お姉ちゃんの定理
1
姉はいわゆる、残念な美人である。
歳は僕の三つ上の大学二年生で、昔から美人と近所では評判だ。姉目的で弟の僕に近寄ってくる人間も多い。
「なあ、今度の休みに、お前の家に行っていいか? スプラトゥーンで対戦しようぜ」
放課後の教室で、クラスメイトが話しかけてきた。
「おお、いいね。やろう。じゃあ土曜の午後からでいいか」
スプラトゥーンは最近ハマっているゲームで、この誘いは僕には嬉しいものだった。
「ああ、それでいい。……ところで、姉ちゃんはいるか? 星乃珈琲のスフレパンケーキを土産に持っていこうと思うんだが……」
「姉ちゃんは、土曜ウチにいないぞ」
僕の答えに、友人はがっかりしたようだった。
「……よく考えたら、スプラトゥーンはネット対戦でもいいか」
……おい。
こういうとき、姉の弟であることが嫌になる。
将を射んと欲すれば先ず馬を射よという諺があるけど、僕は姉の馬ではないし、姉は僕の将ではない。たとえ僕と仲良くなったところで、姉とは何ら関係がないのだ。
そしてとても言いたくなるのだ。姉が休日に何をしているか。姉は普通の人が恋い焦がれるような乙女ではないと。言いたくてたまらなくなる。
僕の姉は、数学に取り憑かれているのだ。
2
数学の狂気が、姉を支配している。
それに気づいたのは、いつからだっただろう。僕が物心ついた頃、最初の記憶は、二人で本を読んでいる場面だった。
僕は「百万回死んだ猫」とか「ふたりはともだち」を読んでいたと思う。姉は、市の図書館で見つけてきたペレリマンの「遊びの数学」を読んでいた。数学のパズルや数合わせ、幾何学的図形問題などが載っている。僕は自分の絵本が読み終わると、姉に話しかけた。
「お姉ちゃん。読み終わっちゃった。遊びに行こうよ」
「……」
「お姉ちゃん」
返事はない。姉は鉛筆を片手に、本に書き込みをしていた。図書館の本なのに。
「…………全然できないよぉぉぉ!」
急に大きな声を出した姉に、僕はびっくりしてしまう。
「お姉ちゃん……?」
「難しい。難しいよぉ」
姉は遊びの数学のページを凝視したまま、顔を真っ赤にして問題を睨みつけていた。
どうやら遊びの数学に出ていた問題が解けなくて困っているようだった。
僕は姉の肩から問題を覗き込んだ。橋の問題だった。
川にかかっている橋を二度通らずに、全て渡って、元の場所に戻るという問題である。
本のページは、姉が鉛筆で書き込んだルートでびっしり埋まっていた。
姉は後ろから覗き込む僕に気づかないほど、懸命に鉛筆で一筆書きが出来るルートを探していた。
今にも泣き出しそうな姉がかわいそうで、僕も一緒に本のページを見た。
そして僕は、直感的にあることに気付いた。
これは、多分……解けない。
橋を線、陸地を点と考えた時、点から出ている線の数が、全て奇数だったのだ。
点から線を通って、元の点に戻るためには、点から出ている線の数がすべて奇数では、元の場所には戻ることが出来ないんじゃないか。
解けない問題なんじゃないか……? いや違う。
問題の橋が、実際より一本多いのだ。本に書き込み過ぎて、鉛筆で書いた橋を問題の橋だと勘違いしているようだった。これは後に姉から知ったのだが、橋が一本多いことで、ケーニヒスベルグの橋という一筆書きが絶対に出来ない問題になっていたのだ。
「お姉ちゃん。この橋、お姉ちゃんが鉛筆で書いただけで、本の問題にはないよ。これを消してみれば解けるんじゃないかな」
姉は僕の方を振り返ると、また本のページを見た。
「あ! ホントだ!!!」
姉は消しゴムを使い、鉛筆で真っ黒になったページをごしごしとこすった。
さっきよりも橋が一本減った問題を、姉はまた解き始めた。
僕は後ろから覗き込みながら、言った。僕は早くお姉ちゃんと遊びたかったのだ。
「お姉ちゃん。分かったよ。このルートだよ」
