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『裏切りの彼我』


 枯れた樹の音がする。陰ではいくつもの蟲が蠢き、氷結と火炎が世界を染めた。大輪の花が揺れ、銀色の鎧が軋む。終焉の龍は翼をはためかせ、風に揺れる獣がぐるる、と喉を鳴らした。

 足元に広がる魔法陣を杖でとんとん、と叩きながら、ミーシャが両腕を組み合わせる。その後ろでは、黒魔女の眷属たちが、今にも襲いかからんとその瞳を、牙を、爪を紅の魔女へと向けた。

 すぅ、とミーシャが息を吸い込んで、その口を大きく開く。


「眷属よ! 我が望みに応え、その力を示せ!」


 漆黒による、蹂躙が始まった。


「ミーシャよ、この時が来たのだな……」

「うん、そうだね。やっと、私も分かったよ」

「ああ……素晴らしい。これこそが、我らの求めた……長かった……朽ち果てる、ほどに……」


 先に行ったコキュートスとイフリート、フェンリルを見つめながら、災厄が満ち足りた声を上げる。目の前で繰り広げられる炎獄と氷獄に災厄は目を輝かせ、数多もの鎧を斃してゆくフェンリルに恍惚の声を漏らした。これが、彼らの求めた世界。自らの主人によってようやくたどり着いた、眷属の悲願であった。

 それを祝福するように、ファフニールが天へと爆炎を放つ。吐き出された緋色の灼熱は天井を焼き払い、そこに暗闇に広がる星空を覗かせた。そうしてファフニールは翼を広げ、その夜空へと舞い上がる。満ちた月を背に、赤き龍はその双眸を見開いた。


「よい……この感覚は、良い。ミーシャよ、ようやく我々はそなたの望みを果たすことができる……!」

「うん、ふにーちゃん……いや、ファフニール! 世界の終焉に舞う龍よ! ここより、世界を炎で埋め尽くせ!」


 咆哮。緋色が全てを包み込む。吹き荒れる爆風は騎士たちを吹き飛ばし、ローザの紅い髪を乱れさせた。


「全員下がってください。状況が変わりました。残っている者は負傷した者を。まだ死んでいないうちに、必ず逃げてください」

「で、ですがローザ様……これでは、あまりにも……」

「大丈夫です」


 紅の魔女が手を突き出すと、そこから星と星を紡ぐように幾つもの魔法陣が展開する。増殖する魔法陣は上空に広がる夜空を埋め尽くしたかと思うと、その一つ一つから巨大な鐵の柱を打ち出した。天より降り注ぐ鉄の雨が、氷と炎を吹き飛ばす。砂煙が舞い上がり、荒れ狂う獄炎と氷土がかき消された。


「今のうちに、撤退を。急いで!」

「了解です!」


 砂煙に消えていく鎧騎士を見送って、ローザが白煙の向こうを見据える。次の瞬間、そのローザの横顔を飛来する氷の刃が掠めた。


「あーせっかくいいところだったのに! ぜってーイフリートのせいで外したです!」

「うるさいなコキュートス! 元はと言えばキミが暴れすぎだからこうなったんだろ! ボクの分も残しとけっていったのに!」

「ふん、またそうやって人のせいにするですか! まったくダメな姉を持って苦労するのです!」

「事実を言ったまでだろ! それよりも私たちにはまずするべきことがあるだろ!」


 頬を伝う血を拭いながら、ローザが紅杖(こうじょう)を振るう。宙に描かれた魔法陣からは鐵の槍が姿を露わにし、今だに言い合いを続けている赤と青の少女へと向けて放たれた。撃ち出された鉄の槍はコキュートスとイフリートを穿たんと、風を切りながら唸り声を上げる。

 そうして、鐵の槍が二人を貫こうとしたその瞬間、白の剣閃が風と共に駆け抜けた。


「……他愛なし。所詮は、只の鉄屑か」


 煙を立てながら地面を抉る二つの鉄塊に、デュラハンが吐き捨てる。その後ろに立っているミーシャは固まったままのイフリートとコキュートスへと駆け寄り、心配そうに声をかけた。


