失敗した伝魂
ふっと胸がいっぱいになり、つま先から浮き上がるような感覚があった。心臓が早鐘をうち始め、耳の奥でどくん、どくんと脈うつ音が聞こえる。
(お兄ちゃん――ソヨウは、やっぱりここにいる!)
大窟にソヨウがいると信じた、自分の直感はやはり正しかったようだ。私は興奮のあまり、椅子から飛び上がりそうになる自分を何とか制した。
サクヤに異変を悟られないよう、ソヨウの名前が彫られた椅子からあえて目を背けて、視界から強制的に追い出そうと、試みる。
しかし、まぶたの裏に焼き付いたその名前は、視界から消えるどころか、まるで血流に乗って、二回、三回、と体を駆け巡っているかのようで、私の頭は、くらくらと平衡感覚を失った。
「んー、おかしいわねぇ」
サクヤが、不思議そうな声をあげた。
「どうして、ミクの椅子だけ反応しないんだろう」
私は自分の動揺がサクヤに伝わったのかと思い、慌てて口を少し開いて、呼吸を整える努力をしたが、それはかえって逆効果だった。ハァ、ハァと乱れた呼吸が、余計に私の胸を締め付け苦しくなる。私が自分の呼吸と格闘していると、ドアが開く音が聞こえて、背後から威勢の良い男性の声が聞こえてきた。
「なんだか調子悪そうじゃねえか、サクヤ。しばらくさぼってるうちに、腕が錆び付いちまったんじゃないか?」
サクヤはみるみる顔を赤くすると、形のよい眉をつり上げて声のする側をきっ、と睨んだ。
「馬鹿言わないで。アンタの椅子がおかしいんじゃないかい」
「いや、俺の仕事の精度は知ってるだろう。少なくとも採寸でミスは起こり得ないしな」
出会い頭にポンポンと罵りあうものの、その言葉の中に、険悪な気配はなく、どこか会話を楽しんでいる様子だったので、私は首を回して背後を見た。
そこには、いかにも力仕事が得意、という様子の逞しい男性が立っていた。無精髭を生やし、ゴーグルにヘルメットを被っている。彼もこちらに気づくと、近づいてゴーグルを外した。
「嬢ちゃんが、例の〈見える系〉か」
そういうと、彼は、椅子に座っている私のことを、じろじろと見つめた。
「久々に椅子の発注があったから、どんな奴が座るのかと思って来てみれば、なんというか、普通の子だな」
「ミク、そいつに、そのダメ椅子を返品してやんな」
サクヤは不機嫌そうに、一番近くにあった椅子にどっかりと座ると、煙管のようなものに火をつけ、先をくわえた。
「俺の作品をダメ椅子呼ばわりされちゃ黙っているわけにもいかんな。まぁ、アフターサービスぐらいはしてやろう。嬢ちゃん、失礼するよ」
私は椅子から慌てて立ち上がると、その大男に道を譲った。
すると大男は膝をつき、なにやら背もたれを握って椅子を調べていたが、やがて口を開いた。
「椅子は……全く問題ないな。すると嬢ちゃんが合わない方か。予想はついてたが……あいつとおんなじパターンだな」
「まぁ、そういう結論になっちまうんだろうねぇ」
サクヤは予想がついていたようで、こちらの方を一瞥もせずに、あっさりと言った。
「嬢ちゃん、ここに来るまでに手に触れたもので、こうビビッと来たものはなかったか? 耳元で楽器みたいなすんげぇ音がするんでな、すぐ気づくと思うんだが」
私が首を横に振ると、明らかに落胆した顔になった。
「おいサクヤ、大窟の社にはやったんだろうな?」
「ああ、ついでにレイヴァンとこにもやったよ」
「だとすると、残るはあいつんとこしかないな」
彼がサクヤの方に向き直ると、サクヤは露骨に嫌そうな顔をしていた。
「あいつんとこかい? アタシ、あいつにゃなるべく会わせたくないんだけど」
「俺も同感だ。だが、仕方ないだろう。俺以外でこの嬢ちゃんの椅子を見繕えそうなのは、あいつだけだ」
それを聞いて、サクヤは不本意だ、と言いたげな大きなため息をつく。
「仕方ないねぇ。心配だからアンタも一緒にいってもらえないかい? くれぐれも、ミクと二人きりにしないようにね」
「ああ。言われなくても、そうするつもりだ」
なにやらサクヤと大男は、私を更なる第三者に会わせるつもりらしい。ポンポンとテンポのよい会話に私は少しおいてけぼりを食らったように感じた。
「なーに、気にすんな。普通だ、こんなのは」男は、腕組みをし、歯を見せて笑った。「おお、そういえば挨拶が遅れたな。俺はここで大工やら力仕事が担当のロブだ。嬢ちゃんは?」
ミクニ、と名乗ると、ロブは大きくうなずいて、行くぞ、と大きな袋を担いで歩き出した。ロブの一歩は体に比例して大きく、あっという間に距離が離れていきそうになる。私はあわてて、ロブの大きな背中の後ろを追いかけた。
(同行者がいるだけで、なんて心強いのだろう)
私は小走りにロブに追いつくと、隣を歩きながら、しみじみとそう思った。
ロブは、私がさっき訪れたレイヴァンの家と同じ方向に向かっていた。
一人で歩くと、どこか寂しい道のりに感じられた路地裏は、今やロブの体躯をひときわ大きく見せる効果に一役買っていて、立ち並ぶ建物は、まるで子供の隠れ家のようにこじんまりとして見えた。