そう言って、僕は指でルートを示した。
「ほら。こうすれば行けるでしょ」
姉は僕が言ったルートを、鉛筆でゆっくりなぞった。
姉の鉛筆はすべての橋を渡って、同じ橋を二度通らず、最初の場所に戻ってきた。正解だったのだ。
「ね。できた! よかったね! お姉ちゃん、遊びに行こうよ!」
あるいは、と僕は思う。
僕は姉が喜んでくれると思ったのだ。問題を解いて一緒に遊びに行こうと思ったのだ。
姉が振り返った。そこに笑顔はなかった。
目からは大粒の涙がポロポロとこぼれていた。
悔しそうに歯噛みして、姉は肩を落とした。
「お姉ちゃんだって……分かってたもん……」
今になって、僕は考える。
あるいはこのとき、姉に数学の狂気が宿ったのかもしれない、と。
姉はその後二日で、「遊びの数学」に載っていた残りの問題をすべて解いた。
3
家に居るとき、僕は大抵ゲームをしている。
最近はまっているのはスプラトゥーンである。シューティングゲームと陣取りゲームが合わさったようなゲームで、高い戦略性が楽しい。特に好きなのは計算する箇所が多いってことだ。
ゲームをやりながら、僕はゲーム内を支配しているシステムに考えを巡らせる。
弾が飛ぶ速度を計算し、キャラクターの動きを計算する。行動を予測して、陣地を塗りながら全体の塗り率を更新していく。
敵が来た。大丈夫。一秒前に予測して弾はもう置いてある。
敵が弾けた。ゲームが終わる。これでぴったりだ。結果を確認するまでもない。
ジャスト51パーセントで僕のチームの勝ちだ。
ゲーム終了後、猫のキャラクターがジャッジをして、その通りに僕らの勝ちを告げた。
「ふぅ~」
一息付く。
僕はゲームを支配する演算を数学的に見ることが出来た。
絶対音感という力がある。音を聞いたとき、即座に音名と階名表記を使用して表現できる力だ。
どうやら僕にはそれの数学バージョンとも言える力があるようだった。
気持ちの良い物理演算を見ると胸が高鳴る。
だから僕は普通の人よりもゲームがより楽しむことが出来た。
特にアクションシューティングはいい。
日常生活でもこの妙な特殊能力は発揮されており、歩いているときも電車に乗っているときも、気付くと周囲を構成する数学的要素を計算していた。
面倒極まりない能力である。
「ただいま~」
僕がリビングで麦茶を飲んでいると、姉が帰ってきた。
僕はおかえりと返す。姉は、毎日大学図書館で過ごすのが日課になっていた。
授業が終わると図書館に直行して、閉館まで数学の勉強をしている。
まだ二年生なのに、研究室に顔を出すことも多い。
休日などは朝早くから出かけて、お弁当を持参して大学に行き、夕飯前に帰ってくる。姉はもう受験生ではない。でも、もう何年もそんな生活を続けている。
何が楽しいのか僕にはさっぱり分からない。
ブツブツと呟きながら、リビングに入ってきた姉は、僕の姿を認めると軽くにらみつけた。
「まぁたゲームしてたでしょ!」
なぜかぷりぷりと怒っている。
「お姉ちゃんだって、どうせまた数学やってたんでしょ」
僕は言い返す。
「お姉ちゃんは大学生だから勉強が本分なの。キミはゲームが本分じゃないでしょ。ちゃんと勉強しなさい」
「学校の成績は、維持してるよ……」
嘘じゃない。数学だけはトップなのだ。他は常に低空飛行だけど……。
「それはちゃんとって言わないの。学校の成績を維持しているくらいでいばらないで頂戴」
こう言われると、僕は弱い。
姉が昔通っていた県内一の進学校に通って全教科平均で中の上くらいの位置をキープしているのだが、姉に言わせるとそんなことじゃ全然足りないらしい。実際姉に比べたら全く足りてない。
「うるさいなぁ。僕はそこそこの成績でそこそこの大学に入って、そこそこの会社で良い暮らしをしたいだけなんだよ」
「……なんで暮らしだけそこそこじゃないのよ」