「二人とも無事? 怪我は?」

「み、ミーシャ様ぁ……」

「うん……大丈夫。ありがとう」

「そう、良かった」


 委縮するように答えるコキュートスとイフリートに胸をなでおろし、ミーシャがデュラハンの背からローザを見据える。銀の鎧の向こうに見える彼女は再びいくつかの魔法陣を自らの宙に描き、その先端から鉄塊を覗かせていた。

 冷たい視線がミーシャを穿つ。言葉は無く、ただ殺意のみがそこにはあった。


「エリクシア、ミーシャを下がらせよ。ここは危険だ」

「はい、わかりました。あなたもお気をつけて」

「ああ。ではコキュートス、イフリートよ。無駄口は済んだな? 私に続け」

「い、言われなくても分かってるです!」

「こいつと同じにしないでよ!」


 銀剣を構えたデュラハンを挟むようにして、炎と氷が顕現する。そうして撃ち出された鐵とが、鈍い鉄の音をいくつも打ち鳴らした。飛び交う鉄塊があたりを切り裂き、それを防ぐようにしてエリクシアがミーシャを抱えながら色とりどりの花びらをはためかせる。

 そして、黒魔女は災厄を背に、龍の舞う月夜に立つ。氷獄と獄炎とが顕現するその戦場を、ミーシャは腕を組み合わせて見下ろした。


「ミーシャよ、これを」

「ん?」


 ふと差し出されたのは、真っ赤に熟れた手のひらほどの果実。ぽとりと手の上に落ちた木のみをまじまじと見つめていると、災厄は諭すようにミーシャへと呟いた。


「未だ名も無い果実であるが……甘い。これを食べ終えるうちに、全てを終わらせよう」

「うん、分かった」


 しゃり、と木の実を齧る音がする。がぎん、と鉄を切り裂く音が響いた。



「はぁっ……は、ぁ……! な、何が起きてるの……!?」


 瓦礫の山に背を預けながら、ウイスティが崩れるように声をもらす。その前ではウイスティを守るようにしてアイリスが魔力の壁を拓き、飛び交う鉄杭と破片を防いでいた。


「これが《《ミーシャの》》力よ。数多の眷属を使役し、それを自らの意のままとして操る黒魔女。これなら彼女がフリティラリアって言われても信じるでしょ?」

「あ、ああ……で、でも、さ。おか、しくない?」


 目の前に広がる惨状に、ウイスティが思わず疑問を上げる。


「おかしい? どこが?」

「だって、彼女は誰も、ころ、殺してないじゃないか。撤退してった騎士だって、みんな、生きてるみたいだったし、フリティラリアならみんな殺してるはずだ。あれは、手加減とか、そういうのを知っているものじゃない」


 未だに逃げ遅れている紅の騎士たちをみやりながら、ローザが上ずった声で告げる。例え龍の炎を浴びた者でも、風の獣に傷つけられた者でも、その命までは奪われていなかった。まるで殺す事を避けているかのようなミーシャのその振るまいに、ウイスティはこの戦いの最中で不穏な気配を感じていた。


「少なくとも、ミーシャは黒い花じゃない。だから、フリティラリアっていうのは――」


 その答えを遮るように、大きな金属音が鳴り響いた。


 次々と撃たれる鉄の杭を撃ち落しながら、デュラハンがローザへと迫る。その間合いに入った瞬間、ローザは地面へ魔法陣を走らせて、そこから鉄の壁を作り出した。下から吹き飛ばすように現れた鉄の塊に、デュラハンが剣を構えた。

 一迅の風が駆ける。吹き荒れる暴風は銀の剣へと収束し、その姿を表した。荒れ狂う深緑の毛並みに、月明かりの瞳。青銀の爪と牙が振るわれて、その鐵を乱暴なまでに引き裂いた。

 遠吠えが響き、鉄を裂いた青銀はローザへと向けられる。そうしてその牙がローザの首を掻き切ろうとしたその瞬間、フェンリルの体を鉄の杭が打ち付けられた。穿たれた毛並みは風に解け、後に暴風だけを残して消える。風の刃が鉄の壁を切り刻んだ。


「よくやった、フェンリル」


 風の隙間から頸の無い鎧が姿を現し、それに追随するようにしてコキュートスとイフリートがゆっくりと宙を舞う。掲げた銀の剣に二人が手を伸ばすと、火焔と霧氷が刀身を包み込んだ。

