晶腫1
まだ神々と人が同じ言葉を話していた頃。四海で最も巨きな大陸に、一人の男がいた。名をジャレッドといい、冷たい石床に這い蹲り、左右の近衛兵に槍を喉元に突きつけられ半泣きで命乞いをしていた。
ジャレッドは医者である。
彼はいつも擦り切れ色褪せた黒のマントを身につけ、ボロボロの手袋をした手をポケットに突っ込んでいる。酷い猫背で歩くため年寄りに見られがちだが、今年で二十四になったばかりの若者だ。行く先々で人を治しつつ、自らの病を癒す術を探す旅をしていた。
ジャレッドは自分を治すために医術の道を志したため、健康には人一倍気を使い、癒しの技は若くして既に卓越したものがあった。しかし様々な事情が絡み、幾人もの治療不可能と言われた患者を治していながら、声望は高くない。
この日、ジャレッドは旅先の王都の大通りで王令を伝える告知人が声を張り上げているのを聞いた。国の宝、王の愛娘にして王位継承者であるシララ姫が重い病にかかり、腕に覚えのある医者を募っているという。シララ姫の病を見事癒した暁には褒美は思いのままと聞き、ジャレッドは喜び勇んで王城へ向かった。
わざわざ市井の医者を募るということは、王族専属の典医が匙を投げた難病という事である。それを治せば素晴らしい褒美が。治せずとも難病奇病を診察して得られる知見は貴重だ。王は貴重な霊薬を持っているとの噂もある。
首尾よく進めば自らの病もいよいよ治るかも知れない、とジャレッドはほくそ笑んだ。乞食のような姿のジャレッドが怪しげな薄ら笑いを浮かべるのを見た群衆は目を合わせないようにさりげなく離れていった。
早速王城へ向かい、門を叩いたジャレッドは門兵に胡散臭そうに小突かれたが、
「医者ならばどんな者でも通せと王は仰せだ」
と不承不承通された。
案内されたホールには何人もの医者や、医者には見えない者がいた。テーブルに並べられた菓子や紅茶に舌鼓を打っている者がいれば、他の医者と熱心に議論している者や、怪しげな薬を広げている者もいた。
ジャレッドがやってくると視線が集まったが、みすぼらしい姿にすぐ散った。ジャレッドはこそこそ壁際のカーテンの陰に移動して順番を待った。ジャレッドは医者の間で評判が悪く、交流を試みれば袋叩きに遭うのは分かりきっていた。
ぼんやり待っている内に、王が本当に素晴らしい霊薬を持っているのならそれを使って姫の病を治しているはずだと気づいてやる気が落ちたが、今更帰る訳にもいかない。
一人また一人と呼ばれては奥の部屋に消え、やがてジャレッドの番が来た。
通されたのは姫の寝室で、天蓋付きのベッドには歳の頃十四、五ほどの長い金髪が美しい姫君が半身を起こしていた。そのほっそりした手をやつれた壮年の王が握っている。毛先が跳ねた金髪が二人ともよく似ていた。他に寝室にいるのは典医の老人と、護衛だろう壁際の三人の兵士だけだ。
王はジャレッドの乞食まがいの装いと、萎びた海藻のような黒髪と落ち窪んだ目を見てほんの一瞬眉を顰めたが、すぐに取り繕って尋ねた。
「其方は我が姫を治せるか」
ジャレッドは生を諦めたように儚げな微笑みを浮かべている姫君を一瞥して答えた。
「治せます、報酬さえ頂ければ。なんでも王は貴重な霊薬をお持ちだとか。私はそれを頂きたく。霊薬といってもたかが知れているようですが。まあ、私が治療を終えるまでに御用意下さい。霊薬の内訳がどうであれそれで手を打ちます」
不躾な物言いに、典医の老人は高圧的に忠告した。
「大層な自信を持っているようだが、ホラを吹けばすぐにそうと分かるぞ。今日だけで八人、シララ姫の病につけ込み金をせしめようと目論む不届き者を牢に送った。九人目にならぬよう、ゆめゆめ気をつけ口を利く事だ」
気をつけるも何も、とジャレッドはふてぶてしく返した。
「これは一目で分かる病ですな。末期の晶腫、治すには切除するしかないが病巣の位置が悪い上肥大化が激しい。手術には並外れた技術が要る。それで典医殿も手を出しあぐねているのでは」
典医はジャレッドの正確な見立てに驚き、忌々しげに小さく舌打ちした。