「……とにかく。姉ちゃんは天才なんだから僕と比べないで欲しいんだけど!」
「志が低いって言ってるの。それに私は……天才なんかじゃない」
「姉ちゃんが天才じゃなかったら、誰が天才なのさ」
日本の最高学府に入って、若干二十歳で数学の論文を3本も書いて高い評価を受けて……そういえば昔数学オリンピックで金メダルも取っていた。正直僕には訳が分からんレベルで天才である。
それでも毎日勉強して、更なる高みを目指している。
正直、尊敬している。
「キミは、本当に馬鹿だよ」
姉は言った。
「ひどいや。姉ちゃんにそう言われて、言い返せる人が何人いるのって話だよ」
でも、僕に勉強させようとするのは勘弁して欲しかった。
僕と姉がつまらない言い合いをしていると、母が呆れながら夕食が出来たことを告げた。
今日はイズミール風肉団子とキャベツの冷製ドルマらしい。
父も帰ってきて、一緒に食卓を囲むが、姉はまだ不機嫌だった。
食事の終わり際、姉が小さくため息をついた。
本当に小さくて、本人さえ気付いてないかもしれない。
姉がとても疲れているように、僕には見えた。
4
「ケーニヒスベルグの橋は、絶対に解けない問題だったんだよ」
小学生の頃、僕は姉に言われたことがある。
「ケーニヒス……? 何の話?」
「昔一緒にやったじゃない。橋の問題よ。お姉ちゃんが橋を一本多くしちゃって、解けなくなった問題」
姉は人差し指を立てた。姉のしゃべるときの癖だった。
「ああ、そういえばあったね」
僕は記憶を辿り、当時を思い出した。
「実はあのあと、一本多い橋の問題をずっと考えていて、解けないことが分かったの。絶対に解けないって証明をお姉ちゃんは見つけたんだ」
姉は一つの問題について、いつまでも考え続けることが出来た。解けない問題をずっと考え続けるのはとても神経を使うし、僕にはとても出来なかった。
「証明……?」
「つまり、グラフの点と線の問題について、何でも分かっちゃう魔法の鍵を見つけたってこと! この鍵を使えば、グラフの点と線の問題が解けるかどうか、タチドコロに分かっちゃうんだ!」
姉は得意げに鼻をならした。
「……よく分からないけど、お姉ちゃんはすごいね!」
姉は喜ぶかと思ったが、首を振った。
「それが……この問題、ケーニヒスベルグの橋問題って言って、レオンハルト・オイラーって人がもう証明してたのよ」
僕は聞いたことのない名前だったけど、多分有名な偉い人なのだろうと思った。
「じゃあお姉ちゃんは、そのオイラーさんと同じ証明を自力で見つけたってことなの? だったらとてもすごいことなんじゃないのかな」
「そんなんじゃ全然ダメだよ。もう見つかっている証明を見つけたって、価値はないの」
姉は真っ直ぐ僕を見た。
「お姉ちゃんはね。自分だけの証明を見つけたいの。世界中の誰もが分からなかった問題を解いて、それに名前を付けてあげたいんだ。『お姉ちゃんの定理』を見つけたいのよ。それが夢なんだ」
お姉ちゃんの定理……。もし教科書に載っていたら、かなり浮きそうな名前だった。
「キミは分かっていたんでしょう。あのときひと目見て、ケーニヒスベルグの橋は解けないって分かったんじゃないかな。だからあんなに早く、問題の間違えを見つけられたんじゃないのかな」
僕は答えなかった。姉は続けた。
「ねえ。一緒に数学をやろうよ。キミの発想と計算力があれば、私たちは歴史に名前を残せる。数学的な記述は私に任せて。二人で力を合わせれば『お姉ちゃんの定理』だって、きっと出来る。目指そうよ、一緒に。数学の、高みを」
姉は僕に手を伸ばした。
姉は遊びの数学を読んで以来、ずっと数学に打ち込んでいた。中学生なのに、ファッションにも恋愛にも興味を示さず、ただひたすらに数学の問題を考え続けていた。僕にはそれが理解できなかったし、やめて欲しいとさえ、思っていた。
だからつい言ってしまったのだ。