 荒れ狂う獄炎と凍てつく結晶が嵐となって、その剣を包み込む。


「やっちゃえおじさん!」

「ブチかますです!」


 逆手に持った剣に力を込めて、デュラハンが鉄の壁を穿つ。

 宙を裂く銀の刃は、《《ぬるりと》》その刀身を壁の中に埋め、ローザの額の目と鼻の先で止まった。


「……小癪な」

「ええ。そうでなければ、あなたには敵わないでしょう?」


 にやり、とローザが笑う。次の瞬間、彼女とデュラハンを隔てている――否、突き刺さった柱、穿たれた杭、周囲にまき散らされた破片までもが蛇の様になって蠢き始めた。まるで一つの命を吹き込まれたかのようになった鐵の蛇は、先端を刃のように変化させ、首無しの騎士へと襲い掛かる。

 数多の閃光が、宙を舞う。そうして一つ、大蛇が銀の鎧を貫いた。


「ああアレ、この前発表してた鉱物かしら? もう実用段階まで漕ぎ着けてるのね。まったく、本当に頭だけはいいのが癪だわ。これだから彼女は好きになれないのよ」

「いいのか? なんか一人やられちゃったっぽいけど」

「ま、問題ないわよ。すぐに食いつくすでしょ」


 適当に返すアイリスの視線の先には、次の獲物を探すようにして首をもたげている鉄の蛇の姿があった。その中心に立つローザの眼は未だにミーシャを睨み続けており、その意志を露わにしたかのようにいくつもの乱刃がミーシャへと向けられる。

 荒れ狂う刃は全て切り裂くように、ミーシャへと襲い掛かる。途中のコキュートスとイフリートの抵抗すら間に合わず、残った複数の刃がミーシャの胸元へとその切っ先を向ける。


「ベルゼビュート!」


 掲げた杖に応じるように、数多の蟲が、蛇を喰らい尽くした。

 それは、まるで蟲の河。幾重にも重なった蟲の大群が蠢きながら、刃と化した蛇を横から喰らいつくした。ぽりぽり、ぱきぱき、と金属を食む音が静かに響く。その虫達の頂点に君臨する王は、鉄の蛇を食い千切りながら、不満そうに吐き捨てた。


「不味い。変な魔力の味だ。何混ぜたらこうなるんだろう」


 蟲の河を下りてゆき、炎と氷の間を抜ける。夜空に浮かぶ月には龍が翼をはためかせ、それに手を伸ばすようにして数多の花びらに彩られた古き大木が、彼女の背に立っていた。銀の剣と風の獣は従者のように黒い彼女の側に立ち、ミーシャは黒杖を片手で握りながらその道を歩んでいく。


 食べ終えられた木の実のかけらが、ローザの前へ捨てられた。


「もうおしまい? これで満足した?」

「…………」

 

 紅の視線と、金の視線が交錯する。

 そして――ローザは、笑う。


「……………………待っていた」

「なに?」

「今のこの瞬間を、待ちわびていた。あの時から、ずっと、ずっと――!」

「――ッ! ミーシャ! 下がれ!」



 災厄の声が響く。それと同時に、ミーシャは自らの頭がかき回される感触を覚えた。



「へっへー、ようやく捕まえた! まったく、ここまで滅茶苦茶にするとは思わなかったよ」

「……せっかく用意したのに、こんなに散らかして、ミーシャさま、いけない子」

「あ、ああぁぁあ! 忘れてたああっ!」


 本気で頭から抜け落ちていたらしく、ミーシャが喉の奥から叫ぶ。そんな彼女を空から現れ組み伏せているのは、ジオラとソフィーの二人だった。それぞれの片方ずつがミーシャの両腕を押さえつけながら、もう片方の手でミーシャの頭へと手を添えている。次の瞬間、その手から白色の魔法陣が開かれた。