「なるほど、良い目をお持ちのようだ。しかし診るだけならば簡単な事、問題は手術。儂でも困難を極めるのだ。お前のような者では治すどころか取り返しのつかない失敗をするだろう。王よ、やはりこやつも追い返すべきです。信用なりません」
「まあ、待て。其方はちと性急に過ぎる」
王は縄張りを侵された犬のように敵意をむきだしにする典医を抑え、再び問い掛けた。
「我が医者は病に梃子摺る余り少々過敏になっておるのだ、許せ。しかし余も何者とも知れぬ輩に一人娘の命を預ける訳にもいかぬ。其方は自らが我が娘を治すに足る者であると証できるか?」
「はい。私は遍歴の医師ジャレッドと申しまして――――」
「ジャレッド? まさかバクルク・ジャレッドか!? と、捕らえよ!」
名乗った途端、ジャレッドは血相を変えた典医の命に従った兵士によって取り押さえられた。虚を突かれたジャレッドは目を瞬かせ、自分の首に添えられた槍に青褪めた。
「やっ、やめてくれやめてくれ! 刃を当てるな! 死んじゃう! 助けて! ごめんなさい!」
溢れる自信はどこへやら、恥も外聞も無く子供のように泣き叫び命乞いをするジャレッドに王は疲れ切ったため息を吐いた。
「また詐欺師か?」
「似たようなものです。バクルク・ジャレッドといえば医師の間では悪名高い闇医者です。幾度となく患者を惨虐に切り刻み死に至らしめた事から、獲物をいたぶり殺す残忍な獣バクルクになぞらえそう呼ばれております。王よ、この外道畜生に相応しい処罰を」
王は頷き、平坦に言った。
「申し開きはあるか」
「たっ、確かに患者を切り刻んで殺した事はありますが、新しい治療法を試すためで悪気はありませんでした。根も葉もある噂ですが無実です。だから刃を首から退かして下さいお願いします」
許された弁明の機会を有効活用できたかどうかは明白だった。
王が手で合図すると、ジャレッドは抵抗虚しく寝室の外に引き摺り出されていった。
高い塔の中の牢に叩き込まれたジャレッドは、鉄格子越しに絶対槍が届かない距離まで這い逃げてから思いつく限りの悪態を吐いた。
「てめぇこの野郎、馬鹿この、もう、馬鹿野郎! 馬鹿! この、えーと、ヒゲ野郎! バーカ! バーカ! ヒゲ! 馬鹿!」
「お前が馬鹿か。語彙増やせ」
兵士は可哀そうな者を見る目を投げ掛け、牢に鍵をかけて去っていった。ジャレッドはしばらくその後ろ姿を睨んでいたが、やがて改めて牢を見渡した。
牢は十歩も歩けば一周できてしまう狭さで、部屋の隅に藁が積まれ、それを小さな窓から差し込む埃っぽい明かりが照らしている。反対の隅には便所らしき穴がある。壁も床も天井も石、格子は鉄、とくれば脱獄はまず無理だ。窓の外を覗けば、石壁は古びて風化しかけてはいるものの亀裂や出っ張りはなく、唯一使えそうな枯れかけの蔦は小指ほどの太さもなく命綱にするにはあまりに頼りない。極めつけに落下中に恐怖で一回、落下してもう一回死ねる高さだった。他の牢の囚人達もそれを知ってか諦めたように無気力に藁に寝転んでいる。
あんなに誠実に弁明したのに牢に入れられるほど悪評が広まっていたとは、とため息を吐き、ジャレッドも不貞腐れて藁の上に寝転んだ。
まさか命までは取られまい、いや分からんぞ、と悶々とする。報酬は思いのままなどという甘言に踊らされたのがそもそもの間違いだったと反省するが、後の祭りだった。
手術道具を始めとした荷物は全て没収され、やる事がない。茫洋と黴が広がった天井を見上げ不気味な風の音を聞いている内に、ふと城下町で聞いた王城にまつわる怪談を思い出した。
王国に咲く一輪の花、シララ姫は素晴らしい姫だ。姫の御髪は金の髪、姫の御手は白磁の手。齢十五にして聡明、父を敬い民を愛し、姫が微笑めば神も恥じらう。
さてそんな姫にも悩みはある。姫も年頃の娘だ、蝶よ花よと育てられても、厳しい兵士をお供に毎日お稽古お勉強。四つ、五つの部屋を回るだけの狭苦しい毎日に嫌気がさす。そこに来て大病だ、ベッドに縛られ部屋の外にも出られやしない。お可哀そうな姫様は、気丈に振る舞っていても内心遊びたくて仕方なく。それで王城では姫が眠ると生霊が歩き回る……