「でも、数学なんてやったって、何の役に立つの?」
だって大して儲からなそうだし、受験勉強以外で使うことなんて日常生活にはないじゃないか。何か大変そうだし。僕はもっとのんびり平穏に暮らしたいのだ。解けない問題に一生頭を悩ませるなんてしたくない。
僕がそう言うと、姉の顔はみるみる紅潮し、手が震えてきた。
そして。
「バカーッ!」
姉は力の限り叫ぶと、踵を返して部屋から飛び出し、しばらく家に戻ってこなかった。
夜になっても帰ってこない姉に、心配した両親が僕を探しに行かせた。
街中を散々探し回って、見つからないまま家に帰ってくると、姉がいて、夕食を食べていた。
姉はまだ怒っていた。
「どうした。何があったんだ」
父が僕らに話しかける。
僕が説明しようとすると、姉が遮った。
「なんでもないよ! 遅くなってごめんなさい! ちょっと頭を冷やしてきただけ!」
姉は僕を一瞥した。
「キミも食べなよ!」
何だかとても理不尽な気がしたが、僕は何も言えず、食卓に着き、遅い夕飯を食べた。
以来、姉が僕を数学に誘うことはなくなった。
5
夕食を食べ終えると、姉は二階の自室に戻った。
足取りは重く、やっぱり疲れているように見えた。
僕がリビングのソファーでお茶を飲みながら、スマートフォンをいじっていると、父が隣に座った。
「今日も母さんのご飯は最高だったな」
ガハハと笑い、コーヒーを飲みながらテレビを点けた。
「今日は特においしく出来たわ。トルコ料理もレパートリーに加えようかしら。どう?」
母も正面に座り、視線で僕に返事を促してくる。
「うまかったよ」
何となく、ぶっきらぼうに答える。
テレビではドキュメンタリー番組がやっていた。視線を少し移すと、珍しいことに数学のドキュメンタリーだった。
リーマン予想の証明に挑戦する人たちの話である。
姉が好きそうだった。
「数学の番組とは珍しいな」
「そうね。お姉ちゃん呼んで来ようかしら」
両親は言った。
「姉ちゃんはテレビを見ないよ」
僕が言うと、両親はまあそうだなとそれぞれのお茶をすすった。
ドキュメンタリーは、数学の難問であるリーマン予想の説明から始まり、それに挑む人々の活躍と苦悩が描かれていた。
リーマン予想は、数の原子である素数という不規則な数に法則を見つける試みだ。
僕には何が何だかさっぱり分からなかった。しかし、世界中の天才たちがいくら挑んでも解けない難問中の難問であることは分かった。自然界の法則ともつながっており、これを解くことが出来れば、人類は新たなステージへ進むとも言われていた。
そんなことあるのかなぁ。大袈裟じゃないかな。
リーマン予想はあまりにも難しすぎて、挑むのは自殺行為と呼ばれ、実際に何人もの数学者が心を病んでしまったそうだ。
怖いなぁ。
僕はお茶をすすった。
とても、怖い。
一生を賭けて、自分の全てを捧げて、それでも達しない場所がある。
諦めなければ夢は叶うとか、努力は必ず報われるとか、そういう幻想が一切通じない場所。
それが、数学の高み。
正しいか正しくないか。二つに一つ。
どこまでも美しく、どこまでも厳しい世界。
たった一つのミスで、それまでの全てが崩壊する。
気付けば僕は、食い入るようにテレビを見ていた。
番組の最後は、リーマン予想を証明したとされる論文を、老数学者が郵便ポストに投函するシーンで終わっていた。老数学者がリーマン予想の論文を出すのは、四回目だと言う。
証明は、何年もかけて多くの数学者の査読に耐えなければ認められない。
一つの矛盾も、飛躍も、誤謬も許されない。
老数学者の証明が正解であればいいと僕は思った。
それで彼の戦いは終わる。人生の目的を遂げられる。
でも、証明を投函した彼の表情が、戦いはまだ終わってないことを告げていた。
「すごい世界なのね……」
番組のエンディングを見ながら母は言った。
