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ミクニと永遠の大窟  作者: 孫 遼
前編
3/36

開拓員への誘い

 目の前をヒラヒラと、白く小さい何かが舞っている。

 ゆっくりと、その白い物が落ちてくる方向に向かって顔をあげると、壁にびっしりと書きつけられた言葉が燃えるように光を放ちながら剥がれ落ち、ふわりと浮いて真ん中の木に集まっていくのが見えた。そしてそれは枝の先で、白いつぼみとなって花を咲かせ、やがて風もないのに散っていくのだった。

 その花は、出会いと別れの季節に咲く、私の故郷を思わせる薄桃色をした(はかな)い花で、幾千もの願いごとの言葉は形を変えて、咲いては散りを繰り返した。

 私はその花吹雪の中で、動くこともできず立ちすくむ。

 その景色の中に立っているだけで、まるで、この地底大窟で見聞きすること全て、理屈では表すことのできないあらゆるもの全てを、受け入れる準備が整っているような、不思議な感覚に陥った。

 私は、この瞬間を一生忘れることはないだろう。何故なら、地底大窟が最深部に抱える秘密と、それにまつわる人々との数奇な運命が始まりを告げたのは、まさに、この瞬間であったからだ。


 私は無事、大窟の社での神託を終えて、カウンター奥の小部屋に戻ってきていた。室内では焼きたてのパンの香りがふわりと香っている。その匂いに、強烈に空腹感を覚えた私のおなかは、耐えきれない様子で、ぐぅ、と情けない音を立てて答えた。

「おかえり」

 奥のキッチンからひょっこりとサクヤが顔を出すと、待ち構えていたかのように、バスケットに入ったパンと、マグカップに注いだコーヒーが手渡された。

「たくさん歩いて疲れたでしょう? はい、コーヒーをちょうど入れたところ。少し砂糖とミルクも足しておいたわ」

 まるで私が戻る時間を計算していたかのように、周到に準備をしてくれたサクヤに感謝し、それを一口(すす)った。体に染み渡るように疲れがとれていく。

 パンも促されるまま、口に含むと、香ばしい何かの種とオニオンの香りが口に広がり、鼻孔を抜けていった。思えば、ここ数日はろくな食事をとっていなかった。

 私は、パンとコーヒーを交互に口に運んだ。

 サクヤはどすん、と目の前のソファーに腰かけると、手に持っていた紙をひらひらさせながら話を始めた。

「アタシは面倒なことが大嫌いだから、結論から言うわ」彼女は足を組みかえて、少しだけ声のトーンを落とした。「あなたには特別に、地底大窟での滞在を許可します。もしあなたが望むなら、ぜひ開拓員になってほしいわ」

 ――開拓員。

 いきなり核心に触れて、急に鼓動が早くなった。信じられない、という気持ちが、体をぐるぐると駆け巡る。慌てて呼吸を戻そうと、大きく息を吐こうとしたとき、まるで示し合わせたかのように同じタイミングで、サクヤは大きなため息をついた。

「その様子だと、やっぱり観光が目的でここに来たなんて、嘘ね。まぁ、アタシのことが見えてる時点で、アンタをスカウトするのは、決まってたから、別にいいんだけどね」

 そう言いながら、彼女は、机の引き出しからペンを取り出した。

「じゃあここに。名前。書いて」

 私はペンを受け取ると、目の前に置かれた紙に、自分の名前を丁寧に書いた。

 すると、サクヤは眉間をぎゅっと寄せて、私が書いた字をじっと見つめた。しばらくサクヤはそうして動かずにいたので、いきなり、私が開拓員になるのが不適格であると告げられるのではないかと、私は内心、不安になった。

 サクヤは、なぜ私がここに来たのか、細かい経緯を一切問わなかった。

 しかし、それは決して、彼女の優しさや配慮から来るものではなく、私自身がまだ、自分自身の中に秘めたままの動機を、他人に打ち明けるつもりがないことを、彼女は知っていたからなのだった。