話を聞いた時は生霊なんて馬鹿馬鹿しいと思っていたが、いざ噂の爆心地に閉じ込められると勝手が違う。ジャレッドはそわそわと周囲を見回した。
気持ちが落ち着かない。ゴーストの内臓がどうなっているのか解剖してみたくて仕方なかった。そもそも臓器があるのか、血は流れているのか、病になるのか。実に興味深い。
わくわくそわそわしている内に眠りに落ち、目が覚めると牢には月明かりが差し込んでいた。
たっぷり昼寝したせいで眠気はないが、隙間風が酷く寒気はあった。申し訳程度の量しかない藁をかき集めて被り、囚人達のいびきを聞きながら爪をいじっていると、牢に続く階段を誰かが上がってくる足音がした。ジャレッドはがばりと身を起こした。期待に目が輝く。
果たして階段からひょっこり顔を出したのは、目と口の部分だけ下手くそな穴を開けた、のっぺりした手作り感溢れる白い仮面を被った謎の少女だった。謎の少女は王族が着ていてもおかしくない上品な白のドレスを着ていて、長く美しい金髪は毛先が跳ねている。
謎の少女には足があり、透けてもいない。薄布をかけて光量を落としたランタンを手でしっかり握って持っているし、何よりジャレッドの目には少女の体の厄介な位置に巣食う晶腫の陰がはっきり見えていた。
生霊ではなかった。ただの生物だった。
「シララ姫、こんなカビ臭い地下牢に尊きお方が何の御用で?」
ガッカリしてまた寝転びながら慇懃無礼に尋ねると、謎の少女は訂正した。
「私はシララじゃない。謎の仮面美少女サララだ」
ジャレッドは首だけ向けて目の前の謎の仮面美少女をまじまじと観察する。身長も体格も髪も、シララ姫と全く同じ。しかし様子は昼間のベッドに臥せる印象の薄い儚げな姫君と違いあまりにも堂々としている。
なるほど、他人の空似か、と納得した。本人もシララ姫では無いと言っている。ならばシララ姫では無いに違いない。
「そいつは失礼。それでサララはどうしてここへ? 見ての通りつまらん囚人しかいないぞ」
そしてその囚人達もジャレッドを除いて寝静まっている。謎の仮面美少女は初めて町にやってきたお上りさんのような浮足立った様子で牢を見渡した。
「いやぁ、部屋に閉じ込められてるよりずっと面白いよ。えーっと、名前なんだっけ?」
「ジャレッドだ」
「ジャレッドはなんで牢屋に入れられてるんだ? 何したんだ」
「濡れ衣だ。俺は無罪だ、出してくれ」
「あ、それ知ってる。犯罪者はみんなそう言うんだ」
「……確かに!」
納得してしまったジャレッドを見て、謎の仮面美少女はくすくす笑った。
「ジャレッドは面白いな。なあ、なんか話してくれよ」
謎の仮面美少女はのこのこ鉄格子の前まで来ると、ランタンを置き、行儀悪く足を投げ出して座り込んだ。仮にも囚人を前にして無警戒だ。
相手がシララ姫なら王に取り次いで釈放してくれと泣きつくところだが、謎の仮面美少女はシララ姫ではないので仕方ない。一体何者なのか全く想像もつかなかったが、長い夜の暇潰しをするのは吝かでは無かった。
「面白い話はできないぞ」
「ジャレッドの得意な話でいい」
「……医学の講義でもしてやろうか?」
「おーっ! 面白そう!」
謎の仮面美少女は手を叩いて無邪気に喜んだ。
楽しい話の基本は相手が興味を持つ話題選びである。ジャレッドは、謎の仮面美少女にとって今一番気になっているであろう、彼女を蝕む病「晶腫」について語る事にした。
「サララが罹っている病は晶腫という。晶腫は生き物が罹る最も一般的な病だ。魔力消化器官である石溶が正常に働かなくなり、消化不良の魔力屑が体のどこかで結晶化し大きくなる症状を示す。晶腫を発症しても通常は時折異物感を感じる程度で生活に支障はなく、二、三個の晶腫に侵されたまま何事もなく生涯を終える場合もままある。
しかし魔力器官のそばに晶腫ができた場合は話が違う。魔力の暴走の危険があり、命に関わる。
それでサララの晶腫はだな、石溶に、こう、がっちり食い込む形で拳大のができている。ここまで悪い位置にできた晶腫は俺も見たことがない。それでも小さければ切除はそう難しくないが、大きさもかなりの物だ。あと三日もすれば成長した晶腫が石溶を突き破るだろう。一度石溶がやられれば取り返しがつかん。まあ、死ぬ。つまりサララは余命三日だ」