「そうだな……選ばれた人間しか行けない世界だ」
父の言葉に、僕はふと天井を見上げた。リビングの上の二階には、姉が居る。
僕の視線に気付いたのか、父が言った。
「お姉ちゃんは、とんでもないところに行こうとしているんだな」
誇らしげな父に、僕は頷いた。でも、僕は父ほど楽観的になれなかった。
もし叶わなかったら、どうなるのだろう。
夢破れて、何が残るのだろう。
それまで全てを賭けてきたものが、打ち砕かれたら、人はどうなってしまうのだろう。心が、壊れてしまうんじゃないだろうか。
姉の先ほどのため息が、鮮明に思い出された。
姉は毎日数学に取り組んでいる。もう何年も数学のことしか考えていない。
姉の研究はうまくいっているのだろうか。
僕とはあまりにも違いすぎて、きっと何とかしてしまうんだろうと思っていたのだ。
本当にそうなんだろうか。
姉の居る場所は。
姉は、もしかして、疲れ切ってしまったんじゃないのか。
姉の喜びは数学であったし、姉の悲しみや怒りも、数学に起因している。
それを思えば、近頃の姉の様子はどうみても疲れているようだった。
何にだろう。
きっと、数学にだった。
6
自宅にテレビ局のクルーが来るというので、中学生だった僕は、関係ないのに少し緊張していた。
父はスーツを新調して、母は美容室に行き、僕は家中の掃除をして、テレビ局の人たちを迎えた。
テレビ局の目的は、国際数学オリンピックで、高校生女子として日本初の金メダルに輝いた、僕の姉だった。
父と母は、ぎこちなく子育てのことや、姉の幼い頃の話をしていた。
父は営業職のサラリーマンで、母は看護師である。数学のことにはまるで疎い。
でも、だからこそ、娘を誇りに思っているのが言葉の端々から伝わってきた。
僕は全く関係ないので、取材を受ける姉を、部屋の隅から眺めていた。
「君は数学のどんなところが好きなのかな?」
インタビュアーは姉に言った。
横に居たカメラマンは、ソファーに座る姉の全身を舐めるように映していた。
僕は何となく、嫌な予感がした。
「私は数学の永遠の美しさに惹かれます」
姉ははっきりと言った。インタビュアーはにこやかに応じる。
「永遠……? 具体的にはどういうことでしょうか」
姉は一つ咳払いをすると、続けた。
「つまりですね。二千年前に証明された数学の定理は現在も正しいし、二千年後も間違いなく正しい。そして宇宙のどこに行っても、正しいんです。そんな学問は、数学だけです。そういう永遠性に、私は惹かれます」
輝くような瞳で姉は語っていた。数学について語るとき、姉はいつも嬉しそうだった。
インタビュアーはうんうんと頷いた。
「なるほど、なるほど。確かに、そうです。仰る通りです。では将来の夢はやはり数学者ですか?」
「はい。私もいつか、数学界に大きな貢献をして、数学の永遠の一部になりたい。そう思います」
「素晴らしい夢ですね。本日はありがとうございます」
「はい。ありがとうございます」
インタビューは終わった。両親はほっと一息ついたように顔を見合わせた。姉も緊張していたのだろう、大きくため息をついて、僕の方を向くと小さくガッツポーズをした。
「数学がメディアに取り上げられることってあまりないから、テレビを見て、数学をやる人が増えればいいなぁ」
インタビューの前に姉は言っていた。姉は人前に出るのも目立つのも好きではない。一人静かに数学に打ち込みたいみたいだった。そんな姉がテレビのインタビューを承知したのも、数学のためだった。学問は一人の天才だけで出来るものじゃない。多くの人がその学問に参加して、裾野が広がり、ちょっとずつ知見が深まることで発展していく。広がった裾野の一番大きな尾根が天才と呼ばれる人たちなんだと、姉は言っていた。裾野が狭ければ、尾根もまた低い。
何となく嫌な予感がしていたインタビューだけど、僕は少し安心した。
