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アナベル視点です
王太子の婚約者候補として、アナベルは、王太子がごく限られた親しい友人しか通さないという客間に招かれた。やっとここに来た、というような笑みが零れた。
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三年前、彼女はまだ何もわかっていない小娘だった。凛々しく誰にも優しい態度の王太子に憧れていた。
国王が病に倒れたと聞き、王太子は心痛だろうと考え、差し入れを持って行った。いま思えば、何という考え無しだったのかと自分でも驚くが、お菓子作りには自信があったのだ。婚約者がいるのは勿論知っていたけれど、彼女はアメリー・ベルトワーズが嫌いだった。美人で気品があって何でも完璧に見える、それが嫌みな女だと思っていた。あんな女より自分の方がシャルルさまを癒してあげられるのに、と本気で考えていた。
だから、王太子が菓子を受け取ってくれた時は天にも昇る心地だった。いくら妃教育を受けていても、アメリー・ベルトワーズにはこんなお菓子は作れないだろう、と思った。ただ差し入れを喜んでくれたというだけで、何だか勝ったような気になっていたのだ。父と兄が、この話を聞いて喜び、初めて褒めて貰えた事も大きかった。
『ベルトワーズの娘さえいなければ、簡単にことは運びそうだが、まあアナベルが王太子に気に入られたのであれば後はなんとかなるだろう』
父の言葉。何が『なんとかなる』のか、よくわからなかったけれど嬉しかった。幼い時から、まるで機転の利かないばかな娘だと父と兄に蔑まれていた自分が、役に立てるのだ。しかも、憧れのシャルルさまのお傍に近付ける。
父と兄に喜んで貰おうと、友人の婚約者に媚びて奪った事もあった。その男を父と兄が気に入らなければ、また別の男を奪った。憧れているのはシャルルさまだけで、自分の釣り合う程度の男など誰でもよくて、父と兄が喜んでくれる相手と結婚したいと思っていたのだ。でも、もしかしたら、シャルルさまが自分を見てくれるかも知れない?
けれど。
そう思ったのは束の間で、兄が王太子の不興をかった、と知らされた。アメリー・ベルトワーズを悪く言ったせいらしい。
大丈夫だ、気にしなくていい、と珍しく兄は怒って殴る事もなく言ったけれど、自分のせいだと思い、アナベルは震えた。
『ベルトワーズの娘さえいなければ』
父の言葉が繰り返し頭を巡った。あの女さえいなければ。
アナベルは父の書斎に入り、小瓶をとった。父がこの中身を猫の餌に混ぜて殺したのを、盗み見た事がある。何故そんな事をしたのかは、わからなかったけれど……。
体調不良だというアメリー・ベルトワーズの所へ行った。シャルルさまは自分を愛しているのだ、と言った。言ったら、なんだか本当のような気がした。鉄面皮の女が動揺しているようだった。シャルルさまの口から聞くまでは、と強がりながらも、疑いもせずに土産のお茶を口にした。
ざまあみろ! と思った。シャルルさまを誑かしてお兄さまを苦しめた罰が下ったのだ。いつかの猫みたいに倒れて痙攣しているアメリー・ベルトワーズに、
『これでもう殿下に確かめる事は出来ないわね』
と囁いた時は本当にすかっとした。
こうして憎い女は死んだけれど、それでアナベルが幸福になれた訳ではなかった。
勝手な事をした、危ない事をしなくてもベルトワーズを陥れる算段はついていたのに、揉み消すのにどれだけ苦労したか、と父に罵倒され、折檻された。王太子も、あの女が死んで自由になったというのに、他の女性を近づけようともしない。特に自分は何故だか念入りに遠ざけられた。
でも。
暫く罰だと地下室に閉じ込められていたけれど、ある日父と兄は、無能な娘だと思っていたけれど使い道がわかった、と言った。
そうして、二人が忠誠を誓っているという王弟殿下の館へ連れて行かれた。
父親とそう歳の変わらない王弟殿下に彼女は差し出されたのだ。太った中年の王弟殿下は、愛らしい見かけのアナベルを気に入った。度々通わされ、そしてアナベルは王弟殿下の子を身籠った。
王弟殿下の種を孕んだアナベルを王太子に嫁がせ、その後にアナベルは王太子を暗殺する。生まれる子どもは世継ぎであり王弟殿下の子どもだ。これで何もかもうまくゆく――そう聞かされて、アナベルは、お役に立てて嬉しゅうございます、と答えた。
殺す為に初恋の人に嫁ぐ事に、躊躇いなどない。家族に差し出されて中年男に乱暴に抱かれてその子どもを孕んでいる自分は、もう単純な小娘でもないけれども、支配する者に抗う力はない。だったら、与えられた役目をこなすだけだ。
―――
座って王太子を待っていると、足に柔らかく温かなものが触れた。
「アメリーちゃん、駄目だよ、戻っておいで!」
部屋の外から焦ったような侍従の声がする。
そうか、これが王太子の飼い猫、アメリー。死んでも憎い女の名を持ち、王太子と毎夜眠るという猫。
毛並みの良い猫は、人懐こい目でアナベルを見上げて媚びるようににゃあんと鳴いた。
王太子の愛猫として知られているので、王宮の人間の誰もが、この猫を大事に扱う。だから、警戒心などないのだ。
「大丈夫ですよ。猫は大好きです。まして、シャルル殿下の可愛がっておられる猫ならば、友達になりたいですわ」
侍従に声をかけると、ありがとうございます、と安堵した返事があった。動物に優しい女は悪く思われない。
「下がって他の仕事をなさっていて良いですよ。シャルルさまがいらっしゃるまで、猫ちゃんと遊んでいますから」
アナベルの言葉に、侍従は感謝を述べて下がったようだった。気配を探ったけれど、辺りから人はいなくなったように思えた。うららかな午後、王宮の奥深く。表面上は平和で、なにも危険なことはない。
「アメリーというのよね。忌々しい名前だわ」
アナベルは、無邪気にすり寄って来る猫を見下ろした。アナベルは猫の顎を優しい手つきでかきあげて、
「いまは手を出せないけれど、いずれシャルルさまの妻になったら、おまえと同じ名前の女と同じ毒を飲ませてあげるわ。あの女と同じように苦しめるよう、量は調節してあげるわね」
と囁いた。
「そんな名前をつけたシャルルさまを、その時は恨んで頂戴ね? 猫は嫌いじゃないけれど、その名前は我慢できないの」
内容とは裏腹の蕩けるような甘い声音に、猫は嬉しそうに頭を擦りつける。アナベルはその頭を撫でながら言った。
「よしよし……大丈夫よ、そうやっておまえを苦しませるシャルルさまも、いずれは同じ毒でおまえのところに送ってあげるからね」
「アナベル」
突然、部屋に男の声がしてアナベルは心底驚いた。