「まったくミーシャ様ったら、私たちのこと忘れるなんてひどいな!」

「……記憶力、なさすぎー」

「く、くそっ! デュラハン、フェンリル!」

「……そうは、させない」


 じたばたとミーシャが暴れながら叫ぼうとした瞬間、ソフィーが魔力を込めていく。その瞬間、ミーシャを襲ったのは押さえつけるように強烈な眠気だった。


「あ、ぅぐ……なに、して……」

「私は、夢魔女。だいじょうぶ、ミーシャさまに、素敵な夢を、見せてあげる」

「……くぁ……う、ぅ……」


 ごとり、とミーシャの頭が床に伏せられる。そしてぴくりとも動かなくなったミーシャにジオラがちょこんとまたがると、その丸出しになった後頭部へと魔法陣を走らせた。

 記魔女。刻まれた記憶を司り、それを読み解く追憶の魔女である。


「さーて……、これかな? 明らかに他のとは違うし、たぶんあってるでしょ」

「ねえちゃ、てきとー」

「そんな事ない……いや、待って?」


 わなわなと、触れた手が恐る恐る遠のいていく。


「違う。明らかに……違いすぎる。これ、本当にミーシャの記憶?」

「ねえちゃ? 何言ってるの?」

「……駄目だ。だめだ、ソフィー、離れて! 早く! すぐにここから逃げろ!」


 どくん、と。


「あ、あああっ! う、ぐぅぅううっ! い、あ、うが、あががががっ!」


 ミーシャの体を、強い衝撃が駆け巡る。既に二人の姿は無く、ただ地に伏せていたミーシャは、何かに苦しむように、ぼろぼろになった床をのたうち回っていた。

 瞳は血走るほどに見開かれ、縋るような手は喉元を掻きむしる。全身の皮膚の下を虫が走るような感覚と、ぼろぼろに焼け落ちていく記憶。暗闇へと堕ちていくその記憶の中に、ただ一人、笑顔を浮かべている人が居た。


 そして。


「あ、い、りす……?」


 夢と記憶が交差し、その真実を現実へと引き戻す。


 過去に埋められた漆黒が、目を覚ました。 





「……アイリス?」


 黒い少女の言葉に返ってくるのは、無為な静寂だった。

 虚ろな瞳は透き通る青空を映し出し、飲み込まれるほどに白い雲が太陽を隠していく。眼前に広がるのはかつての黄色い花畑。誰一人としていないその場所で、彼女は静かに言葉を紡ぎ続ける。


「アイリス……あいりす……あい、りす……?」


 その言葉に返ってくるのは、静寂のみ。あの優しさに包まれた笑顔は見えず、ミーシャの心に影が射す。感じたことのない不安に駆られ、ミーシャは唇を震わせた。

 孤独。もう相見えることのないはずのその感覚が、ミーシャの心を真っ黒に塗りつぶす。


「あ……いや……アイリス……っ」


 膝から崩れたミーシャの口から、弱々しく言葉が漏れる。独白は空に消え、綴る名前は風の音が消し去った。昏きは暗黒を凌駕して、深きは深淵へと達する。

 彼女の心を深く黒い感情が支配し、孤独による喪失感が一陣の風のように過ぎていった。


「私は……ひとり、ぼっち……また、ひとり……」


 二度と独りになることはない。ずっと側に寄り添い、その道を共に歩む。そう誓った彼女は、今この場にはいない。契られたはずの約束は、無惨にも泡沫の様にその希望を膨らませ、消えた。

 彼女にとってそれは何度も経験したものだった。けれど彼女は信じていた。自らに救いの手を差しのべてくれた、彼女を信じて疑わなかった。だからこそ、だからこそ彼女は。


「裏切られた……?」


 純白の笑顔が、ミーシャの中で解けていく。

 孤独は別の何かへと代わり、ミーシャの心を色褪せた感情が支配した。


「裏切られた……信じてたのに……ともだち、だったのに!」


 その瞬間、黒の感情がミーシャの内から弾け飛んだ。

 うずくまるミーシャの頭上に魔法陣が出現し、そこから黒い何かが放出される。煙とも蟲の集合体とも呼べるようなそれは、ミーシャの体を包み込むようにして形を変えていく。


「許さない……みんな、殺してやる……!」


 裏切りに満たされた彼女は、その手に黒い杖を握る。黒に染まった魔法に愛された彼女は、その裏切りを糧として暗黒を紡いでいく。染められた漆黒は、彼女の心を映していた。

 黄色の花畑に黒杖が突き立てられ、そこから黒の魔法陣が広がっていく。空気が重く振動し、花畑が一瞬だけ、それ呼応するように静寂を見せた。


 そして。


「フリティラリアよ! ここより世界へ殺戮を! 裏切りの果てに待つ、絶望による復讐を!」


 ミーシャは、叫ぶ。



 黄色い花畑に包まれて、孤独に怯えながら。





「ゔが、あ”ががががががが! い、痛”、あがぎぎぎぃぃぃぃっぎぎぎ!!」


 絶叫と共に、漆黒が広がってゆく。夜空を、暗闇が埋め尽くした。

 最初に変化が訪れたのは、ミーシャの背中。肉袋が裂けるようにしてミーシャの背中から黒い血が吹き出し、そして現れたのはミーシャの体を越すような巨大な龍の翼だった。血まみれのその翼は、一度だけ大きくその羽を広げ、旋風を巻き起こす。