僕は姉に手を振り返した。
カメラマンが機材を片付けて、インタビュアーも身支度を整えて家を出る準備をしていた。
インタビュアーが鞄を手に持って、立ち上がろうとしたときである。
「それにしても、娘さんは美人ですねぇ」
インタビュアーが父親に話しかけた。
父親が曖昧に頷いていると、インタビュアーは続けた。
「素晴らしい美貌ですよ。正直、僕などは間違ってアイドルのお宅に来たのかと思ってしまったくらいです」
インタビュアーは姉の方を見た。
「どうかな? 君さえ良かったらいい芸能事務所を紹介するよ。こいつなんて、いっつも若いアイドルを撮っているくせに、今日は特に気合い入ってたよな。ご両親そっちのけで、君ばかり撮っていたんだから」
そう言ってインタビュアーはカメラマンの肩を叩いた。
「はぁ……すいません。あまり興味がなくて」
姉は少しうんざりしたように言った。
まずい。
インタビューはしゃべり続けた。
「いやぁ、勿体ないよ。天才数学美少女! これは間違いなく売れるね。業界二十年の僕が保証するよ。受け答えもしっかりしてるし、数学っていう特技もあって、この美貌! 世間は放っておかない! お金持ちになれるよぉ! 芸能人とも知り合いになれるし、イケメンもたくさんいるよ。好きでしょ? イケメン」
それ以上は、やめるんだ。
「国際数学オリンピック金メダリストだって、大して儲からないでしょ? 数学なんて、役に立たないし儲からないことはやめて、芸能界で一攫千金! 楽しいよぉ」
あ……終わった……。
インタビュアーのおじさんが言いたいことは分かる。僕にはよく分かるよ。
そういう生き方、とてもいいと思う。僕がお姉ちゃんの立場ならそうする。
でも数学者には逆効果なんだ。数学者のお姉ちゃんには。数学の価値をお金で計るなんて、一番無意味で怒りを買うんだ。
饒舌に喋り続けるインタビュアーの前で、姉は無言で立ち上がった。
「ふっ、ふふふ……よくも言ってくれたわね」
その声は震えていた。
「真理に敬意を払えず、お金でしか物事を判断できない俗物が……よくも私の前で数学をバカにしてくれたわね」
目には涙が溜まっていた。
「……はい?」
インタビュアーは何を言われているか分からないようだった。
「返しなさい。さっきのインタビューを。あなたたちに語ることなんて、何もない」
お姉ちゃんは手を突き出して、返せとジェスチャーをした。
「え? 急にどうしたんですか。インタビューは……」
インタビュアーは、なぜ突然姉が怒り出したのか、よく分からないみたいだった。
そりゃあそうだろう。僕だって、根っこのところはよく分からないのだから。
僕は飛び出した。
姉は無言でカメラマンからカメラをひったくると、慣れない操作で、カメラ内のデータを消去しようとした。
「はあ? 何してくれてんだ!」
インタビュアーが叫んで姉に掴みかかろうとするのを、僕は止めた。
父と母は呆然としていた。
カメラ内のインタビューデータは消された。
テレビ局の二人は激怒していたが、姉はそれ以上に怒っており、収集がつかなくなっていた。
父と母が何とか両者を宥めて、この場は散会となった。
この出来事以来、姉は二度とテレビを見なくなった。
ときどき思う。
もし、姉が芸能界に入っていたらどうなっていただろうかと。
綺麗に着飾ってバラエティに出て、たくさんお金をもらって、芸能人と浮き名を流して……。
今の姉を見ていると、ちょっと想像できないことだった。
7
ドスンと、二階で大きな物音がした。
姉の居る部屋からだった。重いものが倒れるような音である。
僕は音の大きさから考えられる物体の重さを計算していた。ちょうど人が倒れたときの大きさだ。
「なんだ? ちょっと見てきなさい」
父が僕に言った。
僕は言われるまでもなく立ち上がった。
(姉ちゃん——!)