私がきょろきょろと、落ち着きなく周囲を見回しているのを見て、ロブは口を開いた。
「ここの景色が珍しいか? じきに慣れるさ。お嬢ちゃんみたいに若いんじゃ、むしろ、飽きちまいそうだな。ここは、以前は人もたくさん住んでいて、賑やかな街並みだったらしいが、今、住める状態になっている建物は少ししかない。手が空いている時に、なるべく直すようにしているが、人手も素材も足りなくてな」
その発言から察するに、ロブもレイヴァンと同じく、大窟について詳しそうだ。そこで、私は先刻から気になっていた疑問を口に出すことにした。
「伝魂が失敗するなんて、頻繁にあることなんですか?」
「いいや。ほぼあり得ないな。ああ見えて、あの椅子は人の体格に合うように、工夫して作ってる。オーダーメイドみたいなもんだ。お嬢ちゃんも、サクヤにソファーに座らされただろう?」
私は、コーヒーを飲みながら格闘した、白いソファーを思い出した。
「あの、やたらふかふかしたソファーですか」
「そうそう、あれが採寸器みたいなもんでな、あれに任せておけば、ほぼ身体にあった椅子がわかるようになってるんだが――」ロブは苦いものを噛んだような顔をして言った。「やっぱり例外はつきもんでな……人によっては、椅子の素材に合う、合わないがあるらしい。まぁこれまで、そんなこと一度しかなかったんだ。あいつだけが特殊なのかと思ってたが。〈見える系〉の共通事項なのかもしれないな」
「あの、あいつって、誰ですか?」
「これから会いに行くやつのことなんだが――あいつには、気を許すなよ。変なやつで、何を考えてるのかさっぱりわからん」
「その人も、サクヤが見えるの?」
「ああ、残念ながら……な」
そんな話をしながら、私たちはレイヴァンの住む地区のさらに先に足を踏み入れていた。路地の一番奥に、鉄格子のようなゲートがあり、ロブがゲートを引っ張ると、そこには、急で狭い上り階段が待ち受けていた。見上げても頂上が見えないほどで、おそらく数千段はあると思われた。
「お嬢ちゃん、足に自信はあるかい?」
そう言いながら、ロブはひょいひょいと身軽な様子で、石段を登っていく。
歩く時ですら、彼のスピードについていくのが精一杯だった私には、彼に返事をする余裕はなかった。
ロブは心配そうに振り向くと、少しだけ距離が離れてしまった私の方をちらりと見た。
「手を貸そうか?」
私が黙って首を振ると、彼は、ほう、と声をあげて、優しい笑みを浮かべた。
「見た目以上に根性がありそうじゃねぇか。気に入った。俺は、頑張るやつが嫌いじゃない」
そういうとロブは、登るペースを少し落として、私に歩調を合わせてくれた。
ロブは、出会った当初は、無遠慮で威圧感があったが、きさくな人物であることは何となく解った。
サクヤやレイヴァンにも感じたことだが、私が早くこの場所に馴染むよう、彼らなりに精一杯の気を遣ってくれているようだった。
しばらく無言で階段を登っていると、狭かった階段の幅が少しずつ広くなり始めて、道中にぽつり、ぽつりと、風車が地面に刺さり、風を受けて回っているのが見えた。
その風車は、三百六十度、首が回るようにできていて、どんな風向きからでも風を受けることができるようになっている。
大窟は海に面したその特殊な形状から、風が止むことはほぼなかったので、風車は止まることなく、ひたすら回り続けていた。
階段を登るにつれて、風車の数はさらに増えていった。
やがて平らな地面は、全て風車に埋め尽くされ、尋常ではない数になった。
ふと風向きが変わったのと同時に、一斉に風車が向きを変えた。まるで、意思を持って、こちらに向かって振り向いたかのようだ。
その光景は、あまりにも不気味で、私は、その風車を設置した人物に対して、若干の狂気すら感じるようになってきていた。
「ついたぞ。ここだ」
それは煉瓦で出来た教会のような建物だった。
ロブは無造作にドアノッカーを掴み、二、三回、乱暴に叩いたが、特に返事を待たずに扉を開けた。
そこは礼拝堂のようなホールだったが、彫刻や陶器など、様々な作りかけの美術品が無造作に置かれ、散らかっている様子から、アトリエのように利用されていることがわかった。
小さい電球がちらつきながら、人一人がようやく通れそうな狭い通路を照らしている。
ロブの後ろをついていくと、奧は少し広めのスペースがあり、中心に置かれた台に両足を載せて、寝転ぶような格好で風車をいじっている若い人物が見えた。
「よう、イブキ」
ロブの呼び掛けには答えず、その人は我々が来るのを待っていたかのように、薄ら笑いを浮かべると、手に持っていた風車にふうっと息を吹き掛けて、くるくると回した。
その様子を見た瞬間、まるで自分自身に息を吹きかけられたかのように、私の全身に鳥肌が立った。
――それが、イブキとの出会いだった。