晶腫2
一晩明け、うとうとしていたジャレッドは牢屋番が告知を読み上げる声で目を覚ました。
「本日、シララ姫が御静養のためこの塔の下のブドウ園に来られる。騒いだり窓から物を投げたりする事が無いよう申し付ける。そのような事があれば厳罰に処す」
囚人達は口々に不満を漏らしたが、牢番が槍で鉄格子を叩いて脅すと静かになった。
王か判事か、何某かから沙汰が下されるまで何もする事が無いジャレッドは、朝食として出された石のように固い小さな黒パンを齧りながら暇つぶしに小さな窓から城の庭を見下ろした。庭のブドウは整然と立てられた木の柵を這って青々と茂り、小道を縁取る淡い色合いの花々がそれに彩りを添えていた。
昼前になると、御輿に乗せられたシララ姫が仰々しく護衛の兵士を御供に現れた。姫は御輿の上からブドウの葉を撫で、平伏する庭師に微笑みと言葉をかけていた。塔の上までは遠すぎてはっきり届かないが、シララ姫が美しく澄んだ音色で歌いだすと、ブドウの蔓を伝ってリスが膝に乗り、小鳥が肩に留まり歌に合わせて囀りはじめた。
ジャレッドは職業柄様々な人を見てきたが、ここまで姫らしい姫は見た事が無かった。民に慕われるわけだ、と納得する。
ゆっくりと庭を周っていたシララ姫だが、半周ほどしたところで御輿の担ぎ手に何事か話しかけ、御輿から降りると、よく刈り揃えられた高い生垣の陰に消えた。
少しして、生垣の陰からなんと謎の仮面美少女がいそいそ出てきた。肩には小鳥が留まっている。
謎の仮面美少女は小休止している担い手達の目を避けながらコソコソ塔の真下にやってくると、小鳥に何か魔法をかけて飛ばした。風に乗って一気に舞い上がり、牢の窓の桟に留まった小鳥は口を開いた。
「ジャレッド、取引しよう。牢から逃がしてやるから私の病を治してくれ」
ジャレッドは驚いた。伝声魔法は簡単な魔法ではなく、きちんとした教育を長く受け腕を磨かなければ扱えない。少なくともジャレッドには無理だ。それを容易く行使した謎の仮面美少女は一体何者なのか。
ジャレッドは訝しみ、そして閃いた。
まさか……!
「お前本当はやっぱりシララ姫だろ。生垣で隠れて仮面つけて出てきたんだろ、そうだろ! 声も同じだしな! なんで騙した! 人の心を弄びやがって!」
「……違う、騙してない。私は謎の仮面美少女サララだ。声が同じなのは、あー、偶然だ。私はシララ姫と仲良いから、あの生垣でちょっとお喋りしてただけ」
「ああなんだ、そうだったのか。すまん」
ジャレッドは赤面した。早とちりは何歳になっても恥ずかしい。咳払いして本題に戻る。
「それでなんだったか。ああそうだ、逃がしてくれるんだったか。牢屋暮らしも嫌になってきたところだ、さっさと出してくれるなら助かる。だがこのままここにいても殺されるわけじゃないんだ。わざわざ逃亡犯になって罪を重くするつもりはないぞ」
「どっこい、典医の野郎がジャレッドを目の敵にしてるんだなこれが。色々手を回してるみたいだから、ぼやぼやしてたら死刑になっちゃうかも」
「ひぇっ……」
ジャレッドは蒼褪めた。そこに小鳥が畳みかける。
「助けて欲しいか?」
「た、助けてくれ。死にたくない」
「助けてあげたら私を治してくれるか?」
「治す。治すから」
「じゃ、取引成立だ。窓の下を見ろ」
言われるままに見下ろすと、塔の壁面に沿って腕ほどもある太さの蔦が張り付いていた。少し前まであるにはあったが引っ張れば千切れる太さだったものだ。謎の仮面美少女は有能な魔法使いだった。
小鳥は端的に言った。
「降りろ」
ジャレッドは目をむいた。
「この蔦を!? ふざけるなよ、落ちたら死んじゃうだろうが!」
「じゃあ牢を破って警邏の目をかわしながら城内の階段と廊下走り抜けて脱出する?」
「無理だ。絶対途中で捕まる」
「じゃ、降りろ」
ジャレッドはごくりと息を飲み、パンの欠片を窓の外に投げた。地面に落ちるまでの時間を数え、十分致死的な高さである事を再確認した。ジャレッドは思いっきりダダをこねた。
「やだぁ……! 死んじゃう! 降りたくない! もっと良い方法考えてくれよ!」
「おっさんが嫌がっても可愛く無いし見苦しいぞ。ほら早く。しっかりしろ、医者だろ」
「それ今関係あるか?」
ジャレッドはぐずりながら考えた。典医が本当に処刑を目論んでいるのか分からないが、悪印象を持たれているのは確実である。何事もなく釈放されるのは考えにくい。一方、謎の仮面美少女は自分の命がかかっている。医者であるジャレッドを助け、代わりに自分を助けてもらおうという魂胆は分かりやすく、信用できた。
もたもたしているといつのまにか首が胴から離れているかもしれない。ジャレッドはひとしきりグズグズしてから、渋々脱出案を採用し窓から這い出して蔦を降り始めた。鉄格子は錆びていて簡単に外れた。