ジャレッドはある意味誠実な医者であった。
死ぬ患者には死ぬと言い、失敗の危険がある手術をするならはっきり失敗するかもと告げる。
前代未聞の難しい手術を前に怯える患者に、手術に失敗したら遺体は解剖していいかと臆面も無く尋ねた事も何度もあった。そういった部分が悪評を助長しているのだが、当人はどこ吹く風である。人の気持ちがわからないわけではない。分かった上で言っているのだから質が悪い。
歯に絹着せぬ余命宣告を受けた謎の仮面美少女は、半信半疑だった。
「嘘っぽいなぁ。婆やがここは最低のヤブ医者が閉じ込められてるって言ってた。確かに最近調子悪いし医者にも診て貰ってるけど、死ぬだって? 適当な事言ってるんじゃないのか?」
「信じないのは勝手だ。だがきっと婆やとやらも似たような話をしてただろ。詳しい話は伏せて、治ります、大丈夫です、なんて耳障りの良い言葉を吹き込んでいたんじゃないか」
謎の仮面美少女は口を開きかけ、閉じ、考え込んだ。思い当たる節があるようだった。
ジャレッドは鼻を鳴らした。全く馬鹿馬鹿しい事だ。怪我をしている患者に怪我をしてないよと言う医者はいない。なのに、命の危機にある患者には大丈夫だと言うのだ。ジャレッドが患者なら、そんな嘘つきは信用しない。真実は残酷だが、眼を逸らしても消えてはくれないのだから、受け入れて立ち向かわなければならない。
やがて謎の仮面美少女は恐る恐る尋ねた。
「私は死ぬのか? あと三日で?」
「死ぬ」
ジャレッドが誤解の余地がないよう断言すると、サララは曖昧にそっか、と呟き、鳩尾をさすりしきりに首を傾げた。
晶腫は自覚症状が薄い病である。死に掛けている自覚が持てないようだった。それでもいい、と内心でジャレッドは頷いた。病への向き合い方、向き合うペースは人それぞれだ。
ジャレッドは何も患者を怯えさせたいわけではない。患者に自らの症状を正しく認識させたなら、次は治療法を示す。
「安心しろ、手術すれば治る」
「本当か!」
身を乗り出す謎の仮面美少女に頷いてみせる。
「ああ。サララの晶腫は摘出が難しいが、俺ならできる。なんなら報酬さえ貰えれば今ここでやってやる。ああいや、手術道具は没収されてたか」
「報酬って?」
「火竜血清とか、万能延命薬とか、そういうやつ。要は霊薬だ。霊薬の素材とか新しい手術道具とか薬学読本とかでもいいが持ってないだろ」
「霊薬も持ってない。お金じゃ駄目なのか?」
「馬鹿、金なんか飲んだって病気は治せないだろうが」
「そうだけどさあ。なあ、なんとかまけて貰えない? 金なら払えるぜ。その金で霊薬買えばいいじゃん」
「駄目だ」
「ケチ!」
「なんとでも言え。報酬を払えないなら手術はしてやらん」
ジャレッドはきっぱり言った。世の中には慈善事業で人を癒して回る医者もいるが、ジャレッドは違う。ジャレッドの行動原理は、不治とされている自分の病を癒すことである。霊薬を手に入れるため、医学知識を深めるため、はたまた経験を積むために、他人を癒しているに過ぎない。患者を憐れんで一度でも無料で診れば、図々しい病人が押し寄せ酷い目に合う事をジャレッドは経験的に知っていた。
ちなみに現金払いを断るのは金の使い方が下手過ぎるからである。金を騙し取られたりスられたり川に落としたり強奪されたりするのはジャレッドの十八番だった。
謎の仮面美少女は考え込み、やがて何か思いついて言おうとしたが、その前に再び階段から足音が聞こえた。金属質の重い足音。兵士のものだ。
「行かないと。またな、ジャレッド」
謎の仮面美少女はカンテラを掴んで慌てて立ち上がり、足音を殺して去って行った。
入れ違いに、夜間巡回中の兵士がやってきた。ジャレッドを牢に入れたヒゲの兵士だ。兵士はジャレッドがまだ起きているのを見てびくっとした。鼻をひくつかせ、首をかしげる。微かな香水と焦げたランタン油の匂いが残っていた。
「誰かいたのか?」
訝しむ兵士に、ジャレッドは少し考え、肩をすくめた。
「姫の生霊と話してたのさ」