姉は最近、とても疲れている。
嫌な予感がした。さきほどの数学ドキュメンタリーを思い出す。
苦悩する老数学者の姿が、姉に重なる。
数学の難問で、何人もの天才数学者が心を病んでしまった。
まさか。
僕は階段を駆け上がった。
姉の部屋の前で、ノックもせずに、
「姉ちゃん!? 入るよ!」
声をかけながら扉を開けた。
部屋の中で、姉が倒れていた。ぴくりとも動かない。
「姉ちゃん!」
僕が駆け寄って声をかける。
すると。
「わーっ! 勝手に入って来ないでって言ってるでしょー!」
倒れていた姉が、がばりと起き上がった。
「あれ……? 大丈夫? 何があったの?」
姉が恥ずかしそうに前髪を整えた。
「ちょっと、考え事してて……逆立ちしたら良い案が浮かぶかなぁって思ってたら……手が滑って……」
「それで、倒れちゃったの?」
姉は無言で頷いた。
僕は盛大にため息をついた。
「ああ、良かった。姉ちゃん疲れているみたいだったから、結構心配しちゃったよ」
「疲れてる……? 私が?」
「うん。違った?」
「いや、合ってるよ。キミは意外と私のことちゃんと見てるよね」
「べ、別に見てないけど!? どうせ数学のことで悩んでいるんだろうなと思ってたし」
僕はばつが悪くて、頭をかいてごまかした。
姉はそんな僕の様子を見て、笑っていた。
「それで、リーマン予想のドキュメンタリーを見ていて、苦悩する数学者が私と重なってしまったと」
「まあそんな感じ」
僕は姉の部屋でソファーに座り直して話していた。
「リーマン予想に挑む人で有名な人は一杯いるけど、何度も論文を出している人はルイ・ド・ブランジュ博士かなぁ」
「え? 知ってるの?」
「論文を読んだことがあるから。リーマン予想は専門じゃないから詳しくは分からないけど。ビーベルバッハ予想を証明したすごい人なのよ」
姉の言う「詳しく分かる」というレベルは、僕と全く違うのだろうなと思った。
「そんなおもしろそうな番組がやってたなら、教えてくれれば良いのにぃ」
「姉ちゃん、テレビ見ないじゃない」
「そういえばそっか。でも数学の番組なら今度から教えてよね」
「ん。分かった」
たけしのコマ大数学科が放送されるときは知らせてあげようと思った。
「姉ちゃんの抱えている問題も、やっぱり難しいの?」
僕は改めて訊いた。
「うん。難しい」
姉は頷いた。
「だって、恋の悩みだもの」
「え!?」
僕は天地がひっくり返るんじゃないかと思うくらい驚いた。
姉の端正な顔立ちが憂え気に伏せられた。
僕は自分でも分かるくらい動揺していた。落ち着け。
「そそそそその、相手は、どんな人なの……?」
「ごめん嘘。本当は数学の悩み」
「その嘘いる!?」
どうもさっきから姉にペースを握られっぱなしである。
「姉ちゃんはその、数学の悩みで最近疲れているんだよね」
僕は数学の悩みという部分を強調して言った。
「キミ、ちょっと失礼だよね。私が本当に恋の悩みを抱えていたらどうするつもりなの」
「あり得ない仮定は排除します」
「ひどい!」
姉は笑った。
「三ヶ月前に書いた論文の内容を整理して、新しい論文を書いているんだけど、行き詰まっちゃってね。あと一歩で、『お姉ちゃんの定理』に行き着けるんだけど、そのあと一歩がなかなか踏み出せなくて」
「お姉ちゃんの定理……」
「そう。覚えてる? 昔話したよね。私だけの定理を見つけるって」
「覚えてるよ。その名前は止めた方がいいと思うけど」
「オイラの定理があるんだから、お姉ちゃんの定理があってもいいと思ったのよ」
「オイラが人の名前だって分かっているくせに」
「まあとにかく。教授とも色々議論しているんだけど、なかなか進まなくて。だから近頃その疲れが出ているのかもしれないわ。教授の専門とも、少し外れているから、イマイチ議論が進展しないのよねぇ」
姉は大学教授と、対等以上に話が出来るようだった。ちょっと信じられないことである。
「うまくいってないのは確か。でも、別にへこたれちゃいないわ。やるしかないんだから。大丈夫よ。心配してくれてありがと」
姉の言葉が本気なのか強がりなのか、僕には分からなかった。
「姉ちゃん。それって僕が手伝える?」
どうしてそんなことを言ったのか。
ふと口をついて出た、軽はずみな言葉だった。
現象を数学的に捉えられる力が、僕にはあった。
それで、姉の悩みを解決できるなら、助けてあげたいと思ったのだ。