「ミーシャ……まさか……」


 その災厄の言葉をかき消すように、紅の龍が墜ちた。地面に伏せたファフニールの体は解けるようになって消えてゆき、それに応じるようにして、ミーシャの背中に生えた翼は大きさを増していく。


「あ、ああ、解ける……私は、まだ……」

「ミーシャさん!? 何して、これ、まさか!」

「これは……そうか、そうか。それならば、僕は……」

「嫌です! あれは嫌です! 嫌だ、誰か、助けて……!」


 広がる漆黒は眷属を呑みこんでゆき、混沌の泥に溺れてゆく。ずぶずぶと足元を埋め尽くすその泥に、災厄が最期にぽつりと言葉を漏らす。


「それが、そなたの望みなら……我が主の、望みのままに……」



 絶叫が、その言葉をかき消した。



「あぇ、あへぇぁぅぅううぁあぁ……!! げ、ぉゔっ、おぼぼがががががばばげぎぎぎぎぃぃぃぃーー」


 耳の穴と口から泥を垂らして、ミーシャが声にならない叫びを上げる。目玉はぐりんと上を向き、足元はふらふらとおぼつかない。それはまるで、何かを植え付けられた虫のようだった。


「あ、ああ……? な、に、これ……」

「ねえちゃ、早く! 早くこっち来てっ!」


 呆然と立ちすくむジオラの手を、ソフィーが強引に引きよせる。次の瞬間には二人のいたその場所を、深淵を体現したような昏き泥が埋め尽くした。

 肩からは蔓のような黒い何かが延びて、しゅるしゅると音を立てながら形を成す。露になるのは何本もの腕だった。古びた蔓で形作られた樹の腕と、蠅のような節を持った虫の腕。数十を超えるその腕達は、まるで水面の波のようにゆらめいて規則的な模様を描いている。


「嫌っ! い"や"、だっ! い"や"あ"あ"っ"っ"っ"!!」


 身体中から吹き出す血を浴びながら、ミーシャは絶望に叫ぶ。頭の中に別の何かが入り、脳味噌をめちゃくちゃにかき回されているような感覚。立っていられるのがやっとというよりは、その何かに立たされていて、ミーシャはただただ叫ぶことしかできなかった。

 蟲と樹の腕が動く。それは統一されたかのようにミーシャの真上で全て合掌されたあと、その形を作り出す。

 それは、まるで。


「黒の、花……」


 ぽつりと呟いたその言葉を、慟哭がかき消した。


「お”ヴ、が、ぅぶっ! た、す、げ、げげげえ”あ”あ”あ”がががあ”っ”がががが!!」


 千切れるような、ミーシャの悲鳴。苦しみと歓喜がぐちゃぐちゃになったようで、それに呼応するようにいくつもの腕が模様を作る。現れたのは、すべてを誘うような渦の形。生理的な吐き気を想起させるようにその腕は規則正しく動き、その渦の中心をアイリスへと向けた。


「お、え"お"ぁぅぅぐぐぐぐぃぃぃぃいぎぎ!! がぐ、あががいがいぎぎいいぎいぃぃ――ぃぃいっぎぎぎぎぎぎ!」


 がちん、と杖を打ち付ける音。そうして、ミーシャがその眼を見開く。狂気に震え、血管の浮き出るその瞳は、紅と蒼に染まっていた。


 破壊と絶望に包まれた、黒の魔女の成れの果て。裏切りの末路に辿り着いた、彼女の悲願。

 その名を。


「フリティラリア……!」



 暗黒が、咲いた。



「ゔ、あっ! い”、あ、が、が、ががっががが!!」


 衝撃。吹き荒れる数多の腕は大地を揺らし、赤と青の眼に映る全てを破壊する。後に残ったのは泥のように撒き散らされた漆黒と、そこで静止したフリティラリア。全ては漆黒に呑みこまれ、辺りを昏き静謐が支配する。

