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ミクニと永遠の大窟  作者: 孫 遼
後編
31/36

生きた証

 その声と同時に、大きな音をたてて、天井が崩れ落ちてきた。

 まるでスローモーションを見ているかのように、ヤコは素早く横穴に半身を滑り込ませると、私の腕を思いっきり引っ張る。

 その反動で、ヒューと繋いでいた手が――離れた。

 ドーンという大きな音と共に、視界が真っ暗になる。舞い上がった粉塵がようやく落ち着き始めた頃に、その声は聞こえた。

「ミクさん……無事かい?」

 私がそっと目を開くと、そこには大きく手を広げた、美しい顔の男性が立っていた。彼は腕と背中の力で、天井を支えている。

 そして、ギリギリのところで、私の体が天井の下敷きとならないように守ってくれていた。

「もしかして……ヒュー?」

 ヒューはそんな私の反応に、驚きの表情を見せた。

「……ああ。俺が見えるの?」

 その時、ヤコが叫んだ。

「ミクちゃん、こっちに! ヒューも早く!」

 ヒューはその場から動かず、私が安全な位置に移動したことだけ確認すると、片腕を天井から外した。天井が軋み、ヒューの背中にかかる圧力が強くなるのが、見ている様子からもすぐにわかった。

 ヒューは形のよい眉を少ししかめたが、すぐに元の笑顔をたたえた表情にもどると、空いた片腕を伸ばして、ヤコの頭に手をポンと置いた。

「ヤコ、ありがとう。俺は大丈夫だ」

 そう言うと、ヒューは私の方に顔を向けた。

「ミクさん。きっともうすぐ、俺は元の姿に戻ってしまう。最期に少しだけ、話をさせてもらえないかな?」

 ヒューは、形のよい目を少しだけ細めると、ぽつぽつと語り始めた。

「ここ大窟は俺の生まれた場所でね。俺は、ここから掘り出されたんだ」

「記憶が戻ったの?」

「ああ。何もかも思い出したよ。俺の本当の姿は、人間じゃない。ただの石像なんだ」

「石像だなんて……冗談はやめて、ヒュー。あなたはどう見ても人間……」

「いいや。俺の足元を、見てくれ」

 私が足元に視線を落とすと、ヒューの体は、膝の下あたりに大理石を思わせる白い石の質感に変わる境界があり、その境目はじりじりと上に迫っていた。

 私はその様子に息を飲む。

 会えたばかりのヒューとの別れが目前に迫っているのは明白で、私はせめてその姿をなるべく目に焼き付けようと努力したが、目から涙が溢れて、視界がどんどんぼやけていく。

「俺の姿、本当にミクさんに見えるんだね。嬉しいよ」

 そう言って微笑んだ顔は、この世の物とは思えないほど美しく、私は思わずその表情に見とれた。

「あなたは一体……」

「この大窟には、一人だけ、ただの石ころにだって、命を吹き込める人がいるだろ。俺はその人に命を貰ったんだ」

「イブキが吹いたっていうの? まさか……」

 そういうと、ヒューはふっと笑った。

「俺だって信じられない。だってついさっきまで、俺自身だって、自分のことを人間だと思いこんでたんだから」

 ヒューはそういうと、眉をしかめて息を大きく吐いた。

 そのさりげない動作すら、まるで映画のワンシーンのように思わせるほどに、ヒューは現実ばなれした美貌を持っていた。

「イブキはね、大窟の石で作られた俺を、ありったけの思いを込めて吹いてくれた。イブキは俺の誕生を喜んだよ、『大成功だ』ってね」

「どういうこと?」

「イブキは言ってた。物に意思を持たせるのは簡単だけど、持って生まれた役割以上の魂を持って生まれてくることができたのは俺が初めてだってね。

 きっと俺の胸の中には、クオン完全結晶が埋まってるんだと思う。この結晶は、大窟の中でずっと眠ってたんだ。何年も何年も。人として、生を受けるのを、ずっと、待ってたんだ」

 ヒューは優しい声で話し続けた。

「俺は石像だったけど、心は人間だ。だから人間の姿に近づくためならどんなことでもした。

 何年もかけてイブキに人としての所作を教わって、イブキの役に立てるよう精一杯頑張ってきた。でも、それは良いことじゃなかったんだと思う。

 だって、それは石としての自分を否定することだから。その代償として、俺の心は徐々に本分を忘れていったんだ。だからこうして、石でいた頃の自分を取り戻したら、きっと体は元に戻ってしまうだろう。

