最後の開拓
翌日、私は一つの決心を抱いて、椅子の間の鎖を握りしめていた。
しばらく横になっていた反動で足が少しふらついたが、何とか歩いていけそうな予感がして、何度か爪先でトントンと床を叩と、鎖に意識を集中しようとした。
「ミクさん、もしかして、一人で行く気なの?」
ふと、横から声がして、私は驚いて飛び上がった。
「ごめん、驚かす気はなかったんだけど……姿が見えないっていうのは難しいね」
そう言いながら、私が鎖を持つ手を、上から強く握ったのはヒューだった。
「ミクさんは純粋だから、必ずイブキの扇動に乗っかるだろうと思ってね。ずっとここで待ってたんだ」
「イブキの……扇動?」
その時、ヒューもまた、イブキの発言に対して、レイヴァンとは別の解釈をしているのだ、ということに気づいた。
「そう。でも、仮にそうであったとしても大丈夫。俺が必ず守るよ。だから行こう」
その言葉には、普段の冗談めいた響きはなかった。ヒューは両手で私の体を抱きしめた。
全身から、ヒューの体温が伝わるのを感じる。
どこか覚悟を決めた気配に、私はその体を押し返すのをやめて、ヒュー自身がその両腕の力を解くのを待った。
「おい、デート気分で大窟に行くなと言っただろう。ラブシーンなら他でやってくれるか」
私たちの様子をからかいながら、椅子の間に入ってきたのは、ロブだった。これまでにないたくさんの荷物を背負い、大窟に最深部に向けて準備を整えてきたのは明らかだった。
「ロブ……どうして?」
「俺もお嬢ちゃんと同じさ。一人で潜って、あのイブキの言っていることが大嘘であることを証明してやろうと思ってな」
そう言って、手に持っていたゴーグルを頭に装着すると、空いた両方の手で、ヒューと私の背中をバンバンと叩いた。
「だが、なかなか俺一人じゃ厳しいと思ってたとこだ。最深部に行くには、お嬢ちゃんの力がどうしても要る。ヒューも考えることは同じだな。良かった良かった」
「ロブ……いいの?」
そのロブの明るい調子を見て、私は思わず尋ねた。
ロブは腕を組むと、足を開いて仁王立ちの格好になったまま啖呵を切った。
「前にも言っただろ。俺はもう、覚悟を決めてるんだ。ここで起こることに対して、いちいち動揺しないってな。支配者がいるって? だったらなおのこと、自分の目で確かめないとな」
三人はそのまま円陣になって鎖の周囲に立つと、意識を集中しはじめた。
その時、ふと、気配を感じた私がゆっくりと振り返ると、そこにはヤコが立っていた。
「ヤコ、あなたは来ないで!」
それを聞いたヤコの目に、みるみる涙が溜まっていった。
それは、奇しくも初めて出会ったときの、幼いころの彼女の状況に良く似ていた。
私は泣いているヤコを助けたつもりだったが、結果として、今度は自分が、彼女を泣かせることになってしまった。
私の胸はきりっと痛んだ。
「ミク……私のことを疑ってるのね? 確かに、私は匂いがないって言われてるし、ミクを危ない目にも合わせたし、年を取るのも人より早いし、怪しむ理由はたくさんあると思うけど……」
「ヤコ、それは違うと思うよ」
私が口を開きかけた瞬間、ヒューが先にヤコに声をかけた。
「ミクさんはさ、君のことを守ろうとしているんだ。君がそのペースで年を取っていったら、最深部にたどり着いた時に君はどうなる?」
ヤコのすすり泣きが、やんだ。ヒューは珍しく厳しい口調で、ヤコを諭した。
「俺達は今度こそ、最深部に行かなきゃいけない。進むのを一瞬でも躊躇いたくない。だから君は連れていけない。ここに残って待っていてくれ」
「ミクちゃん、お願いだから、私も一緒に連れて行って」
ヤコは、泣き顔のまま、私に訴えかけた。
「あなたの役に立てなくなったら私……もうここにいる意味はないの」
そう言いながら、ヤコが手を差し出すと、その手の先は、かつて私の足から伸びる糸がそうであったように、鈍く輝きを失い、薄く消え始めた。
「おい、ヤコ! ミク、どうにかしないと」
ロブが慌てて、私に問いかけた。
「ヤコ、あなたは一体……何者なの?」
ヤコはそれには答えず、黙って首を振った。
「今は、言えない。でも、いつか、必ず話すから。信じてほしい」
ヤコは相変わらず、涙を流して訴えかけている。私の目の前で、その指先だけでなく、身体ごと消えかけていくのを見て、私は鎖を放り出し、ヤコに向かって駆け寄ると、彼女の細い体を、強く抱きしめた。
「ヤコ、あなたのことを疑っているなんて、いつ私が言ったの? ヒューが言う通り、一緒に大窟に入ったら、寿命を迎えることが明らかなのに、それを知ってて見過ごすなんて、私にはできない」
そう言いながら、体に回した腕に力を込めると、ヤコは同じぐらいの強い力で、私の体をきつく抱きしめた。そして、ロブとヒューに聞こえないほどの声で、そっと私の耳元にささやいた。
「ヤコは、全てを知ってるの。……ヤコとあなたは、最深部まで辿り着く、絶対に」
(まさか……)
私はその言葉を聞いて、抱きしめていたヤコから、体を離した。そして、ロブとヒューの方に振り向く。
「あの二人は、最深部にはたどり着けない……あなた、そう言いたいの?」
ヤコはそれには答えなかった。
「ミクちゃん、あなたのお兄さんも、もうすぐ最深部に着くよ」
ヤコは、今度は全員に聞こえる声で、強く言った。
「ヤコはミクちゃんを、絶対に最深部に送り届けるから。だから連れて行って」
頭の中に、リーンと音が鳴り響く。まるでヤコの心に、私の心が共鳴しているかのようだった。それは、脳を揺らすほどの大きな音で、彼女の固い意志を表していた。
そんなヤコの気持ちを、私は無視することができなかった。
「ねぇヤコ、お願い。あの二人が、危険に遭わないように、サポートしてちょうだい」
ヤコは、うなずいた。
「できる限りのことは、やってみる」
ヤコと手をつないだまま、ロブとヒューのいる場所に戻ると、今度こそ、反対の手でしっかりと鎖を握った。
私はいつしか、心に大きく開いた穴の存在を感じなくなっていた。
自分の命を懸けて、行動を共にしてくれようとする仲間がいる。このチームに、イブキの言うような、悪意を持った人物は、一人もいないと信じたかった。
私は祈りを込めて、大窟の奥に飛んだ。