蔦は太く掴みやすかったが、塔の上は想像よりもずっと風が強かった。強風のたびにゆらゆらと揺れ、そのたびにしがみついて止まった。たくましい緑の蔦に薄汚いボロ切れが引っかかっているようだ。そんな調子であるからなかなか地上が近づいてこない。
「早く、早く。何をグズグズしてるんだ。さっといけさっと」
「うるさい気が散る黙ってろ」
肩に留まって急かす小鳥に邪険に返し、ジャレッドはまた一歩恐る恐る下に降りる。何故こんな事をしているんだと泣きたくなった。命がけの登攀を強いられるいわれはない。
ジャレッドは医学的好奇心が旺盛なだけの善良な医師である。
ジャレッドは失敗を恐れない。治療不可能と言われる難病にも果敢に挑む。新しい手術法を、新薬を試し、失敗し、経験を積んで、試行錯誤し、最後には成功を掴み取ってきた。
傍目には見たことも聞いたこともない怪しい方法で患者を痛めつけた挙句殺しているように見えるだろう。事実、失敗例だけ見ればその通りだ。しかし治療不可能といわれる病に既存の治療法を行うだけでは絶対に治らない。新しい方法を試さなければ道は開けない。そしてそれには往々にして危険が伴う。
ジャレッドは試した。そして失敗した。失敗しても、神の思し召しだ、命運だったのだと誤魔化さず、素直に自分の失敗だと認めた。すると悪評が立った。あの医師は患者を弄んでいたぶり殺す、残忍な獣のジャレッドなのだと。百の挑戦をして成功は一という有様であったから、成功した一がどれほど画期的で素晴らしいものであっても、九十九の失敗は重くのしかかった。一の奇跡は九十九の悪行の噂を打ち消せない。
その結果が牢屋行きで、不名誉な脱出である。
治せない病に手を出さず、確実に治せる患者だけ治して評判を守る「名誉ある医師」をジャレッドは軽蔑している。それが民衆が求める、患者を絶対に治してくれる「立派なお医者様」の偶像だとしても。
ジャレッドは典医の名声に憑りつかれた嫌味な面を思い出し歯ぎしりした。
気を散らしたせいだろう、片足が滑った。一瞬の浮遊感。頭が真っ白になり、ジャレッドは悲鳴を上げてがむしゃらに手を伸ばした。咄嗟の行動が功を奏し片手で蔓を掴む事に成功するものの、恐怖は収まらない。言葉もなく喘ぎ、あまりに生々しい死の感覚に全身が止めようもなく震えた。
「大丈夫か?」
小鳥が心配して声をかけるが、ジャレッドは力なく首を横に振った。心が折れそうだった。悪い事など何もしていないのに、何故死にかけなければならないのか。
あとどれぐらい降りれば良いのかと下を見てしまったジャレッドは、まだ半分も降りていない事を知り気がくじけた。降りなければどうにもならない事を理解していても、体が動かない。小鳥はしきりに励ましたが、ぶるぶる震えて蔦にしがみつく事しかできなかった。ジャレッドは失敗を恐れないが、自分の命を失う事は恐れた。
「頑張れよ、がーっと行けばすぐだから」
「やだ」
「えーと、そうだ! 降りられたらちゅーしてやるよ! な、ほら、勇気だせって!」
「むり」
「子供かよ! 大丈夫だ、ジャレッドならいけるって! さっきも落ちかけたけど大丈夫だっただろ!」
「こわい」
「おいこらおっさん! いいから! 降りろ!」
時間は刻々と過ぎ、やがて庭を警邏していた兵の一人が塔に絡みつく蔦に張り付いたジャレッドに気づいた。
「貴様! そこで何をやっている!」
「た、助けて下さい! 降りられないんです!」
「はあ? この間抜けめ! そこを動くな!」
兵士は一人での救出は難しいと見て取り、応援を呼んでの大捕り物になった。わざわざ攻城用の長梯子が持ち出され、下で毛布を広げ待ち構える者やら命綱をつけて塔の上から降りる者やら命綱を支える者やら、大騒ぎになる。
降りられなくなったのが猫や子供ならいざ知らず、ぶるぶる震えて固まっているのは無精ひげの痩せ男で、囚人である。ただでさえ低い兵士の士気は救出が長引くにつれて底知らずに下がっていき、もういいから叩き落しちまえと野次が飛び始めた頃になって、ようやくジャレッドは地上に下ろされた。
ジャレッドが自分を背負って降りてくれた兵士に礼を言うと、それはジャレッドを牢に入れたヒゲの兵士だった。
ヒゲの兵士はまたお前か、という顔を隠さない。
「一応聞いておくが、貴様あんなところで何をしていたんだ」
「えーと、脱走、じゃない、綺麗な景色を見たくてですね」
「……もう少し上手く誤魔化せ」
ヒゲの兵士はジャレッドをキツく縄で縛り上げ、連行した。小鳥と謎の仮面美少女はちゃっかり逃げていて、離れた場所では御輿に戻ったシララ姫が困ったような顔で騒動を見物していた。
牢に戻されたジャレッドは半日後には脱走未遂と病の姫の大切な静養を邪魔したとして本当に処刑が決まり、心底震えあがった。
脱出の試みは完全な裏目に終わった。