「何か質問はある?」

 私は首を横に振った。

「わかったわ。じゃあ、こっちは少しの間、準備が必要だから、それが終わるまで、とある人に会って、話を聞いてきて貰えるかしら。彼には早めに会っておいたほうがいいわ。私なんかより、全然説明がうまいから」

 そういうと、サクヤは楽しそうにふふ、と微笑むと、小さく折り畳んだ紙切れを手渡してきた。私がその紙切れを開くと、簡単な地図と十六桁の数字が書かれていた。

「そのメモがあれば十分だけど、ついでに、そこのパンも持っていってくれる? 初めての人に会うのに、手土産ぐらいはあったほうが、話が弾むでしょう」

 私はパンの入ったバスケットを受け取り、丁寧に礼を言うと、地図に書かれた場所に向かった。

 初めて地底大窟に降り立ったときには気づきもしなかったが、実は地底大窟という場所は、外部から観光客を受け入れるための区画と、生活のための区画が、厳密に区切られて管理されていた。

 一般の区画は、船を出てすぐ、わかりやすく洞窟に入口が設けられている。その入口の先は、上り階段に進み、地底大窟を覗きこむことができる展望台へと続く一本道だ。私も数時間ほど前に、この道を通って、展望台に上り、そこからサクヤのいたカウンター近くまで降りていったばかりだ。

 一方、生活区画は、一般の人が降りる船着き場からは、ちょうど反対側の死角になる場所に、巧妙にカムフラージュされた扉の先にあった。サクヤから手渡されたメモに書かれた特定の番号を打ち込むと、その扉はかちりと音を立てて開いた。私は何故か、犯罪者になったかのような気持ちで、その秘密の扉を開いて身を滑りこませた。

 細い路地は、人気がほとんどなく、海の音だけが遠くに微かに聞こえていた。足音を立てることすら(はばか)られるような、その静かすぎる路地を少し進んだところに、小さいが趣のある平家が建っていた。玄関にあったインターホンのベルを鳴らすと、しばらくして男性の声がした。

「はい」

「すみません」私の声は緊張で少し上ずった。「サクヤの紹介で伺いました」

「サクヤの?」インターホンは素っ頓狂な声で答えると、しばらく無言になった。

 やがて、ガーというモーターの音がして、ドアがひとりでに開いた。インターホン越しに声が聞こえる。

「ごめん、悪いんだけど、僕はそちらに行くのが大変だから、勝手に入ってきてもらえるかな。突きあたりの部屋にいるから。よろしく」

 インターホンの声は、そこでぶつっと切れた。

 私は、おそるおそる玄関を開けて、中に入った。その家に入った瞬間に、物の配置にどこか違和感を覚えたが、この先に待っているであろう住人がどのような人物なのかという好奇心が勝り、早足で奥へと進んでいった。

 インターホンの指示のとおり、突き当たりの部屋の正面のドアに向かって立つと、ドアがひとりでに開き、私は腰を抜かしそうになった。驚いた私は小さく後ろに飛びのいたが、ドアの向こうに人影が見えて、慌てて体制を立て直した。

「やあ。はじめまして」

 その人物は、椅子に座ったまま、軽く手を上げて挨拶した。私は、その人の前でゆっくりと頭を下げた。

 彼は片眼鏡をその眼窩にはめた、見るからに学者風の、賢そうな男性であった。

 彼は椅子に座ったまま、椅子の脇に取り付けられたハンドルを垂直方向に回して私の元に移動してきた。

 私はそんな彼の様子を見て、私に直接玄関から入ってくるよう指示した理由に納得した。

 彼は、車椅子で移動していたのだ。

 それと同時に、家に入ったときの不思議な感覚の理由もわかった。家具の背がとても低く、その家には段差らしきものが一切ない。いたるところに、本棚が置いてあったが、そのどれもが腰ほどの高さにある。