 もう時間がないんだ。ミクさん」

「何か……何か方法はないの?!」

 ヒューはゆっくりと首を振った。

「こうしてミクさんに見えるようになったのが、俺が元の姿に戻りつつある、何よりの証拠だと思う。イブキの目論みは失敗した」

「イブキの……目論み?」

「ああ。イブキが言ったんだ。『ミクニの魂を奪ってきてくれ』ってね。一度魂を剥がしかけた君なら、これがどういうことかわかるだろ?」

 それを聞いて、私は言葉を失った。

 私の心が何に結び付き、どういうときに響くのか――私は、この大窟の経験を通じて、その正体が何なのかを、おぼろげながら理解しつつあった。そしてヒューがどれほどまでに、人を惹きつける魅力の持ち主であったとしても、ソヨウの代わりになることはなかったであろうことも。

 そんな私の思考をお見通しだと言わんばかりに、ヒューは言葉を続けた。

「ミクさんの心は想像以上に頑なで、俺はあっさりと、視界にすら入れてもらえないという罰を受けた。

 きっと君は、自分が思っている以上に、鋭い感覚の持ち主なんだろう。自分が重要だと思うものを見る代わりに、不要なものや心を乱すものを、無意識に視界から排除してしまうんだと思う。

 だけど誤解しないでくれ。俺はイブキに命令されたから、ミクさんと一緒に行動してたわけじゃないんだ。

 出会った瞬間から、俺自身がどうしても、ミクさんを手に入れたくなったんだ。それが叶わない夢だと知った後でもね」

「どうして……? 私には、何の取り柄もないのに……」

 ヒューは、片手で私の頬に触れる。

「理由は俺が聞きたいよ? 俺はこの世に生まれたばかりで、難しいことは、よくわからないんだ。俺はようやく魂がなりたいもの――人間になれたはずなのに、どうして、こんなに辛くて苦しい気持ちになるんだろう。

 人として生きることって、想像してたよりずっと難しくて、うまくいかないもんなんだねぇ。

 ごめんね。ミクさんを騙すつもりなんかなかった。泣かせるつもりなんて……もっとなかった。

 もっと早く、俺が自分の正体に気づいていれば、最後、ミクさんに、俺の芸を見てもらえたのになぁ。そしたらきっと今のミクさんだって、笑顔にできた自信があるよ」

 胸の辺りまで、石になりつつあるヒューは、苦しげに眉を寄せた。

「ミクさん、最期に一つだけお願いがある。イブキは俺にとっては、生を与えてくれた――母親のような存在なんだ。だから、彼を憎まないでほしい」

 私は、この期に及んでまで、残されていく人間の心配をするヒューの優しさに、胸を打たれた。

 私が涙を流すたびに、どこからか折り鶴が飛んできて、私の頬を伝う涙をぬぐい去った。その鶴は、何度も私の頬を伝い落ちる涙に挑み、飛べないほどに水を含むと、その場にべしゃりと落ちて動かなくなった。

 すでに、私の足元にはいくつもの鶴が犠牲になって散らばっている。それでも私の涙は止まる気配がない。

 ずっと私のことを見守ってくれていた存在に対する感謝と、戻らない時間に対する後悔。

 私は、涙以外の方法で、それを表に出す手段を知らなかった。

「俺の話を聞いてくれて、ありがとう、ミクさん。俺は永遠に近い時の一瞬でも、誰かを愛せて、幸せだった。これからもずっと、石の姿で君を見守っているよ。さようなら」

 最期にそう言い残すと、目から一筋の涙をこぼして、ヒューの全身は石像となった。

 彼がずっと身に着けていたピエロの仮面と同じ位置、右目の下に一粒だけ追加されたその涙の跡は、かつて完璧な姿を誇ったであろう石像が、ヒューという存在として生きた証であった。

 私は、その首にすがりついて泣いた。

 やがて、触れるたびに私に移ってきていたはずの彼の体温は、いつしか石の冷たさへと変わり、私の体温を奪うようになった。どれほど私が涙を流しても、奇跡を望めるはずもなく、私はそっとヒューから体を話すと、地面の上で、土にまみれて動けなくなったいくつもの折り鶴の残骸を見つめた。

(一度、イブキと話をしなければ)

 覚悟を決めた私は、石になったヒューの首に、素早く虹色の鎖をかけて結んだ。

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