姉は目を丸くしていた。
「どういう風の吹き回し?」
「……姉ちゃんが困っているなら、その……助けたい。今日、そう思ったんだ」
うまく言語化出来ない。
「例のドキュメンタリーの影響?」
「それもあるかも」
姉は大きく息を吐いた。
「バカにしないでよね」
姉の答えは、明確な拒絶だった。
「キミは確かに、数学の才能があるよ。それは私も認めてる。でもね。キミはそれを磨いてこなかった。私は数学の才能があまりないかもしれないけど、磨き続けてきた。その差は大きいよ」
姉はまっすぐ僕を見据えていた。
「私の手伝いがしたいなんて、甘いわ。キミは、数学の高みを、本気で目指す気があるの?」
僕は。
姉のように、出来るのだろうか。
ルイ・ド・ブランジュ博士のように、一生を一つの問題に捧げる覚悟があるだろうか。
多分今、僕にあるのは、姉を助けたいというふわりとした思いだけだ。
動機は不明瞭で、姉の質問の答えは明白だった。
姉は続けた。
「だから、私は言ったのよ。ちゃんと勉強しなさいって。バカ……」
姉はどこか寂しげに、そう言った。
8
「なあ、今度の土曜日、お前の家に行っていいか? スプラトゥーンしようぜ」
放課後の教室で、姉目当ての友人が言った。
「オッケー。でも、姉ちゃんはいないぞ」
友人はあからさまにがっかりしたようだった。
「マジかよ。今度はモンサンクレールのケーキを買っていこうと思ってたのに! 実は俺、お前の姉ちゃんが目当てなところがあるんだぜ」
それは知ってる。
「お前の姉ちゃんって、いっつも居ないよな。大学生だから忙しいんだろうけど」
「やめといた方がいいよ」
「なんでだよ」
「姉ちゃんは、男なんかより、数学とか言う、残念な遊びに夢中なんだから」
僕は何の力もなれない数学をそう吐き捨てた。
我ながらかっこ悪いと思う。
しかし友人の答えは予想外のものだった。
「知ってるよ。お前の姉ちゃんの論文で、気になっているところがあってちょっと議論したいんだよ。宇宙際タイヒミュラー理論の応用について、俺と解釈が違うっていうか、論理の飛躍があるような気がしてさ」
姉目当ての友人は、すらすらと僕には分からない単語を言った。
「……は? お前何言って」
「だから! お前の姉ちゃんが三ヶ月前に書いた論文について話がしたいの! まさかお前、読んでないの? 自分の姉ちゃんなのに。大体、お前、数学を残念な遊びなんて言ったら、俺だからいいけど、普通の人ならぶっ飛ばされるぞ」
「待て。全然話が見えない。まさか、お前も、そうなのか」
僕といつもスプラトゥーンの対戦をしているこの友人は、僕と同じく数学の成績は常にトップだった。いつ勉強しているのか分からないヤツではあったが。
「話が見えないのはこっちだって。お前も俺と同じくらい数学好きだと思っていたから、あんな姉ちゃんがいて羨ましかったんだぜ」
「僕が……数学好き?」
「いや間違いないだろ。俺も大概数学マニアだけど、お前ほど何かにつけて計算しているヤツがいるかっての。オイラーかよ。俺が数学の成績で並ばれるなんて、考えたこともなかったんだぜ」
「計算は……その、僕が持つ特殊能力というというか何というか」
僕がしどろもどろに答えると、友人は破顔した。
「高校生にもなって特殊能力とか。何を訳の分からんことを」
僕は自分の顔が赤くなっているのを感じた。
そうだ。僕はいつも計算していた。
空気抵抗を受けて木の葉が舞い落ちるスピードを計算していた。
輝く星々の間に働く引力を計算していた。
何となく、無意識に、呼吸をするように。
今だって。
僕は、数学が。
「はあ。しかしそのうち時間、作ってくれよな。まあ帰ったらスプラトゥーンで対戦しようぜ」
友人は立ち去ろうとしていた。
「ちょっと待て。話をつける。姉ちゃんは今書いている論文で悩んでるって言ってた。お前の話が参考になるかもしれない」
僕は慌ててスマホを取り出して、姉に連絡を取った。
電話に出ない。姉はほとんど自分の携帯電話を見ないのだ。
「マジか。頼むぜ」
友人は期待に満ちた顔で僕を見た。
電話のコールは鳴り止まない。
「なあ、姉ちゃんとお前が数学の話をするとき、僕も居ていいか?」
耳にスマホを当てながら、僕は言った。
友人は怪訝そうな顔で頷いた。
「当たり前だろ。むしろ居ろ」
友人の力強い断言が、不思議なくらい嬉しかった。