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婚約者アメリー・ベルトワーズの死から二年が経った。
けれど僕の胸には常に、アメリーの面影とそして後悔が付き纏っている。僕の思慮が足りなかったばかりに、最愛の人に死に際まで苦しみを与えてしまった、と思っている。
父王は病から回復し、周辺は見かけ上の平和を保っている。だけどこれは偽りの平和だと考えている。
健康だったアメリーの死因が病死という事に納得がいかない。あの苦しみ方は毒殺だと思っている。僕がアナベルに靡かない様子と見て王弟派に暗殺されたに違いない。でも、証拠はない。検死をしたのはベルトワーズ公が信頼する医師だったが、アメリーの死からひと月程して自死してしまった。何者かに脅迫を受けていた痕跡があったが、それ以上はわからないままになってしまった。
アメリーの死から一年経つと、周囲からは新しい婚約者を迎えるようにという声が強くなった。僕は19歳で、次の王なのだから、妃を娶って世継ぎを作るのは務めだとはわかっている。けれど、アメリー以外の女性など考えられない。僕は次第に、女性と会うのさえ苦痛になってきた。
そこで、親しい友人でもある、アメリーの兄が、生前彼女が可愛がっていた猫に仔猫が生まれているので、心を休める為に傍に置いてはどうか、と勧めて来た。彼女が猫の事を楽し気に話していたのは心に残っている。僕は彼に礼を言って仔猫を引き取った。乳離れして手もかからない、おとなしい、美しい金色の毛並みの仔猫だ。
僕は、猫にアメリーと名をつけた。彼女の父親と兄には了承して貰ったが、中には眉を顰める者もいた。死者に対する冒涜と感じる者もいたし、女々しいと思う者もいたようだ。
けれど、僕はただ、一日を終えて自室に戻った時に、
「おいで、アメリー」
と呼びかける相手がいるという事に癒しを求めた。こんな事をしたところで猫は猫であり、死んだ彼女が戻ってくる訳でもないし僕が彼女にした事が消える訳でもないと、わかってはいたけれども。
この雌の仔猫は賢い性質で、決して僕の妨げになる事はしないし、そうして欲しいタイミングにはすり寄って来て甘えた。柔らかく小さな生き物の温かい息遣いを頬に感じると、僕はアメリーと呼んで抱き締めた。
―――
こんな生活が半年ほど続いた頃だった。
ベルトワーズ公が暗い表情で僕に言った。王弟派の娘アナベルを新しい婚約者に考えないか、と。
アナベル? とんでもない、と僕は叫んだ。彼女自身が何をした訳でもないとは思ったが、アメリーに苦しい思いをさせたのは彼女の存在があったからだ。二年半の間、アナベルには会ってもいなかった。一番悪いのは僕だけれど、どうしてももう顔を見たくなかった。なのに、婚約? 絶対に無理だ、と僕は、公と二人きりでもあったので、常になく声を荒げて答えた。
そもそも、アナベルは敵対勢力の娘だ。何故、ベルトワーズ公がそんな娘との婚約を勧めてくる?
「私にアメリーの他に娘がおれば、と思います。しかし私にも、他に信用を置けて身分に問題ない者にも、殿下に差し上げるような娘はもういないのです」
「だからって! 何故あの娘なんだ?」
「王弟殿下から先ほど、陛下に申し入れがあったそうです。アナベルの身分はもう伯爵令嬢ではありません。彼女の父親は王弟殿下の一の臣下であり、この婚約を進めるにあたって、彼女を王弟殿下の養女にした、と」
「は? なんでそんなことを?」
「王弟殿下は、長年の仲違いに終止符を打ちたいと仰せなのです。本当は娘をやりたいが、自分には息子しかいない。だから信頼する者の娘を養女とし、教育したと。この縁組を以って王家をひとつに結び付け、兄陛下に協力したい……そう言われているのです」
「そんな。本心なわけないだろう。あんなに王位を狙っていたのに」
吐き捨てるような僕の言葉に、カーテンの隙間から射す斜陽が公の皺の増えた頬に濃い影を落とした。
「わかっています……。しかし殿下、我々はこの二年半で力を落とす一方。王弟妃殿下の生国である隣国との結びつきとそこから得る財力に、我々は敵わないのです。私の力不足で申し訳ございません」
「公のせいじゃない。僕のせいだ。僕がもっと頑張っていたら」
突然愛娘を失った公が悲嘆に暮れていた事を僕は知っている。それでも公は父と僕への忠誠から、休みもせずに国政に尽くしてくれていた。
「殿下がまったく私事を顧みずに尽力していらっしゃる事は誰もが存じております。殿下のお力が非常に優れている事も。けれど、どうにもならない事はあるのです。この申し入れを受け入れなければ、王弟殿下は和解を拒否されたと言いがかりをつけて武力行使に移る事も想像されます」
「そんなことになったらおしまいだ。内戦になんかなったら、隣国まで攻め入って来るかも知れない」
「ですから、殿下。この婚約をどうか受け入れていただきたい、と、陛下側近を代表してお願いに参ったのです。陛下は今夜、殿下にお話しされると仰せでしたが、その前にお心を整理されていたらと……申し訳ございません」
溜息しか出なかった。アナベルを妃として……その先に何があるのだろう? 叔父は何を企んでいるのか。アナベルに僕を殺させるのではないか? わからない……だが、断れない。
この時、足になにか温かいものが触れた。にゃあんと鳴いた。
「アメリー」
内密の話という事で公を私室に呼び入れたのだが、籠の中でアメリーが眠っていた事を忘れていた。
いつもはこうして客を呼び入れて重要な話をする時、決して邪魔をしないのに、どうしてだか物言いたげに僕の足に顔を擦りつけてくる。
「おお……この猫がアメリー」
と公は呟いた。
「あの娘が生きていれば、今頃は……」
今頃は。結婚して世継ぎが生まれ、少しは立場も変わっていただろうか? ……考えても変えようのないのが現実だった。
―――
その夜、僕はなかなか寝付けずに一人寝の寝台で寝返りを打っていた。心身ともに疲労しているのに、欲しい眠りは訪れない。こんな夜にはアメリーの夢が見たい。たとえ、起きた時にその幸福が手から零れ落ちて一層気が滅入るとしても。
『……シャルルさま……』
変だ、と僕は思った。眠れていないというのがそもそも夢で、僕は夢の真っただ中にいるのだろうか? でなければ、女の声がこの部屋で聞こえる訳がない。
『シャルルさま。もう、お休みですの?』
金色の毛並みを月光が撫でていた。夜闇の中で金色の目が光っていた。普段なら足元の籠の中で眠っている猫のアメリーが、枕元に座っていた。夢かな、と僕はかすれ声を出した。
『夢ではありませんわ。驚かせて申し訳ありません』
アメリーの声がする。忘れた事のない、愛しいひとの声が。これは、夢じゃない。僕は起き上がった。
「アメリー、きみなのか。猫の身体を借りて、天の国から呼びかけてくれているのか?」
『いいえ』
半ば確信したのに否と言われて僕は戸惑った。猫のアメリーは細い髭を震わせた。
『猫の身体を借りているのではありません。わたくしは、猫に生まれ変わったのですわ』