「久々の来客で驚いているよ。サクヤは元気かい?」

 彼は物腰柔らかく、丁寧な様子で私に尋ねた。どこか蓮っ葉(はすっぱ)で無遠慮に近いサクヤの物言いと比較すると、まるで詞を朗読するかのような、独特のレトリックを持つ喋り方だった。ええ、と私が答えると、彼は棚から大きなマグを取り上げて言った。

「コーヒーでいいかな」

 私が慌てて歩みより、マグカップを受けとろうとすると、彼は片手で私の動きを牽制(けんせい)しながら言った。

「座って座って! コーヒーは僕が()れる。このとおり足は動かないけど、身の回りのことは大抵なんでもできるんだよ、僕は」

 そう胸を張りながら言う彼に、私はサクヤから預かっていたパンを差し出した。

 彼は目を細めてそれを受け取ると、まるで子供を抱っこするように両手で抱え、籠ごと一周、くるりと回すと、肺いっぱいにその匂いを鼻から吸い込んだ。

「焼きたてのパン! 大好物だよ。ありがとう」

 見た目の優雅さと落ち着きとは裏腹に、彼のリアクションはどこか幼く、子供のように純粋に見えた。知性が彼を老成したように見せているが、実は彼は見た目以上に若いのかも知れない。それが私のレイヴァンに対する第一印象だった。

 数分と立たないうちに、蒸気の匂いと共に、コーヒーの芳醇(ほうじゅん)な香りがただよってきた。

(ここの人はコーヒーが好きなのだろうか)

 何かとコーヒーを(すす)められることが多い気がして、私は首を傾げる。すると私の考えを見透かすかのように奥から声が飛んでくる。

「意外かもしれないが、ここでは豆が採れるんだ。逆に水は少し不足気味でね。()かさないと飲めない。コーヒーを沸かすのも湯を沸かすのも、あまり手間は変わらないから、つい習慣になってしまったんだよ」

 彼はそう言いながらお盆に、コーヒーを入れたマグカップと、薄くスライスしたパンを載せてやって来た。

「自己紹介が遅れたね。僕はレイヴァンという。君の名前は?」

 私も自分の名前を名乗った。サクヤの言う通り、確かにこの人物なら、この大窟で起きる不思議なことも、私にも理解できるように噛み砕いて教えてくれそうだ。

「せっかく来てくれたのだし、少し地底大窟にまつわる話をしようか。サクヤから何か聞いているかい?」

「いえ、ほとんど何も」

「だろうね」

 レイヴァンは、予想していた、と言いたげな顔で苦笑すると、コーヒーを一口すすり、ゆっくりと地底大窟の歴史について話し出した。


 その穴の発生の原因には諸説あり、隕石の墜落とも、地底火山の噴火とも、地盤沈下とも、伝えられている。しかし、いつどのようにあけられたものか、正確な事実を知るものは、誰もいない。

 海を深く(えぐ)り、世界の形をも変えたその穴は、〈地底大窟(ちていたいくつ)〉と名付けられ、一般的に〈大窟(たいくつ)〉と呼ばれた。

 大窟の出現からまもなくして、世界各国から調査隊が派遣されるようになると、世界のニュースは連日の新発見で持ちきりとなった。大窟内で、これまで見たことのない新たな植物や昆虫などが次々と発見されたのである。

 この発見に少しでも遅れをとるまいと、複数の資産家が大窟への投資に興味を示した。それを受けて、これまでは国家機関として派遣されていた調査隊が、民間でも組まれるようになり、大窟に派遣される調査隊の数は爆発的に増えた。大窟の周りに、調査隊のための基地が組まれると、外食や小売を営む企業が徐々に参入しはじめ、大窟を中心とした小規模な経済圏が出来上がった。

 しかし、この大窟を(めぐ)る熱狂も一過性のもので終わる。

 当時、大窟の調査に(たずさ)わった者は、ほとんど生きて戻ってこないか、成果を持ち帰ることができなかったのだ。ある一つのチームを除いては。

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