 そしてそれを破ったのは、白の魔女だった。


「……怪我は?」


 白い杖を構えたまま、アイリスが後ろへ声をかける。


「アイリス? どうして……」

「無事みたいね。それじゃ、ローザ。他の三人を連れて逃げなさい」

「ですが、それではあなたが!」

「私はいいのよ。それとも、ここに残って足手まといでもするつもり? いつまでも迷惑な女ね」


 気だるげに白杖を振り回しながら、アイリスがローザを睨んだ。


「ミーシャの狙いは私一人よ。あなたたちには関係ない」

「でも、あなた一人であれを倒せるとは思えません! 私も戦います!」

「……まだ分かってないの? あなた」


 がん、と杖を叩きつけながら、アイリスがローザへ告げる。



「これ以上、私とミーシャに関わらないで……!」



 紅の魔女に冷たく言い放ち、アイリスは再び黒い花へと立ち向かう。

 黒い杖を持つ手は震え、双眸からは血を流し。背後にうごめく花は万華鏡のように形を作り、龍の翼は広げられる。すでにミーシャの見る影は跡形もなく消え去り、そこにいたのはミーシャの身体から生えた漆黒の化け物だった。


「あが、おぼぶがぎぐごががが!! いぃぃぃぃぃぎぎぎぎ!」


 黒い花がまたある形を作り出す。繋がっていた腕たちは一本一本が独立をはじめ、歪な白詰草(しろつめくさ)のように形を作る。真下のミーシャは何かに動かされるようにして杖を持ち上げると、それを自らの身体の奥深くへと突き刺した。

 そして――紡ぐ。


「数多の戦場を重ね、敗れ去る。血にまみれた銀剣を我が手に。死によって重ねた栄光を、その手に」


 紅い血が黒杖を伝う。うごめく声が木霊した。


「――デュラハンよ」


 その言葉と共に現れたのは、無数の銀剣だった。こちらを睨んだままの白魔女を映す剣の一本一本が樹と蟲の腕に握られ、その刀身を鈍く光らせる。首なし騎士の数多の剣は、虫と樹木の腕を伴って、アイリスへと向けられた。


「逃げなさい! 早く!」


 その叫びをかき消したのは、幾重にも連なる剣戟。降り注ぐ刀は豪雨のように地面を穿ち、アイリスへと迫ってゆく。まるで地面を全てひっくり返すようなその衝撃に、アイリスはただ一人魔法陣を構えた。

 雷光。紫電が加速して渦を巻き、張り詰めた糸を切るようにして、閃光が迸った。


「ぁ……」


 駆け抜ける稲妻は漆黒を切り開き、黒の花びらを闇夜へ散らす。ぼとり、ぼとりといくつもの腕が落ち、溢れ出る泥にミーシャがぽつりと声を漏らした。

 周囲に雷電を弾けさせ、白の魔女は黒の魔女と邂逅する。その瞳に映るのは、いつまで経っても変わらないかつての友だった。


「ーーミーシャ」


 名前を、呼ぶ。かつてのあの時のように、優しい声で。

 白い杖が地面をなぞる。描かれた魔法陣はアイリスを中心にして広がってゆき、ミーシャとを包み込む。


「一人で寂しかったのね。でも、大丈夫。あなたには私がいる。あなたの全てを、私が受け止めて上げる」


 魔法陣から現れるのは、目を眩ますほどの数多に咲く黄色の花だった。ぽつり、ぽつりと姿を表したその花々は水紋のように広がり、瞬く間に二人をまばゆいほどの鮮黄で埋め尽くした。


「だって、私たちは友達だもの。あなたの願いなら、私は何でも受け入れるわ」


 見渡すのは、一面の黄色い花畑。それは瓦礫も、泥も、漆黒も全てを覆い、白の魔女と黒の魔女を優しく包み込む。追憶と追想が交錯し、アイリスの心は刹那の追懐に満たされた。


「だから、ミーシャ」


 そして、いつものように。あの時のように、アイリスはミーシャへ笑う。


「どうか私を、殺してね」




 黄色い花畑に包まれて、二人は孤独に満たされた。















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