものは、更に2年間、そこで英才教育を受けることになる。長の家系である彼らが、自分たちの側近を選ぶ場となっている。
「それはこちらの事情ですわ。明かせません」
「明かせ。でなければ白蛇へ持ち込んでいい話か、判断ができない」
「は?いえ。明かせません。何故そこで白蛇様が出てくるのです?」
「あれが興味を持ったからだ」
「え。いや、ご遠慮します。好みじゃないもの」
つい口をついて出た本音に、黒龍様が数秒沈黙したあと、面白いものを見るように扉に視線を向ける。その姿に、嫌な予感がした。
「だそうだ」
「…酷いなぁ」
ゆるりと空いた扉から、白い袖が流れるように入ってくる。見えてくる容姿に私は悲鳴が飛び出しそうな口元を押さえた。