婚約の儀
「っ」
ガン、と頭を殴られたような衝撃に、手のひらにあった小さな杯がひっくり返って、床に落ちる。自分の呟きよりも、カラン、という間抜けな音が耳に残る。
ぴしゃりと濡れた自分の着物に、周囲は静まりかえった。
「…どうした」
「…な、何でも…申し訳ありません」
震える手を慌てて握り込むと、杯を拾い上げる。胸がざわざわする。理由もわからない焦りが、突如襲いかかってきた。不安を何とかしようと顔を上げれば、不快そうな視線をこちらに向ける黒龍様が視界に入って息を飲む。
同じ黒髪なのに、私よりも艶やかな気がするまっすぐな髪は、後ろでひとつに縛られている。藍色の瞳は切れ長だけれど、やや丸みを帯びた輪郭に合わせるように少し大きい気がする。
角が無くて、幼い。
否、角なんて最初からなかった筈。
周りを見渡せば、それぞれの長と親族がこちらを見ていた。今日は、黒龍様と私との、婚約の儀を挙げる日である。招かれたのは、将来有望な方ばかりだ。都から卒業すれば、それぞれ方角を司り、土地に結界を張る役割を担うことになる。四方の長と呼ばれる四大名家が呼ばれた。
上座右側には私と、私の身内や親戚、左側には黒龍様の身内とご親戚。中座右側には妖狐様率いる数名の客人、左側には天狗様と、同じく天狗様の率いる客人。下座には白蛇様の率いる客人と、なかなか豪華な顔ぶれだ。席順は、我が華家との関わりが深い順になっており、同じく幼い私は初めて見る顔が多い。
壟家、東の長の息子は黒龍様であり、その父は青龍の地位を担う。その繋がりで、共通面識がある方がいいだろうと、四方が呼ばれたと私は聞いている。外堀を埋めるとも言える。
兆家、南の長は朱雀の地位を担う。息子は天狗様。私や黒龍様と同じ、9歳になる。現朱雀のお父様譲りらしい、エンジ色の髪は羽根のように艶やかで、細い割に纏まりがある。髪は短いながらも襟足は長めだ。黄金の瞳は時折夕焼けのようにオレンジががる。つり目ながらも、移ろいの早い表情を映す瞳が華やかである。現に今は驚きの一色を宿している。
百家、西の長は白虎様。息子の妖狐様は最年少。この中では8才と一番若く、一番ひとによく馴染んでいるらしい。人間界に繋がる社に住んでるからかしら。
光をよく反射する金髪は、毛先に向かうほどぱらぱらと無造作な跳ねを見せる。特に面白くなくとも弧をキープする口元、といってもいい気がするわ。今も何故かうすら笑んでいる。
綠家、北の長は玄武様。息子は白蛇様。所持している力関係で、父ではなく母が玄武の地位を担っている。つまり、ここにいるのも母方だ。白蛇様は10才と、ひとつ年上になる。完全にその美貌は母譲りだろう。中性的な顔立ちは、幼さ故にむしろ女の子のようだ。閉じた瞼から延びる睫毛も白く、まるで人形。私の感覚では、気味が悪く感じてしまう。下座にいる白蛇様のいらっしゃる綠家と我が家は、縁が極端に薄い。あまり関係はない。
内容は婚約者としての私の紹介と、顔合わせになる。飲んで食べて、話して、先ほどの酒を最後に飲めば終わった。この日を待ちわびて、黒龍様…いえ、最初は長であれば誰でもよかった。ところが今日初めてお会いしてみたら、とても顔が好みで…運に愛されてると感謝した位には、黒龍様に対して好意的に思ってはいるが、これはあくまでおまけの筈。
暫定とはいえ、名家の伴侶である地位を手にいれれることに歓喜していたのに、今は冷水を浴びせられたかのようだ。
私は自分で、この儀に水を差してしまった。契約の杯をひっくり返してしまうなんて…!あまりの失態に取り繕えず、気まずい顔を晒してしまう。
「何でもないようには見えぬ」
「…白昼夢を見ていました。大丈夫です、続けましょう」
説明をするとすれば、これが一番無難だろう。しかし、このタイミングで白昼夢など、あまりいい事態とは言えない。黒龍様は、片眉を軽く上げて、口をつけていない杯を机におくと、静かに立ち上がる。上がる腰につられて、光沢のある、黒と蒼の布が衣擦れの音を立てた。
お、大人びている。私と同じ9歳よね?失礼、と手短に言葉を発すると、人の間を縫って、下座にいる白蛇様に何やら一声をかけて部屋から出ていってしまった。
「……」
どう…いたしましょう。この空気。怒らせたのでは?と、ひそひそとした抑えられた声が飛び交い、空気が淀んだ気がした。詫びなければ、と口を開くのと、中座にいる朱雀様が笑い出すのは同時だった。
「くっ、…はははっ!こやつ、婚約を台無しにするか」
「まぁまぁ。酒に毒でも入ってたのかもよ?」
心底可笑しそうに笑う朱雀様の向かいで、くつくつと皮肉気に笑っているのは、白虎様である。確かに、毒であればわかる。何せ、毒と薬にはめっぽう強い体質だ。しかし、違います、と言おうにも唇が震えて声にならない。
私は、あの白昼夢で、成長された黒龍様にーーー捨てられた。
「…お父様、彼女…顔色が悪いとおもいます。休んだほうがいいのではないですか?」
心配を込めたような妖狐様の声に、私の周囲が動き出す気配がする。彼の言葉をやっと理解できたのは、上座にいた身内の親戚数人に、連行されるように席を退いた後だった。
頭まっしろ